3話:不妊治療で子供誕生
今年の冬、小山田は、彼女と2人で漁がない日、2泊3日で、暖かい沖縄旅行へ出かけ、素敵なホテルで逢瀬を楽しんで過ごしてきた。その後、1976年、1977年と足早に過ぎ1978年を迎えた。
そして、3月、ソニー株の株価が、下がり、真崎と小山田が、615円で1万5千株購入。その後、1978年6月、真崎夫妻に待望の赤ちゃんができたと真崎が、麻雀の時、小山田に話した。
それによると真崎の奥さんは、子供ができにくい体質で岡山大学の不妊外来で根気よく薬物治療をして赤ちゃんを授かったと喜んでいた。その話を聞いた、木下洋服店の家族も大喜びしていた。
出産予定日は、1978年12月10日と告げられた。その後、夏8月、真崎の奥さんは、大きなお腹を抱えて玉の汗をかいて木下洋服店で接客していた。しかし、旦那は、相変わらず、麻雀に出かけた
そして、真崎が、木下家にいるために奥さんの面倒は、お母さんがしてくれ助かると話していた。1978年12月10日の早朝、木下洋服店に、子供が誕生し、キリッとした感じの男の子であった。
立派に立って欲しいという願いから、真崎立男と名付けた。数日後、家に帰ってきた真崎の奥さんの面倒も、お母さんが見てくれて、お父さんも可愛い孫の誕生に笑いが止まらなかった。
まして、男の子ができたので、うれしくて近所、親戚にも、ふれまわった。1979年、初詣で、もちろん子供の成長を願った。その後も木下洋服店では、お客さんが途切れると祖父母が、孫の立男の元へ来た。
そして、その可愛い顔をを見て、あやしてくれ、掃除、炊事、洗濯もしてくれた。真崎は、いつものペースで週に1回程度、夜、麻雀をしに来て、小山田に近況報告をしていた。
そして、お婿さんも考えようによっては、ずいぶん楽だと話した。その後、特に、真崎の奥さんの食欲がすごくなったこと以外、特に変わりなく、1979年も過ぎていき、1980年を迎えた。
今年、小山田も30歳になるが、相も変わらず、女友達に不自由することなく楽しんでいた。しかし3人の女性が、小山田と付き合っても進展がないので去った。その代わり、もっと若い女性と付き合い始めた。
しかし、なぜか、お金持ちの女性が多く小山田は、金銭的には恵まれた。その頃、木下洋服店の跡取り息子の立男君も立って歩く様になった。また、笑顔がより一層、可愛くなり、祖父母は、毎日、笑顔で仕事をしていた。
そして常連のお客さんにも立男君は、可愛がられて、木下洋服店のアイドルとなった。真崎の奥さんも元気になり木下洋服店の売上金額の計算をしては、もっと売れる商品は何かと思い巡らせていた。
その点、真崎は気楽だった。その頃、ソニー株が力強い上昇を始め、それが1981年になっても続いた。その頃、小山田の彼女の中で一番若い、岡山大学4年の兼高良江さんが事情があって早急に結婚してと言った。
そして、兼高さんは、1981年3月に、岡山大学経済学部を卒業し、実家で働く事になった。その後、5月ソニー株を2600円で全株、1500株を売り税引き後利益が3500万円となった。
小山田は、これにより資産合計が4000万円となり真崎も資産が5000万円を越えた。その年の夏、漁の仕事がない日 結婚を急ぐ理由を聞くと兼高さんの実家は、岡山でも古くからの宝飾店で跡継ぎが欲しいと語った。
兼高さんは、最近、岡山で、一番大きい板野宝石店の次男とお見合いをしてくれと、両親から頼まれたと話した。そして、その店の次男と結婚し兼高宝飾店を大きくしたい様だった。
それが、嫌なので小山田さんと結婚したいと言う訳だ。そう言われても学のない雇われ漁師なので、もし両親が駄目と言ったらと聞いた。すると、その時は、小山田さんと駈け落ちしても、家を出ると言った。
この話を聞いて小山田は、困った。小山田が、結婚の話をしても、彼女の御両親が、私達の結婚を許してくれない可能性の方は、低いと、小山田は、冷静に言った。すると、兼高さんが涙を流した。
でも、実家は、弟が2人いるから、私が、もし駈け落ちしても大丈夫よと小山田に抱き付いて泣いた。その姿に、ほだされ、それでは、来週、漁のない日に、電話して、兼高宝飾店をたずねることにすると答えた。
すると、ありがとうと言いながら泣き止んだ。しかし、小山田が、兼高宝飾店をたずねると、冷たい視線で見られ、早々に店を出た。そして翌週の風雨の強い日、電話で彼女に兼高宝飾店に閉店後、21時に来てと言われた。
21時、兼高宝飾店に行き、店の奥の部屋に入り、小山田は、正直に漁師をしていると話した。年齢31歳、漁師をする傍ら、日本株投資をして、現在の資産は4000万円と言うと、驚いた様子だった。
これを聞いた、兼高さんのお父さんが、漁師では、そんなに、稼げないだろうと言った。そこで、漁師13年で、蓄えた金は200万円で、残りの3800万円は投資で稼いだと答えた。