第17話 あの子のことを考えると、本当のことなんて言えなくなる。
「お前ら、何してる! おい、マシューズ、ベルチャー!」
急に俺の頭が離されて、衝撃で後ろに転けてしまう。
「カーグだ」「いくぞ」とノッポと小太りは小走りでその場を後にする。
後頭部をさすりながら立ち上がると、カーグが太い手を差し出してくれた。手を掴み返すと、起き上がるのを先生が支えてくれる。
「大丈夫か、オガーサワラーラー?」
カーグ先生の発音は学期初めよりは幾分か改善されたが、まだどこか怪しい。
俺は頷き返して、手を振る。
「大丈夫です」
「本当か? よく見えなかったが、あいつら、お前のことを突き飛ばしたのか?」
「いや……」
突き飛ばされたのではなく髪の毛を掴まれたんです、と言おうとしたが、言葉が喉から出かかったところで、トリクシーの言葉が蘇ってくる。
――あんたがボコボコにされたりしたら、それこそ大事になって私の仕事に響くってわからないの?
トリクシーが今何の仕事をしているかはわからないが、それはきっと、彼女が辛い思いをしてやっと手に入れた仕事だ。そして彼女は仕事に対しては一切妥協をしないだろう。俺ごときが、くだらない喧嘩のせいで、もし彼女の仕事を潰してしまうことがあったら……。
そう考えると、出かかった言葉を飲み込みざるを得なかった。
「大丈夫です。自分で、転んだだけです」と俺が言うと、カーグ先生は片眉を上げた。
「お前、大丈夫か? お前の今日描いていたあの絵を見たが、お前……。何かあったのか?」
「大丈夫です、何もないです」と再び俺は冷静に言うが、カーグ先生は首を振った。
「わかった。オガーサワーアがそう言うならそれでいい。だが最初の日に言ったことを覚えているか? 被害を容認したら、お前も加害者と変わらないぞ。何かあったらちゃんと声を出して言うんだ。わかったな?」
はい、と俺は力無く答えたが、心はもうすでにここになかった。
トリクシーの仕事を、彼女の人生を傷つけたくない。そう考えるばかりで、俺の後頭部の痛みはどこか和らいで行ったようだった。
俺の人生は、日本で過ごしてきた十数年はほとんど消えてしまった。誰も俺のことなんて覚えていないだろう。
だがトリクシーは違う。彼女は輝かしい功績を残してきたし、これからもきっと輝かしい道を歩むのだろう。俺のような半端な存在がそれを汚していいわけがない。過去もないような、こんな人間が……。
俺はカーグ先生に軽く会釈すると、そのまま二限目へと向かったのだった。トリクシーが今日休みでよかった、今の場面を見られていないでよかったと、心の中で感謝しながら。
***
「そうかぁ、そうなんだね〜」
「まぁ、そんな日もあるさ。アニメのセリフで言うなら、『笑えばいいと思うよ』だ。今度は来学期末のダンスに誘えよ、な?」
トリクシーにダンスを断られてしまったことをなかなか打ち出せていなかったが、色々と吹っ切れた気持ちになった金曜日の今、俺はサーニャとアリソンに妹とモープに行くことにしたと打ち明けた。
彼らの反応は先の通り随分と慰めムードのものだったが、俺は別に残念とはもう思っていなかった。俺みたいな半端者が一緒にいていいわけがないと、最初の頃の考えに回帰しただけのことだった。
「そもそもよ、一学期の終わりで急にダンスだなんて、そりゃお前、呼べる相手なんていないよ普通」サーニャは唇を尖らせて悪態をついた。
アリソンも頷いて、「そうだよねぇ」と続けた。「私の周りも、そんなのいないって、みんなそうみたいだからさぁ、そんなもんだよ〜。でも、そんなこともあるし、そんな気にしちゃダメだからさぁ、もう来学期であれだからさぁ」
「まぁ、あんまり気にしちゃいないけどさ」と俺はなるべくひょうきんさを出して肩をすくめて見せて、「んでも、妹を連れていくのに一つ心配事があってさ――俺がロリコンだと思われないといいけど!」と笑いながら言った。
しかし俺のギャグはあまり受けなかったらしく、サーニャは「ああ」と言うだけで、アリソンはどこか複雑そうな表情を見せていた。
「じゃあ、私が写真を撮ってあげるから、イヤーブックに『妹とモープに参加する小笠原くん』って書くね?」と彼女が真剣に言うものだから、
「いや、出版されるのって修了式の時だろ? 誤解が晴れるとしても遅すぎるだろ……」と突っ込んでおいたが、
「じゃあ、ダンスの運営委員の子が友達にいるから、家族のゲストは名札の色を変えてもらうように言っておくぜ」とサーニャがまた明後日の方向の提案をするから、俺は「もういいよ」と笑うしかなかった。
俺が笑うと、二人も釣られて笑ってくれる。
苦しい時も、こうして友達と呼べる存在がいるのはとても嬉しいことだった。
「でも、タカって妹がいたんだな。中学一年生ってことは、小学校卒業してからこっちきた感じか。結構、大変なんじゃないのか? 異国に馴染むのって、友達と離れるのは結構きついだろ。特に女の子じゃ……」とサーニャがしんみり言う。
「あぁ、まぁ確かに最初はちょっと嫌がっていたかな。でも、すぐに友達ができたんだよ。同じ中学校一年生にさ、日本人がいて。妹と違ってもっと前からアメリカにいるらしけど、そのレイカって子とすごい仲良くなってさ。この間、ドレスも一緒に選びに行っていたよ」
「そうなんだ、それはあれだよねぇ、いいよね」とアリソンがエクボを作って両手を合わせて笑顔を見せる。「やっぱ友達がいるといないとじゃ、違うからね〜。 ね、サーニャ、そう思うでしょ?」
しかし水を向けられたサーニャはどこか上の空で、俺の顔を呆然と見ていた。
「サーニャ?」と俺が言うと、彼はようやく気づいたようで、
「お、おお、そうだな」と曖昧な返事を寄越した。そしてすぐに、「あー、なんだっけ、タカって、親が楽器屋さんなんだっけ?」と話を変える。
「楽器メーカーな。本人は全然弾けないのにピアノ売ってるんだぜ、ウケるだろ」
「へぇ。俺、ピアノ結構得意だけど」
マジで、と驚いた俺に、アリソンが説明する。
「ほら、ロシア人ってすごい芸術肌じゃない? だからサーニャのご両親もそれを重視してるんだよねぇ」
「そうだったのか、サーニャ君の将来はチャイコフスキーか」と俺が囃し立てると、サーニャは違う違うと首をぶんぶん振った。
「そんなんじゃねえよ。大体俺の両親もロシア系だけどアメリカンだし、親父なんてピアノなんて叩き割るんじゃないかってぐらいのムキムキで、芸術とは程遠いぜ? ただ、楽器はやろうって家の教育方針だっただけだよ」
「じゃあ今度、うちの親のところのピアノ買ってくれよ」と俺が茶化すと、サーニャはまたしても首を振る。
「無理無理。うち親が警備員で薄給だし、母親は仕事してないしで、ぜんっぜん金ねーんだわ」
ケラケラと笑うサーニャと、微笑むアリソン。二人ともとても楽しそうで、俺までも楽しくなってくる。
「アリソンの親は何してる人なの?」と俺が聞くと、アリソンは不敵な笑みを浮かべて、「あぁ〜まぁ色々的な」とはぐらかした。
続きを聞こうにも、昼休み終了のベルが鳴る。それぞれがリュックを手に、五限へと向かっていく。
「今週も終わりかぁ」とサーニャは、小さいからだに似合わない大きなリュックを背負って、ここ数日段々と強まってきた風で乱れた銀髪を手で撫で付けながら言った。「そしたらもう来週は期末だろ、そしてダンス。あぁ〜早いなぁ」
「早いねぇ」アリソンも首肯する。「あっという間だ」
「んじゃ、また来週な。みんな試験頑張ろうぜ」と手を振って、俺たちは別れた。




