33.恋人の時間
「ほら、食べてみろ」
「い、いえ、それはいくらなんでも……」
「お前、恋人のふりをすると誓ったな?」
「そ、それはそうですが、何もここまで徹底的にバカップルをしなくても……」
「そうか。約束を反故にするのか。昨夜までこの時間さえ過ごせたら王都へ行って兄上と会ってもいいと思っていたが、やる気が失せてきたな……」
「あ、で、殿下、食べます、食べます、うわあ、おいしいなあ」
完全に棒読みで私はフォークにくらいつきました。味なんて全然わかりません。だって柱の影から伯爵父娘が凄い眼でにらんでいます。
(うう、胃が痛い。今日はイザークたちと山向こうの出城まで調査に行くつもりだったのに)
殿下の悪評は真実か否か。
聞き取り調査はすべて傭兵たちに丸投げして、私がお菓子を食べているのは、昨夜、殿下が提案してこられたからです。「昔のように共同戦線を張らないか、レムル」と。
姻戚だから無下には扱えない。かといって殿下もこれ以上、生活を乱されるのは嫌だ。
無難にお引き取り願うために、べただが恋人のふりをしろと。
「伯爵がうるさくつきまとう一因は、娘を俺の妃に押し付けたいからだ。伯爵は昔、俺たち狙いのカストロフ家の娘と、お前のことをさんざんうるさくさえずっていた筆頭だ。それを現実にしてやろう。きっと泣いて喜ぶぞ」
そう言って悪だくみをする殿下は本当に生き生きしていて。
つい、承知してしまったのですが。
「あのー、殿下、いつまでこれ、してないといけないのでしょう?」
「ああ、バルトロ、茶の代りをくれ」
全然聞いてない。
「本当に一通り嫌がらせに満足したら私と一緒に都へ戻ってくださるんですよね?」
「ああ、その頃にはお前のやっている俺の悪い噂の裏付け調査も終わっているだろう? こんなところであの脂ぎった中年男に一対一で付きまとわれているよりは王宮のほうがまだましだ。俺に二言はない」
「その時、きちんと私と婚約破棄もしてくださるんですよね」
「バルトロ、もっとレムルに食べさせやすい菓子はないか? フォークだと万が一唇に刺さると危ない。手でつまめるものがあればもってきてくれ」
こちらはまた無視ですか。
どうやら人を釣る報酬は小出しにする策のようです。今度は殿下のどんな欲求を満たせば私の願いを叶えてくださるのか。
「言っておくが、これでもお前の心を尊重して、かなり我慢したんだぞ? 見ないようにしていたのに、腹をすかせた俺の前にちょろちょろ現れたのはお前の方だからな?」
何のことですかと不満な顔をすると、嬉しげに殿下が一口サイズのチョコレートを私の唇につきつけます。
「ああ、その顔もいいな。仕事の話ばかりしたり気味の悪い社交の笑みを浮かべられるよりずっといい。ほら、妙なものは入っていないぞ、いつかの馬鹿夫人のケーキに唐辛子を仕込んだようには」
眼を細めて、妙に艶っぽい声でまた話をそらされて。腹が立ったので、ばくっと勢いよく食べてやりました。
「食いつきがいいな。正餐でもあの厨房長の料理を完食しているが、普通こう言えばたじろぐだろう」
「殿下であれば遊び半分に薬を盛ることはあっても命まではとられないでしょう? そもそもこの城に入った時点で、殿下に命はお預けしています」
何を今さら。呆れた顔で返事をすると、妙な間が開きました。殿下が顔をおさえて横を向かれます。
「……計算づくでないところがお前たち兄妹の恐いところだな」
何がツボに入って笑っているのか、肩がふるえて耳まで赤いです。
頼むから他の相手にそういうことは言うなよと念を押されて、ようやく一人でお茶を飲むことを許されます。殿下もひととおり伯爵父娘をからかえて満足なのでしょう。機嫌よくご自分もお茶を飲んでおられます。というより、なんだかうかれておられませんか。
(まったく、この人は)
伯爵への牽制はもちろん本当なのでしょうが、明らかにこちらの狼狽ぶりをも眺めて楽しんでおられます。いじめっ子殿下健在です。
やはりあの夢は勘違い?
いえ、そう思いたいだけでしょう。意地悪な殿下となら顔を合わせても気まずくありませんが、あれがすべて私の勝手な思い込みなら、後ろめたくてこんなにのんびりお茶など飲んでいられません。
あれから何度も記憶をさらいましたが、私が殿下から直接受けた意地悪は、子どもなら誰でもよくやる、からかいくらいで、後は状況から見て女官や他貴族の嫌がらせと考えたほうがしっくりくるものばかりでした。
そもそも殿下を意地悪認定した私と兄をこき使った記憶も、やはり私への嫌がらせへの報復としか思えないのです。
それに、はっきり覚えている記憶だってあります。
私が七歳の時のお茶会で、もう王宮に伺候しないと決めた原因。あれは私が殿下の悪戯に巻き込まれているのではなく、私が他の三人を巻き込んでいるのだと認識したことだったはずです。
つまり。論理的に考えると、殿下は無実で。
悪いのは私のほうになるのです。
(なのに、一言も釈明なさらないのですね、この人は……)
私はあれから十年近くも、謝罪もせず、一方的にこの方を嫌っていたのに。
それはもしかして私に罪の意識をもたせまいと気づかってくださっているのでしょうか? 子どもの頃、何も言わずに女官たちに報復していた頃と同じに。
なら、この城に来てからのからかう口調もすべて……?
改めて殿下を見ます。
薄い陶器のカップをもつ優雅な長い指。大人になってもあいかわらず端正な人です。息をしているのが不思議なくらいに完璧に整った横顔。かすかに顔をうつむけているので、長めの前髪がはらりと額に落ちています。意地悪殿下と言う先入観がなくなれば、彼がちょっとしたしぐささえもが罪なぐらいに人の眼を引きつけるとわかります。
確かにこの人を見ていれば担ぎ出したくなるな、と、見ていると、殿下がこちらを見ました。目が合います。
その眼差しがすごく甘くて。さっきまでさんざん口に放り込まれた甘味が全てわからなくなります。
「レミリア」
「な、なんでしょう」
「ずっとこうして一緒に過ごせなくて、寂しかった」
いきなり直球で言われて、ぐっとつまります。
「なあ、お前はどうすればもうどこにもいかず傍にいる? 前のように消えたりしない? ……俺はお前に何を与えればいい?」
「で、殿下?」
髪に彼の息がかかりました。
くつろいだ感じに頬杖をついて、こちらをのぞきこんでくる殿下。私の顔のすぐ横に殿下の迫力のある美貌があって。黒い髪の間からのぞく紫水晶の瞳がいつも以上に妖しくゆらめいて。
これは伯爵に見せつけるお芝居、そうわかっているのに、頭の中が真っ白になりました。
******
落ち着かないお茶会がやっと終わって、とぼとぼ一人で主塔の階段を上ります。
殿下が部屋までエスコートしてくださるとおっしゃったのですが、丁重にお断りしました。これ以上は私がもちません。
やはり謝るべきでしょう。どう考えても私のほうが悪いです。
でも何年も何年もこじらせまくった案件です。今さらどう謝ればいいかわからなくて、ため息しかでません。
とにかく体を動かそう。気を紛らわせようと、これから正餐の時間までにできることを順に考えます。
部屋に戻ってお茶会用のドレスからいつもの事務服に着替えたら、城の出納帳と格闘しているレオたちの加勢に行こうと思いつつ、階段室を出て廊下に出た途端、
殺気を、感じました。
はっとして振り返ると、そこには目立たない、下働きの服装をした男が立っていたのです。




