37.煌めく宝石たちの夜
殿下が私を連れていかれたのは、地下の実験室のその奥でした。
戸棚かと思っていた扉を開くと、階段があって、上へ昇るとさらに小部屋がありました。塔の上階でしょうか。レオが持っていた図面にはなかった部屋です。
「待っていろ、明かりをつける」
言って、殿下が燭台に火をともされます。とたんに暗い部屋に星空が現れました。
白、青、緑、赤、黄色……。
宝石です。さまざまな色を反射させながら、無数の石が光っているのです。
壁に造りつけられた棚にずらりと並んだ石。装飾品として研磨されたものではなく、すべて原石です。それでも不純物を含んだ鈍い色の層の下から、輝かしい色を放っています。
「これは……」
「俺のコレクションだ」
「錬金術の他に鉱石の収集もなさっていたのですか」
「ああ、大人になって自由ができたからな」
子どもの頃はそんな趣味はなかったのに、と首をかしげていると、石が一つだけ、テーブルに置かれているのを見つけました。丁寧にビロード張りの箱に入れられ、見るからに特別扱いです。
「これは?」
「アレクサンドライトという。南方で取れる石だ。大陸のここらでは出回っていないから、エルシリアに持ちこんだのは俺が初めてだろうな」
大事なものだから返せと取り上げられました。いや、さすがに壊しませんよ、そんな硬いもの。
石をよく見えるようにおき、殿下が鎧戸を開け放ちました。空を見上げて、眉をひそめられます。
「……まだ暗いな。陽の光が見えない」
「それは、夜ですから」
「椅子は……ないな。この部屋で座ったり長居したりしないから用意していなかった」
ちっ、用意しておくべきだったと言って、殿下が上着を脱いで床におかれます。
「これで床の固さも少しましだろう。まだ秋だ。暖炉もあるし、寝具がなくても凍えることはない」
それから暖炉に火を入れ、長期戦を予測しているのでしょうか。太い薪を離して並べ、脱いだ上着の横に燭台をおいて、他の灯りは消してしまいます。
「殿下?」
「こっちにこい」
「え?」
「朝まで、俺とここにいろ」
暖炉の炎が妖しく殿下の横顔を照らしています。私は……息をのみました。
***
「お嬢、どこいったんだろなー」
その頃、傭兵たちは。
突然、立ち上がると「急用を思い出しましたっ」と、まだ刺客が潜んでいるかもしれないのに駆け去った若い次期当主の姿を探していた。
もしや理解不能の自己嫌悪に陥ってうずくまっていやしないかと。緞帳をめくったり、花瓶の陰をのぞいたりしながら、最近挙動不審の雇い主について話し合う。
「なあ、お嬢のあれ、なんだろね。口じゃ嫌いだ、意地悪だって言っときながら、刺客がいるってなるとそわそわして殿下に報告をしないとってとんでっちまったけど」
「ツンデレ? ちょっと違うか。まあ、あんなふうにされたら、男としちゃたまらんだろな。殿下のこじれっぷりもわかるっていうか」
「けどお互いぐいっていけないでいるの、やっぱあの〈誓約〉があるからかなあ。二人とも若いし根っこは真面目だし」
つぶやきつつ、彼らは思い出した。民にも人気で劇にもなっている〈エメラルドの誓約〉の一場面を。
----各国の王が契約を結びたがった〈傭兵王〉、その心をとらえたのはエルシリアの若き大公。大公は傭兵王の力を得て当時公国にすぎなかったエルシリアをまとめ、王国と為した。
王となった大公は傭兵王の功績を称え、傭兵王を侯爵に叙した。そして王は大粒のエメラルドがはまった見事な宝剣を傭兵王に与えて言ったのだ。
『カストロフ侯爵、そなたの瞳と同じエメラルドを柄にはめたこの剣を、友愛の証に受けとってほしい』
『王よ、我がカストロフ家の血は王とその子らのもの。この宝玉が色を変えぬかぎり、我が一族の忠誠も変わらない。無私の心で仕えることを誓約しよう』
ーーーーー有名な一節だ。だが
「男と男の友情って言えば憧れるけど、なあ?」
「ああ、男女となると、切ないよなあ」
先代当主エルザに想いを馳せ、黙り込んだ傭兵たちの前に、執事のバルトロが現れた。燭台を手に、何やら困った顔をしている。
「殿下をご覧になりませんでしたか? お姿がないのです。もう就寝時間も過ぎましたので寝酒をお持ちしたのですが」
「え、殿下も? 実は俺らもお嬢を探していて……」
そこで、あ、とレオが口を押える。ああ、そういうこと。互いに眼を見かわす。にやり、と年長者の笑みが皆の口に浮かんだ。
バルトロが、こほんと咳払いをする。
「あー、では我々もそろそろ退散しましょうか。今日は……城内の見回りはやめておきましょう。無粋、あ、いえ、老体もたまには早く休みたいですからな」
「俺らも別棟にひきあげますよ。殿下がいるなら刺客がいても大丈夫っしょ。邪魔が入らないように、あ、いえ、外の警備だけはしっかりやっときますんで。バルトロさんもご心配なく」
あー、痒い痒い。青春だねえ、と傭兵たちは去っていく。バルトロも城内の雰囲気が少しでも良くなればと、余計な灯は吹き消ていく。
空には、きれいな星が出ていた。
*******
「あ、痛っ」
「え、おい、大丈夫か」
「……うう。殿下が悪いんです」
「なっ、今回ばかりは俺は完全に無実だ。俺は上着をしいてやっただけで、それですべって転んでぶつかってきたのはそちらだろう!」
隣合って座る時、私は仮にも王族の上着を下敷きにするのにためらって、思い切り彼の肩に顔をぶつけてしまったのです。
殿下は何やら、夜には無理で、朝になると見せられるものを私に見せたいのだそうです。
もー、この部屋に時計はないですけど、今、何時ですか? いったん別れて、夜明けとともに集合ではいけないのでしょうか。
眠いし、眠くないし。というか、殿下と隣り合って座って待つなんて、気まずくて。
赤くなった鼻をおさえて少し離れて座ると、もっとこっちにこい、寒いだろうと引き寄せられました。これで互いの距離は零、密着状態です。寒くはなくなりましたけど、温かいを通り越して熱いと言うか、恥ずかしいと言うか。……殿下は平気なのでしょうか。そもそも私の部屋ではアナが帰りを待っているはずで。こうして二人で夜を過ごしたことを知られると気まずいような。
「……あの、毛布か何か持ってきた方が。殿下、窮屈でしょう」
「いい。こうしていれば暖はとれる。それに……今、離れるとまた素直になれなくて後悔する気がする」
なんでしょう。いつにない率直な殿下の言葉に、頬がさらに熱くなってくる気がします。
長い秋の夜。
ぽつりぽつりと互いに離れていた間のことを語って。私が覚えている昔のことを殿下に補足してもらったり、間違いを正してもらったりして。いつしか闇も終わりに近づいたようです。大きく開いた窓のむこうに、白々とした夜明けの光がかすかに見えてきました。
もうすぐ、この時間は終わります。
なんだかそのことにほっとするような、寂しいような。
ぼうっと空を眺めていると、殿下がぽつりとおっしゃいました。
「……兄上と俺の仲を修正するための都行きはもう決めたことだからやってやるが。もう一つ、お前が提示した要求、婚約破棄は、お前の中でどうしても為さねばならない案件なのか」
「え。でも……、あんなものがあれば殿下もお困りでしょう?」
「別に。それに。このままでもお前だって困らないぞ。どう転んでもお前は自由になれる。知っているか。婚約はどちらかが死ねば自動的に破棄になる」
「殿下?」
「できるなら俺はこのまま最期までこの状態でいたい。俺はお前とならかまわない。だから証明書に署名したし、今まで破棄もしなかった」
言葉の前半はよくわかりません。死んだら、とか最期までとか不吉な言葉も混じっています。
でも後半のほうは?
それは過去を指しているのですよね? 二人で署名した時のことを。
私はまだ思い出せないのですけど、あの時、殿下は書かれた内容をわかっていて、自分の意思でサインしたと? そしてその存在と婚約のことを記憶したまま、沈黙を守っていたと?
何故、どうして。
私は混乱してしまいます。だって殿下は昔はどうあれ、今はもう恋人もいて、自由に彼女と過ごすためにもここに引きこもっているのでは……?
その時、夜が開けました。開け放たれたままだった窓から、一筋の光が差し込んできます。殿下が顔を上げられました。待ちかねたように、部屋の一点を指さされます。
「あれを見ろ」
「え? あっ」
暁の光が、殿下が出しておられた石にあたっています。私は息をのみました。
だって宝石の色が変わったのです。
赤から、碧に。
「ど、どうして……」
「含まれた成分のせいだ。自然光では碧に、人工の光では赤に色を変える。……なあ、〈エメラルドの誓約〉の全文を覚えているか? 言い伝えにある、傭兵王が王に忠誠を誓う場面だ」
そこでいったん言葉を切られた殿下が、静かにこちらを見られます。
「〈この宝石の色が変わらない限り、我が心は変わらない〉、だったな。傭兵王の誓約は。あの時代も今も、この国の者はこの石を知らなかった。だから感動の逸話としてあの話が流布しているのだろうが。こんなにも脆いものだぞ、石の色など」
だからお前は当主となるために婚約破棄を求めたり、そのために王の手駒になって俺の説得にあたったりしなくていいんだ、そう殿下が淡々と語られます。
それは詭弁でしょう。傭兵王の宝石はこれではありません。それは殿下だってよくお分かりです。
それでも私の心を軽くしようと言われます。
「カストロフ家は特殊だ。別にこの国の家臣で居続けなくとも、十分、傭兵稼業一つでやっていけるだろう? 必要としているのは王家の方で、追いかけていたのは俺たちの方。お前たちは自由なんだ。口さがない馬鹿どもにふりまわされることはない」
女官たちの悪口、母までも侮辱した「誓約があるのに、王家の王子方を追い回して」と言う言葉が脳裏によみがえります。
あの時、聞いてしまった私より、悔しげな顔をしておられたのは誰でした?
そう言えばあの頃もよく殿下は図書室にこもっていらして。遊ぼうと迎えに行った時、はっとこちらを見て隠された書物は、鉱物に関するものではなかったでしょうか……?
誓約など馬鹿馬鹿しい、古い遺物だと示すために、今の私たちの立場を笑って壊して見せるために、今まで通り堂々と王宮に出入りしていいんだと心が折れそうになっていた私を励ますために。手っ取り早く、よい見世物になるものは何か、考えて?
「……探してくださっていたのです、か? 私を元気づけるために」
「別に。ただ、誓約などくだらないと示したかっただけだ」
ぷいと殿下が横を向かれます。前の私なら、人の話を聞かないぶっきらぼうと思ったところでしょう。でも今なら、幼い頃の記憶が戻ってきている今の私なら、殿下のこの仕草が照れ隠しだとわかります。
「ついでに。どうも誤解があったようだから言っておくが。アナは俺の恋人なんかじゃない。あれは……友からの預かり物なんだ。身内も同然だ。そんな目では見れないし見たくともない」
私は恥ずかしくなりました。私の密かな勘違いをしっかり殿下は把握しておられたのです。
どうしてこんなに優しい方を私は意地悪だなんて思っていたのでしょぅ。申し訳なくて申し訳なくて。どうやって謝ればいいの、無理、と思っていたのに、素直に言葉がこぼれました。
「……ごめんなさい、殿下」
やっと口から出た言葉は、幼い、舌足らずな頃にいつの間にか戻っていました。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
しゃくりあげながら、彼の肩に顔を埋めます。本当の四歳の私ならきっと彼に抱き着いてわんわん泣いていたことでしょう。殿下がそっと腕を回して。一瞬ためらうように動きを止められてから、それから、ぎゅっと引き寄せてくれました。
見上げると見える殿下の横顔。
燃える暁の光を受けた殿下の瞳が、濃い赤に染まっています。
色を変えたアレクサンドライトの色、魅惑的な瞳。エルシリア王家特有の、傭兵王すら籠絡した、天性の笑み。令嬢たちは彼にまといつく私を見ればまた意地悪を言うでしょう。政敵たちも王家の犬とののしるでしょう。それでも、
「……私は、傍にいたい。あなたを見ていたいです」
私は、言いました。
一度は無理と領地に下がりました。それからずっと引きこもっていました。でも改めて彼を見たら、もうそんな真似できません。
今ならどうして幼い頃の私が、彼を意地悪だと思い込んだのかが分かります。
きっと王宮を離れた七歳の私は寂しかったのでしょう。彼に会えないことが。
だけど幼心に彼の傍にいればまた同じことの繰り返しになるとわかっていたから、戻ることはできなくて。だから自分の中で、〈彼に会わない理由〉を作ったのでしょう。
女官たちや令嬢たちが苦手だから。だから宮廷にはいかない。
殿下は意地悪だから嫌い。だから彼には会わない。
だから、私は平気だ。彼に会わなくとも元気でいられる、とーーー。
そして成長すると、自分への言い訳に、「家業の手伝いがあるから」が加わったのです。事務仕事があるから、だから社交界デビューもしない。そうすれば彼に会わずに済む。彼が……離れた間に自分のことを忘れて、他の人たちと仲良くしているのを見ずに済む。
無意識のうちにそう考えて、私は記憶を捻じ曲げていたのです。
本当は、彼の隣にいたかった。ずっと一緒に悪戯をしたり遊んだり。転げまわって遊びたかったのに。
やっと素直に認められました。私はずっと寂しかったのです。この人に会えなくて。
ここに来て、生き生きとした殿下を眼にしてむかむかしていたのは。宮廷よりここにいるほうが殿下は幸せなのだ、私が居なくても全然、寂しく思ってくれていなかったのだと、腹が立っていたのでしょう。だからわざと仕事、仕事、と自分を奮い立たせて。
「……殿下、せっかく自由に、と言ってくれましたけど。私、やっぱりあなたの犬のまま、子分のままがいいです」
だって
「殿下、最期、とか、死んだら、とか。私にまだ何か隠しておられるでしょう?」
もうわかっています。この人はこちらの心の負担を軽くするために、いつも肝心のところは教えてくださらない。でも、それでも、
「私を使ってください、昔みたいに。だって私はカストロフ家の娘、王家の盾であることを誇りに思っているんですから」
そうだ。むきになっていたけど、傭兵たちは他に雇い先があるし、領民だって使用人だって新しい領主がその地位に着けばきちんと面倒を見てもらえるだろう。元が傭兵、家名だって必死になって守らなくてはならないものでもない。だから私はいつでも爵位を捨てられる。だけど、
「殿下はどこにいられようと王弟という地位がついてくるのでしょう? 刺客も、卑劣な罠も追いかけてくる。殿下がどこに引きこもられようと、周囲はほうっておきません。どこへ行っても逃げ場はない。なら、私も及ばずながらお手伝いいたします! 私、殿下には、絶対に、幸せになって欲しいんです!」
だってあなたが好きだから。
「ありがとうございます、おかげで迷いがはれました。私は宣言します。もう遠慮はしません。もう離れません。あなたのことだって絶対に都に連れ戻しますし、陛下との仲だってとりもってみせますから! だから……、もう、死んだら、とか、最期、とか言わないでください。寂しくなるじゃないですか」
「お前……」
胸にある想いを言いきると、殿下がきゅっと顔をしかめられました。
「……だからお前たち兄妹は嫌いなんだ、カストロフ家の二人は。どんなに拒んでも、空気も読まずにずかずかと人の心に押し入ってくる。遠慮なんかしてくれないから」
吐き捨てるように言われたなと思ったら、次の瞬間、私は温かなもので包まれていました。
殿下です。
殿下がぎゅっと私を抱きしめておられて。彼の顔が見えなくなりました。
「いいか。俺は礼儀正しい男らしく何度もお前に逃げる機会を与えてやったんだ。なのにしょうこりもなくひょこひょこ飛び込んできた、お前が悪いんだからな」
怒ったように言う殿下の手が、抱きしめるだけでは飽き足らず、私の背をなでています。
「いいか、俺には、お前が言うように、まだお前に言えないことがある。嘘つきだ。それに俺といればお前はまた昔のようにいろいろ言われるぞ。俺もかばいきれるかわからない。大人になったとはいえ、それでもまだ女同士の場にはさすがに入ることはできないんだからな」
悔しげに殿下が言われました。
「それ以外のところでは必ずお前を守ってやるが。かといって、だから信じて傍にいてくれ、昔のように、とか言いにくいんだぞ。俺にだって男の矜持があるんだから」
怒ったようだった声がだんだん力を失って、拗ねた子どものようになります。欲しいものがあるのに、ずっと我慢していた子どもの声です。
「お前は、幸せになって欲しい、と簡単に言ってくれるが。わかっているのか、その言葉の意味を。俺の望みはお前と共にあること。俺の幸せはお前とともにあるんだぞ。お前の言う望みをかなえるには、お前の希望より俺の心を優先することになるんだぞ。その覚悟があるのか?」
それから、彼は体を離して言いました。真剣な声で。十九歳の殿下にふさわしい、凛々しくて、それでいて真摯な声で。
「お前を、捕まえていいか?」
「え?」
「俺が幸せになるために、お前を利用していいか?」
もちろん代償に、俺の生涯をかけて今度こそお前の心も体も、お前の愛するすべてを守るから。そう言った彼の端正な顔が近づいてきて。
額に、何かふれました。温かで、とてもやわらかなものが。
記憶がまた一つよみがえります。昔、こうしてふれられたことがありました、彼に。
頬にも何かが落とされました。胸の奥がむずむずして、全身が熱くなるもの。
また一つ、思い出しました。彼と過ごした幼い頃のことを。彼は何度も泣いている私を慰めながら、こうしてふれてくれました。
まだ忘れていることがあります。まだ思い出したいことがあります。なのに込み上げてくるものを抑えきれなくて。私が真っ赤になってしがみつくと、彼が目を細めて、もう一つ、今度は初めてとなる場所にそっと一つ、温もりを落としてくれました。
優しい、優しい口づけです。
それから、彼が言いました。
もう消えるなよ。俺の望む幸せには、お前の笑顔が不可欠なんだからな、とーーー。




