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第13話 ハリウッド女優を、ダンスに誘う。

 金髪の少女は、今日は黒い野球帽を被っていた。どこかのチームのロゴがついているのであろうが、米国のスポーツ事情をよくわからない俺にはそれがどこのものかはわからない。だがそれが何であっても、トリクシーの小さな頭にはとてもよく似合っていた。

 彼女は金色の髪をサラサラと揺らしながら、足早にプレハブ教室を後にして、二限の授業へと向かっているところだった。


 何度も見慣れている光景であるはずなのに、すれ違う生徒たちがハッと息を呑んで立ち止まる。トリクシーにはそれだけのオーラがある。ドラマに登場するキュートなチアガールよりも、鋭くも美しい刀身を思わせる高校一年生の、本物のトリクシー・コーウェンの方が、遥かに迫力があるのだ。


 そんな彼女を俺は急いで追いかけて、なんとか隣に並ぶ。


 トリクシーは俺を一瞥して、すぐに興味を失ったかのように前を見た。一切の感情の揺らぎを見せない、静かな湖畔のような表情だった。

「トリクシー」と俺が声をかけると、彼女は歩調を緩めることなく、「なに」と返した。

「相談があるんだけど、ちょっといい?」

「サインなら書かないわよ」と彼女は言うと、俺の方を今度はしっかりと顔を向けて見て、立ち止まった。

「えっと、二限、急いでる?」と俺は急に言葉がたどたどしくなるのをなんとか抑えようと、胸に手を当てて、心を落ち着かせながら言った。どう言うことか、鼓動が信じられなく早い。心臓のどくどくと鳴る音を彼女に聞かれないか不安に感じるぐらい、高鳴っている。


「どう見えるの」と彼女はため息をつきながら言って、肩にかかった長い金髪ひと房をサッと手で払った。

「急いでいるように、見える」と俺は絞り出すように言った。「でも、できれば、話したい」

 トリクシーは俺の瞳を、あのプレハブ教室の壁で座り込んで泣いていた時のように、その奥にある脳内まで覗き込もうとしているかのようにじっと見つめて、やがて長いまつ毛をはためかせて目を閉じた、再び嘆息すると、


「いいけど」と短く答えた。「どうせ、次の授業つまんないし」



 トリクシーと俺は、図書室の前にある小さな木陰に来ていた。誰もその存在を知らないような水飲み場と、いつ補充されたのか怪しい自動販売機、そして気持ちよさそうに野良猫が寝ているコンクリートのベンチがある空間である。図書室が入る複合施設と、街路樹が完全に影に覆われた空間を作り出していて、直射日光がきつい中でここだけ季節が違うかのように涼しい。たまたまカーグ先生の手伝いをする時に通っていたことで発見したが、ほとんど忘れられているような場所である。

 この野良猫はいつもここで昼寝をしているようで、パソコンクラブの西側の窓がちょうどこの広場に面しているので、俺はよくその窓を開けて、涼しげな空間で猫が満足そうに寝ているのを見て癒されていたのだ。


「こんなところあるんだ」とトリクシーは言葉の割にはほとんど感心していないような口調で言った。

「俺も最近見つけたんだ。結構いい場所でしょ」と明るい声で返すが、トリクシーは俺の方を見ようともせず、ベンチの上で眠る猫を見つめていた。猫は一瞬こちらをちらりと見たが、すぐに興味を失ったように目を閉じて、耳を数回ピクピクさせてからまた静かに眠りに戻った。


「何か飲む?」と俺は自販機を指差すが、トリクシーは首を横にふる。

「私、コーヒーか、ミネラルウォーターしか飲まないから」とこちらを見ようともせずに彼女が言うと、俺は肩をすくめる。

「で?」とトリクシーはもう何度目かわからないため息をついて、ゆっくりと首をこちらに向けた。ばっちりとメイクが決まっているが、どこか疲れている様子で、あの時ほどの迫力を感じない。

「あの、今度、ダンスがあるだろ」と俺が言うと、彼女の目から光がスッと消えるように見えた。それはたまたま、太陽を大きな雲が遮り、ただでさえ影に包まれているこの空間をさらに薄暗くさせたからかもしれない。でも俺は確かに彼女の中に、何か感情のスイッチが切れたような様子を見出した。


「そんなくだらない話のためにあたしを呼んだの」


 トリクシーは見るからに不機嫌だった。それはあの高校初日、トリクシーの下手くそな絵を描いた時とはまるで違う、心底侮蔑するといった表情だった。明らかに期待していたものよりも遥かにひどいものが出てきたかのような、残念さを通り越して諦めと、いささかの哀れみすら抱いているような、ひどく冷たい表情。

「あんた、ジャパンじゃどうなのか知らないけどね」と彼女は俺に向き合って、手をかたく拳に握りしめながら言った。「女の子はアクセサリーじゃないからね。ドラマに出ている子を隣に置いて、自分を飾り立てようなんて思わない方がいいよ。私はそんなもののために動いたりしないから」

 トリクシーはそう言うと、これ以上話すことはないと言わんばかりに俺に背を向けて、木陰を後にしようとした。


「待ってくれ」


 思わず、大きな声を出してしまった。トリクシーの足が止まる。ベンチの上で寝ていた猫が驚いて飛び上がり、コンクリートの座席の下へと潜り込んで、警戒する黄色い目をこちらに向けた。

 あたりは水を打ったかのごとく静かで、風が吹くたびに、足元の葉っぱの影が左右に細かく、まるでさざなみのように動いた。


「待ってくれ、トリクシー。信じてもらえないかもしれないが、俺はそんなふうに君のことを思っていない。俺は……俺は、バーナデットとダンスに行きたいわけじゃないんだ」


 トリクシーはゆっくり振り返って、怪訝そうな表情で俺をつま先からゆっくりと、まるで初めて見る宇宙人を観察するかのように頭の先まで視線を動かした。右手で左腕を掴んで、警戒するような動きで、俺と向き合う。


「きっと、君を見て、『キャンディロット・インター』のバーナデットを見出す人ばかりだろう。俺も見たよ、あのドラマのバーナデットは最高のキャラクターだったと思う。トリクシーじゃないとできなかったと思う。でも、俺はバーナデットには正直興味がないんだ。どんだけ可愛くても、あれはトリクシーじゃないだろう? あれはバーナデットで、バーナデットはテレビの中にしか存在しない」


 トリクシーは掴んでいた左手をゆっくりと離し、振り返った際に肩に乗った髪を掬い上げるようにして後ろに回した。彼女の表情は以前険しいままで、カリフォルニアの雲ひとつない青い空よりも遥かに深みのある青色の瞳をこちらに向け、俺の真意を測ろうとしているようだった。


「俺は、テレビに出ている君じゃなくて、このケンジントン・ハイスクールに通う、同じ高校一年生の君を誘いたいんだ。トリクシー・コーウェンその人を誘いたいんだ」

「バーナデットも」と彼女はゆっくりと口を開いた。「バーナデットだって、私だよ」


 トリクシーはゆっくりと呼吸をして、少し遠いところに目をやった。

「バーナデットの性格とか喋りかたは、確かに普段の私とは違う。でもそれは役だからじゃない。私の中に、もう一人バーナデットという存在を住ませて、その人を呼び出している。どちらも私であって、どちらかだけが本当の私なんていうわけじゃない。あんた、演劇というものを履き違えているね。台本に存在するキャラクターになりきって、その人のフリをしているだけじゃ、素人芸なんだ。私はトリクシーであって、同時にバーナデットでもある。次のドラマだってそう。全部私だから、勘違いしないで」

 その彼女の力強い断言に、思わず身じろいでしまった。言葉に圧力というものがあるなら、まさにこれである。全身を突風であおられたような、強烈な圧を感じたのだ。それでも俺は、どういうわけか――普段の自分なら、そこで諦めて踵を返していただろうに――どこかムキになったのか、それとも、自分の気持ちが伝わらないことに必死になったのか、再び彼女に立ち向かった。


「そうなのかもしれない。俺は演技なんて何もわからないし、トリクシーが前言っていたように、どれだけトリクシーが辛い思いをしてドラマに出ていたのかもわからない。でも、同じぐらい、トリクシーも俺のことがわからないはずだよ」

 トリクシーは目を細めて、少し首を傾げ、形の良い唇を固く結んだ。

「あの時、泣いていたトリクシーを見て、俺は思ったんだ。生の感情をむき出しにしても、こんなに綺麗な人はいないって」


 あはは、とトリクシーは笑い始めた。あまりに笑うものだから、ベンチの下に隠れていた猫が飛び出してきて、ものすごい勢いで木陰から走り去っていった。


「あんた、面白いね」

「真面目だよ」

「そりゃわかるよ。あんた、外国に来て、慣れない言葉で、よくもまぁそんなことを初対面の人に言えたね」

「トリクシーとはもう一か月以上、毎日会っているよ」

「そういうわけじゃないよ」と彼女は腹を抱えて笑って、そしてそのまま倒れるようにベンチに座り込んだ。「あんた、オガサワラだっけ。いいよ、いい性格してるよ。あんたみたいなのがたくさんいるのかな、日本は」

「いないと思うけど。もう忘れちゃった、日本がどうだったかなんて」

「早すぎでしょ」


「とにかく」と俺はベンチの上でなおも笑うトリクシーの前に立ち、右手を差し出した。「俺と、ダンスに来てくれないか、トリクシー」


 彼女はニヤリと笑い、差し出された俺の手を見て立ち上がりながら、こう言った――

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