第2話 いざ初登校!アメリカの高校生活で出会ったのは金髪美少女!?
あっという間に運命の日がやってきた。登校初日である。
そして俺は盛大にため息をついていた。
ここはケンジントン・ハイスクールの選択科目クラスである「イントロダクション・トゥ・スタジオアート(美術I)」の教室だった。メインの校舎から離れ、校庭と駐車場を挟んで心細げに佇むいくつかのプレハブ教室の一つが授業が行われる場所である。車輪が付いているプレハブ教室なんて初めて見る代物だったが、より衝撃的だったのは先生だ。顎髭をこぼれたコーラで濡らしたこの中年の男性は、だらしない腹を露わにしたタンクトップ姿で、片手にはサーフボードを持っていた。
「おう」と彼は言うと、サーフボードを白板の前にどさりと落としながら、「今朝の波はイマイチだったな」と言った。
俺が初めて英語で聞く先生のセリフが「今朝の波はイマイチだったな」だとは思っても見なかった。渡米までの半年間、家庭教師に付いてみっちりと鍛え上げた英語リスニングスキルは決して裏切らなかったが、その内容は俺を大いに裏切るものであった。
「あー、改めて。スタジオアート担当のミスター・カーグだ。よろしく。スタジオアートって言葉には意味がない。おしゃれだから付いている」
生真面目にノートを出して先生の話すことを一字一句書き残そうとしているのは俺だけだった。生徒の大半はくすくす笑っていたり、スマートフォンをいじっていたりで、晴々しい高校一年生の初めての授業であると言うのに寝ている輩までいる。だが小太りの教師、ミスター・カーグはそんなこともお構いなしという具合で、気だるそうにクラスを見渡し、コーラを一口飲んで喉を潤しながら続けた。
「アートには正解はないが、お作法というものがある。それをこの楽器で学んでもらうが、まぁ、楽しければそれでオールオッケーだ。んじゃ、ペアになってくれ」
急にペアと言われて唖然としていた俺を尻目に、周りの連中はさっさと二人一組になって行った。おしゃべりをしていたものはおしゃべりしていたもの同士、スマホをいじっていたものはスマホをいじっていたもの同士、そして寝ていたものはいつの間にか起きたのか、それぞれペアを組んでいた。
なんとなく想像はしていたことだが、気づけば俺は孤立していた。みんな高校初日で条件は同じはずなのに、こうにも見事に俺だけが孤立すると悲しみを通り越して笑いが込み上げてきそうだ。
「あー……」とカーグ先生は俺を憐れむような目で見た。「偶数じゃなかったっけか、一限目は。名簿を見間違えたかな」と彼は顎髭をしごきながら、その言葉とは裏腹に心底困っていなさそうな口振りでいった。
「じゃあ先生と組むか……おい、英語はわかるか? 留学生?」
「日本から来ましたが、わかります」と俺は最大限発音を意識した駅前留学英語を発揮したが、先生は瞬きひとつせず、
「……めんどくさいから、どっかに入って三人組になって」と言い放った。
その時である。
俺の運命を――母国から遠いこのアメリカの地で、四年間の高校生活の行く末を決定づける瞬間が訪れた。
「ソーリー」と言いながら彼女は入ってきた。「クラスがどこかわからなくって。教室番号P105って、パーキングの105教室ってことなのね。私、フツーにメイン校舎の105室に行ったら清掃員の部屋だったから、混乱しちゃった」
みんなの息を呑む音が聞こえる。生唾を飲むあのゴクリという音と、ハッと呼吸を止めてしまう音が、この小さな教室の中でこだまするように響く。
切長な目はラピスラズリのように蒼く輝き、豊かな稲穂を思わせる黄金色の髪は陽光を浴びて部屋中を満たさんばかりの光沢を放っていた。日本では見たことがないような、まさに雪のようと言っても過言ではない真っ白な肌にはしみ一つなく、触れたら溶けてしまうのではないかと思わせるほどの柔らかさが見てとれるほどだった。
「……誰だお前」とミスター・カーグはかろうじて言い放ったが、この中年の美術教師も驚きを隠せない様子だった。
「トリクシー・コーウェンだけど?」と彼女は長い金髪を指先でくるくると弄びながら言った。そんなことも知らないのか、と。
「いや、それは知ってるけどよ……そうか、トリクシー、お前俺のクラスだったのか……そういえばそうだったな……」
サーファー先生とこの金髪女は知り合いか何かか? と思っていた矢先、ざわざわと引き潮が戻ってくるかのように、にわかに教室がうるさくなった。
「トリクシー? マジ? 『キャンディロット・インター』の?」
「え、トリクシーってうちの高校だったの?」
「すっご、こんなの初めて見るぜ」
当のトリクシー氏は、「何か?」と言わんばかりの顔で腰に手を当てて、先生にギロリとその蒼い瞳で射るような眼差しを向けていた。
「あー、じゃあ、ミス・コーウェン、座ってくれ。そこで良いだろう、その……」とカーグ先生は言うと、ちらりとクラス名簿に目をやり、「オギャーサーワーワーくんの隣だ」と俺を指差した。
「オギャー……何?」と訝しげにこちらを見つめるトリクシーに向かって、俺は小さく手を振って、「OGASAWARAです」と答えた。
トリクシーは軽く顎を引いて頷いたのかそうじゃないのか非常に曖昧な仕草をしてから、俺の隣の空いている席にどさりと座り込んだ。
クラス中の視線が、俺たちに注がれる。
「あー、タカノリ・オガサワラだ。よろしく」と俺は手を差し出す。何度も練習した、アメリカ流の挨拶だ。
しかしトリクシーはそんな差し出された手を一瞥してから、「ん」とだけ答えた。心なしか、クラス中から失笑が聞こえてくる。
「はいはい、集中!」とミスター・カーグは馬鹿でかい声を出しながら、太い手を叩き合わせた。「ペアになったな? よし、じゃあ今日はお互いの顔を描いてもらう。今から紙と鉛筆を配るからな、これでお互いの顔をよぉく観察して描いてくれ。上手い下手は気にするな、どうせみんなこの学期が終わりゃ上達するんだ。そのギャップにびっくりする必要があるから逆にあんま上手く描くなよ。じゃ、二十分間やれよ。おしゃべりはほどほどにな」
紙と筆記用具を配り終えると先生は白板の前に座り込んで、何やらたわしみたいなものでサーフボードの手入れを始めた。自由すぎるだろう、自由の国。
画用紙を机の上に広げて、鉛筆を並べて用意をしながら「先生、自由だね。コーラ飲んでいたよ。俺、日本から来たんだけど、日本の先生は授業中コーラなんて飲まない」と俺は最大限フレンドリーさをアピールした笑顔を作りながら、隣で頬肘をしながら時計を見つめている金髪少女に言った。
だが当のトリクシーは俺をチラリと見てからガサゴソと黒いリュックサックを漁り、そこからスターライクス・コーヒーの紙コップを取り出し勢いよくストローでその中身を啜った。何も口に出さなくても「何か?」と訴えてくる、眉を顰めてジトっとした目線をやられると、俺はヘラヘラした笑顔をすぐに消し去って、俯いた。
ヘーゼルナッツとクリームの甘さと、コーヒーの刺激的な深みのある香りが一気に漂う……生徒までも授業中にこんなもの飲むのかよ。自由すぎだろう。
俺は配られた画用紙と鉛筆を交互に見つめてから、改めて隣に座り美少女に目をやった。うん、やはりブロンド・ブルーアイのべっぴんさんである。アメリカは広いから、今まで見たことないような外人さんのイケメンや美女がいくらでもいるだろうとは想定していたが、まさか初日から拝めるとは思わなかった。こんな人がいっぱいいるんだなぁ、世界は広いなぁ、なんて思いながら、その感動を噛み締めるようにして俺は制作に取り掛かった。ただこのトリクシー・コーウェンさんの美しさを少しでも紙面に表現できれば――その想いを一心に込めて、俺はひたすら鉛筆を動かした。
一心不乱に――とまでもいかないが、それなりに真面目に鉛筆をシャカシャカさせること二十分後。
「ふざけてんの」がトリクシーの第一声だった。
「はい?」
「あんた、ジャパニーズでしょ。それとも、チャイニーズ?」
「いや、ジャパニーズだけど、それがなに……」
「ジャパニーズってさぁ、みんな絵上手いんじゃないの? アニメとかマンガとか、そういうのみんな好きなんでしょ? これは何?」
「トリクシーだよ」と俺は彼女から絵を取り上げて言った。「いや、確かに俺はあんまり絵が上手くない。でも、これ、トリクシー。目、蒼い。髪、金髪」と俺は紙面に描かれたトリクシーの似姿を指差しながら説明した。
そういえば、以前俺の英語家庭教師をしていた彼が言っていた――アメリカ人は褒められるのが好きだ、と。機嫌が悪そうなトリクシーを宥めるには、まず誉めることから入るべきだったか。
「この絵は、きみ。トリクシー」と俺は再度、強調するように言った。そして最大限、彼女が喜びそうな、賛辞を紙面に描かれたトリクシーの各部を指差しながら口にした。「見て。胸、大きい。腰、細い。トリクシー、ビューティフル」
するとトリクシーはがたんと大きな音を立てて立ち上がり、俺から紙を奪い取って、馬鹿でかい声でほぼ叫ぶように言った。
「ばっ、馬鹿じゃないのお前!?」
「おいおい、どうした。何があった、騒がしいな初日から」と本日ほぼ何も教えていない教師であるミスター・カーグが割り込んできた。
「どれどれ、見せてみろ」と彼はトリクシーが震える手で持っている画用紙をひょいと持ち上げると、ニヤリと笑って言った。「トリクシー、いい絵じゃないか。お前の特徴がよく取れていると思うぞ。金髪を表現するために、寝かした鉛筆で薄くしてから、消しゴムを使ったのはいい。挑戦的だ。ボディラインもメリハリが効いていてよくできている。目は少しコミック的だな。手癖で描くんじゃなくて、本物をよく観察して描くといいぞ」
そう言って紙を俺に返すと、ウインクしながら美術教師は言った。
「観察が大事だぞ、オギャー・・・サワーラ」と彼はほとんど舌を噛み切りそうになりながら俺の名前を言うと、眉間に皺を寄せすぎて怒り心頭といった様子のトリクシーを指差し、「観察をするんだ。ほら、トリクシー、ビューティフル」と俺の真似をして見せた。
どっとクラスが沸いて、トリクシーは今まで見たことがないぐらい顔を真っ赤にして、リュックサックを鷲掴みすると大股でズンズンとクラスから出て行った。ちょうど一限目の終わりを告げるベルが鳴る――初日の授業時間は短縮されており、三十分で終わる。ミスター・カーグはげらげらと、下品だけれどもどこか憎めない声で腹を抱えながら笑い、二限目へと向かっていく俺らを見送った。さっきまで寝ていた連中もベルの音には耳ざとく反応して、スタコラと撤退していった。
俺は自分の荷物をまとめながら、先ほどまでそこに座っていたトリクシーのことを考えながら隣の空席を見つめた。
アジア人である俺と違って、彼女の透けるように白い肌は紅潮すると本当に紅色になる。その赤い顔を鉛筆でどう表現いたら良いのだろう、と考えながら、俺は画用紙に目を落としたのだった。