10話:株価降下、天候不順、不漁、株投資
1990年2月21日の日経平均が、35734円、-1161円、-3%、2月26日が、33322円、-1569円、-4.5%、3月19日のが32623円、-1353円、-4%。4月2日28002円、-1978円、-6.6%
4月17日の日経平均価格が19009円、-1426円、-7.0%と下げた。日経平均株価が、1990年2月21日35734円から9月26日22251円の約7ヶ月の間に37.7%も下げた。
つまり、日経平均株価の下げから見ると、完全にバブル崩壊したことがわかる。しかし、土地の価格が下がり始めたという実感はなく、今迄みたいに、土地価格の話題がなくなった程度だった。
バブルの崩壊は、金融機関から金を借りて株や土地に投資した企業や個人に多額の損失を与えた。銀行から資金を借りてまで投資した企業や個人は、借金の返済を迫られる。
担保としていた自分の所有する土地や株を売ってもバブル崩壊で価格が下がっているので、例えば、10億の土地が5億になったら売っても金が作れない。返済するための資金にならない。
だから銀行に借金が返せなくなる。そして銀行からみれば、回収できなくなったお金が不良債権。積極的に融資を行っていた金融機関の多くは、貸し出し先が、倒産したり、経営悪化に陥った。
そのため、お金を返してもらえなくなりして、巨額の不良債権を抱え込んだ。このバブル崩壊で、土地投資のため銀行をはじめとする金融機関に大金を借りた。
そして土地を買いあさった、バブル亡者が、一気に凋落し、多額の借金の取り立てを受けた。その結果、ある者は、自己破産したり、ひどい場合は、飛び込み、首つり自殺する者まで大勢現れた。
しかし、日本人の特性なのか、そう言う報道は、ほとんど出ることなく闇に葬り去られた。こんな世の中の流れに対して、小山田は、昔と変わらず、良い天気の日には、漁に出て魚を捕った。
そして、海が荒れると漁を休んで仲間と麻雀したり飲みに言ったりして過ごしていた。こう言う姿を見ていた船の持ち主の漁師の総元締めも土地投資をして多くの借金を抱えて目の色を変えて金策に走った。
1991年の気候は、昨年と同じ様に、夏の低温、長雨と日照不足だった。5月以降は前線が本州南岸付近に停滞しやすく、九州地方を中心に西日本では曇雨天が多かった。
九州地方から関東甲信地方では平年より2週間程、早く梅雨に入った。7月は上旬まで前線が本州南岸上に停滞。このため、5月から7月中旬まで九州・四国・中国地方では長雨、日照不足が続いた。
7月21日頃には、中国・近畿・東海地方で梅雨が明けた。9月中旬から10月には秋雨前線が本州南岸に停滞し、曇雨天が続いた。この年、大きな台風が日本を襲った。
1991年9月23日にはフィリピンの東海上で中心気圧925ヘクトパスカル、最大風速50メートル/秒の大型で非常に強い台風となった。瀬戸内海沿岸では高潮被害が発生した。
それにより、広島県では風害と共に重要文化財である厳島神社の能舞台が倒壊したり屋根が吹き飛んだ。また、多くの世帯でテレビアンテナが倒れ、屋根が飛ぶなど大きな被害が出た。
さらには吹き返しの風も強く、秒速60メートルの風が吹き荒れ沿岸より40キロ先の内陸にかけて電線に海水がかかり降雨がほとんどなく、塩害が発生し、長期間にわたり停電になる地域があった。
その後、中国電力は電柱に塩害対策を行った。1991年、夏になっても秋になっても海は荒れ夏の低温、長雨と日照不足は変わらなかった。そのため漁に出られない日が、多かった。
初めのうちは、気にせず、麻雀と飲み屋へ行って騒いだりしていたが、あまりの天候不良と漁獲量の少なさで、小山田は、気にしなくても、仲間の漁師の懐具合が悪くなった。
そのため、アルバイトや建築工事、大きな工場の季節労働者として働き生活費を稼いだ。それでも1991年3月から2年7ケ月、バブル崩壊による不況は継続し続けた。そして1992年となった。
1992年8月19日も漁から帰り、ラジオ短波で、その日の後場、ソニー株の値動きを聞き3400円の指値で1万株買いを指示すると3400万円で購入でき投資残金が3900万円となり500万円が預金として残った。
しかし今年は、漁に出られる日が少なく預金と取り崩して生活費に充てざるをえなかった。そこで投資残金から400万円を普通預金に移し900万円を使える様に、投資残金が3000万円となった。