8.魔王降臨
私は傭兵たちを扉の外に待たせて、一人中へ踏み入りました。辺りの気配を探りつつ、声をかけます。
「お約束通り参りました、殿下。対談の場を設けていただけますね」
「この二年、一人も突破したことのない玉座への道だったが。会わない間に腕をあげたようだな、レムル」
ラヴィル殿下がくいと尊大に顎をあげます。
いえ、だから私はレムルではなく、レミリアですってば。
体格のいい傭兵たちを見慣れている眼には殿下は華奢とさえいえます。けれど眼を離せない存在感があります。玉座に座る彼に圧倒されながら、一歩一歩、近づきます。
距離が縮まるにつれ、はっきりと見えてくる彼の姿。艶やかな黒い髪、こちらを見おろす紫の瞳。
間近で見る殿下は昔と少しも変わっていません。いえ、もちろん今はもう十九歳におなりなのだから、昔のような子どもではありません。ですがそんな年齢や外観の問題ではなく、殿下を見ていると胸が思い出でいっぱいになってしまうのです。
……そう。さんざん彼のあくどさを見せつけられた、あの日々の記憶で。
その瞬間、私は彼に門前で拾った小石を投げつけていました。
石は殿下の手袋をはめた手で受け止められます。それは予測内。殿下がそちらに気を取られた隙に距離をつめます。階を蹴り、玉座に座る彼の膝にのりあげる形で、彼ののど元に陛下からの命令書を突きつけます。
「情熱的だな。男の膝にのりあげてくるとは」
「ご無礼はお許しを。この広間で安全な場所は唯一、殿下のお傍しかありませんから」
私はちらりと背後に眼をやりました。
さっきまで歩いていた床がきれいになくなって穴が開いています。
落とし穴です。
広間に足を踏み入れた時、妙に足音が響いたので、もしやと思ったのです。他にも柱の影や天井、壁際に飾られた甲冑などから不自然な気配を感じます。
「ずいぶん厳重ですね」
嫌味を言うと、彼が笑みを浮かべました。実に魅力的で黒い笑みです。
片頬をゆがめるようにして浮かべられた魅惑的な笑み。
そう言えば幼い頃、私も兄もいけないとわかっていても、この笑顔に何度も惑わされて、いろいろ悪戯に加担させられたのでした。
この人は自分の容姿と声にどれだけ破壊力があるかよくご存じなのです。そしてその使い方も。
「……私を懐柔なさろうとしても無駄ですから」
何年、殿下とつきあったと思われますか、と言うと、彼もまた懐かしそうな顔をなさいます。
「共にいた年数は覚えているのに、俺の命は忘れたか? お前とディーノには敬語はよせと命じた。俺はまだ撤回していない」
「そういうわけにはまいりません。あなたは王族、私は臣下、けじめはつけませんと。もうお互い大人になったのですから。それよりいじくらないでください。私はあなたの玩具ではありません」
「本人確認をしていただけだ。うん、多少は体に肉もついたし背も伸びたが、頭蓋骨の形は変わっていないな。確かに俺のレムルだ」
「妙なところで個体識別をしないでくださいっ」
頭をなでると見せかけて、ぐりぐり圧力を加えてくる手をふりはらいます。
扉の外からは傭兵たちだって見ています。膝に横抱きにされていいようにいじくられる、情けない次期当主の姿を見せるわけにはいかないのです。
「とにかく約束です。宮廷までご同行願います」
「俺は何の約束もしていないぞ。中で話を聞こうと言っただけだ。それにそんな上から目線に俺が従うと思うか?」
「いいえ。あなたは従ってくださいます。私にではなく、陛下に」
私はまっすぐに殿下を見すえます。
「天邪鬼で意地っ張りなあなたが素直に従いたくない気持ちはわかりますが、同時にあなたは昔から兄君が大好きな弟君でしたから。そこは今でも変わっていないと私は信じています。もちろん陛下も」
二人の眼差しが絡み合います。
しばらく見つめあった後、ふっと息を吐いて殿下が髪をかきあげました。
「……まったく。変わっていないな、お前もディーノも」
指と髪の間から、まいったな、とでも言っているような、苦笑しているような紫の瞳がのぞきます。
それだけで間にあった気まずい時の空白がなくなった気がしました。
二人して無邪気な子どもだった時代に戻れたような。一緒にいても誰からも妙な眼を向けられなかった、いつも四人だけでいられた、なつかしいあの頃に。
自然、互いの口調が遠慮のないものになります。
「お前はどこまで単純馬鹿なのか。兄上にのせられただけと理解もできんのか」
「どういう意味ですか。陛下はただただ殿下のことを心配なさって……」
「俺がここを動かないのは別に兄上に反意を持つからではない。つかれただけだ。そのことは兄上にも説明してある。宮廷など欲の皮の突っ張った爺どもの巣窟だ。媚びへつらいながら裏ではこちらを倒そうと隙をうかがっている。そんな奴らの相手をするのにほとほと嫌気がさした」
「……遠い眼でかっこよくおっしゃっても、殿下の場合、まったく説得力がありません」
だってこの人は嬉々として完璧な礼節の仮面をつけながら、毒蛇の巣を泳いでいた王子様なのですから。陛下より兄のディーノよりこの人のほうが百万倍、宮廷という窮屈な世界に向いています。
とにかく私はこの方を王都へお連れすると約束したのです。
殿下が王宮に来られないというのなら、殿下が根をあげるまで私がこちらに居座り、説得するしかありません。何より。きちんと殿下から婚約破棄のサインを、王都の陛下の前でしてもらわなくては侯爵家を継げません。
それを宣言すると、彼はにやりと笑いました。
「つまり、俺が動かない限り、お前はここに残る、ということだな?」
「え?」
「だってそうだろう? お前は俺をここから連れ出さない限り都へは戻れないんだよな?」
「はい、そうですね」
「で、俺は動く気はない」
「そこはおとなしく、説得に応じるって言ってくださいよ」
「安心しろ。俺もそこまでひどい男じゃない。別に今の段階でそうなだけで、これからもそうだとは言っていないだろう?」
つまり?
「お前の頑張り次第だ。お前がつきっきりでうるさく言えば、俺も音を上げて都に行くと言うかもしれない。なら、お前はそれまでどうかここにおいてください、説得させてくださいと俺に頼む立場ではないか?」
えっと……。
殿下を引っ張り出すまでは私もここから離れられないのだし、それはつまり殿下の要約通り、のような? 合っているはずなのに合っていないような。なら、そういうことになる、のかな?
釈然とせず首をひねる私に、殿下がくすくす笑い出します。
「こちらはかまわないぞ、いくらでも泊っていってくれていい。なんならすぐに部屋を用意させるが? 王の使者を追い出して、街の宿に止めるわけにはいかないからな。とりあえず一家の当主候補として大人の礼をつくすべきだろう。きちんと、お願い、してもらおうか。殿下、ここにおいてくださいませ、と」
「え、えっと、お願いいたします……?」
「だがいいのか、居座って。ここは猟奇館だぞ。幽霊が出る。そういえば子どもの頃、お前はこの手の話が苦手だったな?」
ひやり。急に体が冷えた気がしました。そういえば報告書にもそういう記述がありましたね。
まずい。この弱点が未だ健在だと知られたら。どれだけ子ども扱いされてからかわれることか。
殿下が見透かしたような眼をします。私は必死に胸を張りました。
「あ、あいにくですがもう平気ですよ。ですからありがたく泊まらせていただきます。ご配慮、感謝いたします、殿下」
この時の私に、これ以外、他にどんな返事が残されていたでしょう。
殿下が、してやったりとでもいった満足そうな、何かを企んでいるような顔をなさいましたが、私にはそちらに気を配るだけの余裕がなかったのです……。