9話:バブル期にのって株で稼ぐ
やがて春を迎え、3月を迎えると、イカナゴが、多くとれるが、値段が安く儲けが少ない。イカナゴの次、5月頃から獲れるのがサワラ。一般的に冬に漁獲される「寒ザワラ」が身が締まり脂が乗っておいしい。
そう言われるが、岡山県では産卵のために瀬戸内海に入ってくる5月頃、真子や白子と一緒に食べる文化があることから5月頃が旬とされている。その後、6月は下旬に梅雨前線の活動が活発化。
そして、西日本を中心にかなりの降水があり、月間日照時間が平年を下回った地域が多かった。7月は、中・下旬を中心にオホーツク海高気圧の勢力が強く、北海道~関東地方の太平洋側を中心に低温が持続した。
この期間は梅雨前線の活動が活発で大雨に見舞われ、四国地方の大部分の地域で日照不足になった。それ以降も日照不足と低温が続いた。この頃の日本はバブル景気で土地の値段が高騰していた。
そんな中、1988年9月19日に昭和天皇が吐血した。それから1989年2月24日の大喪の礼頃まで自粛ムードとなった。日本の富裕層、土地持ちは、バブルに酔いしれ大儲けしハワイの別荘購入。
優雅な暮らしていたが、異常な地価の高騰に対する国民の不満が、たまった。その時の宮沢政権は「年収の5倍でマイホームを買える」政策を掲げていたが、それは実現できず絵空事になっていた。
地価を下げ、バブルを収束させる事は、一種の社会正義にさえなっていた。そうしているうちに1988年が終わり1989年を迎えた。昭和64年「1989年」1月7日午前6時33分、昭和天皇のご容体が急変し、ご逝去された。
そして、翌1月8日、平成がスタートした。平成最初の日、平成元年「1989年」1月8日は、ほぼ全国的に雨となった。まさに、天皇陛下の崩御の涙雨だと、言われた。
その後、天皇陛下の崩御により多くの催し物が中止され多くの日本国民が、喪に服した。そのうえ経済活動、バブル気分も下り坂を転げ落ち始めた。加えてバブルを収束させるため日本銀行が利上げをした。
1989年5月から1年半で5回の利上げに踏み切り、公定歩合を6%まで押し上げた。一方、小山田家では、1989年4月から双子の男の子、長男の健一、次男の健二が、地元の小学校へ入学し集団登校を始めた。
最初、2人とも、不安で、学校へ行くのを嫌がっていた。しかし1ヶ月も過ぎると同級生の友人もでき、新しく買ったランドセルと運動靴と洋服を着て、毎朝、学校へ通った。
6月の梅雨入り後から7月に掛けて、オホーツク海高気圧の影響で低温・日照不足が度重なり、北・東日本で水稲などの生育が遅れ気味となった。7月中旬には、梅雨前線が北上し本州を横切った。
九州~関東地方の各地で洪水・浸水・山側の崖崩れ大雨や竜巻が生じたが、前線は南下して弱まり梅雨明けは平年並みだった。1989年7月23日、フィリピンの東海上で発生した台風第11号は、発達しながら北上。
7月23日23時40分頃、鹿児島県大隅半島南部に上陸。その後、九州の西海上を北上し朝鮮半島に進んだ。これで、宮崎県油津で最大風速32.6メートル/秒を観測するなど、九州地方で暴風となった。
瀬戸内海でも、海が荒れ、小山田も含め漁師が、海に出られなかった。1989年10月11日の朝、ソニー株が9400円の気配値をつけてるとラジオで知ると、全株、7千株を証券会社の担当者に電話をして成り行き売りを指示。
すると、10分後、9400円で、全株、7千株が売れたの連絡が入り税引き後利益が6000万円となり投資残金が7200万円となった。これで、現在、住んでる家賃4万円の3DKの借家から家賃8万円の4LDKの家に引っ越した。
他に6人乗りのクラウンを200万円で購入。小山田の総資産は7200万円となった。これを見て漁師の仲間が、どうした宝くじでも当たったのかと聞くと、その通りだと答えた。
しかし、今迄の生活スタイルは変えず、漁師を本業にして、副業で、株投資、麻雀、競輪、競艇を続けた。その日と翌日の2日間、海は、荒れていて、漁は休みになった。
やがて、秋風が吹き始め、秋が到来し11月、12月となった。やがて1990年が終わり1991年を迎えた。この頃、1989年5月からの日本銀行による公定歩合を引き上げが、続いた。
1990年末、公定歩合6%、過去最高の金利となった。そして 社会問題化したバブルを潰したことで、三重野康日銀副総裁「当時」は「平成の鬼平」と称えられた。
株価の下落は1990年1月から始まった。日経平均株価は1990年10月末に2万5000円台に下落。こうした中で、株価の下落に続いて地価の下落が始まった。
公示地価は株価の下落から1年遅れの1991年に下落に転じ、住宅地で前年比マイナス5.6%、商業地でマイナス4.0%と17年ぶりの下落を記録してバブルは崩壊した。