29.過去の夢
夜に備えて、お昼寝をすることになりました。
殿下はけっこう蟒蛇というか、飲んでも酔いが回りにくく、素面のままぐいぐいいって、限界がくるとカクンと落ちるタイプだそうです。
それって危なくないですか、と教えてくれたバルトロに言うと、殿下はご自分の酒量が分かっておられるので大丈夫だそうです。にっこり笑って自分も酔ったふりをしながら相手にどんどん飲ませて、つぶしてしまうのだとか。
「ですから覚悟は決めておかれた方がよろしいですよ、レミリアお嬢様」
バルトロにぐっとサムズアップされ、お二人のための特別なお酒です、と可愛らしくリボンの結ばれた酒瓶を渡されました。
「……アルコールを分解しやすくする薬草、煎じておいた方がいいか、な?」
私だって成人です。男集団と暮らしているので、そこらのご婦人方よりは強い方です。けれど妙に自信たっぷりなバルトロを見ると、いろいろ備えておいた方がいいと思いました。
苦い薬を飲んで、寝不足だと酒が回りやすいので、まだ明るいのに寝台に入ります。
病気でもないのにこんな時間からふかふか布団にくるまれるなど、子どもの時以来でしょうか。だからでしょうか。私は夢を見ました。
懐かしい昔の夢です。
そこは四人で一緒によく遊んだ離宮の庭でした。
厳めしい王宮の奥深く、王族が暮らす内陣にある、小さな私的な庭です。
昔、他国から嫁いできた王妃が、気づまりな宮廷生活から逃れるためにつくったという隠れ家のような庭。高い塀で囲まれて、外からは見えないようになっていました。でも一歩中へ入ると、優しい緑の木々が四方を囲む塀を隠して、こんこんと清水がわき出す噴水や隠れんぼするのにいい東屋もある、子どものためにあるような庭でした。
当然、私たちのお気に入りで。私たちはよくそこで待ち合わせをしました。
『ディーノ、レミリア、こっちだ』
『遅かったじゃないか、二人とも。待ちくたびれたぞ』
こちらを呼ぶ優しい声、大好きだった王家の二人の王子。
まだあの頃はお互い子どもで。
世間の眼や家の義務なんて知らなくて。ラヴィル殿下の意地悪さえもが心躍る遊びに思えて。子犬が遊ぶように四人でじゃれあっていました。この楽しい日々がいつまでも続かない、そんな当然ことも知らなくて、ずっと四人、この庭で遊んでいられると思っていたのです。
でもすでに騎士見習になっていた兄ディーノは当然、騎士団の勤めがあって。
一番年長だったリヒャルト陛下もすでに父王の隣で公務の勉強をなさっていました。
だから二人とはずっといられるわけではなくて、彼らは少しともに時を過ごすと、また今度、と言いながら庭を去っていくことが多くなりました。
私はラヴィル殿下と取り残されました。
ぽつんと二人立ちつくして、もう帰らない兄たちを見送りました。
いつの間にか隣に並んで。互いに手をつないで。
心細くてすがるように手に力を込めたら、彼もぎゅっと握り返してくれました。
『……俺はここにいる』
彼がきっぱりと言ってくれて。うれしくて私も言ったのです。
『わ、私も。私もずっといます、殿下の傍に。どこかへ行ったりしません!』
そこで、私ははっと目を覚ましました。
「変な夢……」
起き上がって、しばしぼんやりします。
どうしてこんな妙な夢を見たのでしょう。私に優しくしてくださったのは陛下です。殿下は意地悪ばかりして、あんなに優しく手をつないでくれたことなどありません。
頭をぐりぐりやられたりしたことなら有りますけど、あんな不気味に優しい殿下など知りません。
夢の中でお二人を取り違えたのでしょうか。
殿下の攻略法を考えながら寝たから記憶がごちゃ混ぜになってあんな夢を見たのでしょうか。
「それにしたって、夢見、悪すぎです」
もう一度寝なおそう、もっといい夢を見ようと、またもぞもぞ寝台の中に潜り込もうとして、ふと、気づきます。
「……私、殿下と手をつないだことなど、ないんでしたよね?」
そのはずです。
でもおかしいです。
なら、どうして正餐の席で殿下と手が重なった時、私は殿下の手を子どもの時の殿下の手と比べたのでしょう? 手をつないだことなどない人なのに。
これっておかしくないですか?
「え? あれ、待って待って……!」
あわてて起き上がって幼い頃を思い出します。
今まで思い出すのも嫌と記憶の底に封じていた、殿下に虐められていた頃のことを。
とっさに思い出したのは、殿下に蜘蛛の巣の罠をしかけられた時のことでした。
王宮の回廊を歩いていて、いきなりびちゃっとねばねばする大量の蜘蛛の巣に顔から突っ込んでしっまって、私がどれだけ気持ちの悪い思いをしたことか。
「でも待って、あの時、殿下は傍におられたっけ……?」
眉間に手を当てて思い出します。あの時いたのは、確か案内の女官が一人。他には誰もいなかったような。
……やっぱりおかしいです。殿下なら相手に悪戯を仕掛けたなら、その罠に相手がはまる決定的瞬間を絶対にその眼で確かめるはずです。
もしかして、あれは違う? あの時のことは私の記憶では殿下にやられたと記憶していましたが、私が気づいていないだけで、すでに女官たちの私への嫌がらせははじまっていて。もしかしてあれはあの案内の女官のしわざだったのでしょうか。
それにあんなただの嫌がらせじみた生ぬるい悪戯を殿下がなさいますか?
殿下の悪戯の数々なら、私は一番傍の特等席で見ていたのです。殿下がなさるのはもっと手が込んでいて、完成度が芸術的でさえあるものばかりで……。
混乱しながらさらに記憶を攫います。
蜘蛛の巣がかかって泣きそうになった時、助けてくれたのは誰でした?
気持ち悪くて眼も開けられなかった私の手を引いて部屋まで連れていってくれて、丁寧に顔をぬぐって、頭をなでて慰めてくれたのは? 私がぐすぐす鼻を鳴らすのをやめるまで、ずっと辛抱強く隣に座っていてくれたのは?
それからお菓子を出して面白い話で気分転換させてくれたのは、あれは……バルトロ?
私はあの時助けてくれた人をずっと陛下だと思っていました。だってとても優しかったから。だから陛下のことが好きになって。私の初恋の君なのだと思っていました。
けれど。ちょっと待って、バルトロは殿下の侍従だった人で。
陛下のお部屋にいた侍従は別の人です。
「いえいえいえ、おかしいですから! だって殿下が意地悪なのが分かってからは、私は殿下を避けていて、殿下のお部屋より陛下のお部屋によく行っていたはずで」
だから私には殿下の部屋の記憶はないはずなのです。でも私にはバルトロにミルクを冷ましてもらった思い出や抱っこしてもらった思い出がたくさんあって。
現にバルトロは私のことを覚えていて、久しぶりと言ってくれて。だからこれは私だけの勘違いではなくて。
それに。
殿下の手下にされて悪戯を仕掛けた女官たち、彼女たちは確か……。
私はざっと青ざめました。
もしかして。
幼い頃はつじつまがあっていなかったあれこれ。
今思い返すとあの女官たちへの意地悪は、私がされた嫌がらせへの報復だったのでは。
それに殿下の手先になってからは、女官たちも私に引きつった笑顔を見せるだけで、あまり困ることをしてこなかったような……。
……あれ?
あれあれあれれ……?




