2.これはいったいどういうこと?
「い、 いやああっっ」
陛下の御前だというのに変な叫びが出ました。そんな私に、陛下はぷっと笑って確認してこられます。
「これは君のサインで間違いないね、レミリア?」
「ち、違います、いえ、確かに私のサインに見えますけど、私、記憶にありません、誰か同姓同名の別の人ですっっ」
「いや、確かにこれは君の字だよ。私が間違えるわけがない。とはいえインクの色も古いし、私も父からこんな話は聞いた記憶がない。この証書の出所を調べさせたところ父が残した未決書類の十年以上前の地層から発掘されたそうだ」
「書類の地層……」
「で、思い出したのだが。あの頃、君はまだ四つか五つで、名前が綺麗に書けるようになったと喜んで、筆記具持参で王宮に来ていなかったかい? で、そこら中にサインをしていなかった? 私も確かハンカチに書いてもらったような」
そういえば、そういう黒歴史もあった気がします。
幼い頃の私は兄ディーノと共に、毎日のように王宮に遊びに来ていましたから。
「祖父殿も宝物にするよと受け取っていたのを覚えているよ。祖父殿は子にも孫にも女の子がいなかったからね。君のことは目に入れても痛くないほど可愛がっていた。幼い君からの贈り物は、死ぬときは棺に入れて欲しいと遺言なさったくらいだ。実際にいろいろ一緒に埋葬されたらしいし」
陛下の口から懐かしい方の名が出てきて、心がほっこりします。
陛下の祖父君、つまり前の前の陛下はその頃、もう息子に玉座を譲って隠居の身だったのですが、私も兄もずいぶんと可愛がってもらいました。十年も前に亡くなった方ですが、国を挙げての葬儀の様子は覚えています。まさかあの時の豪華な棺にそんなものが入っていたとは。
懐かしい先々代のサインをそっと眺めていると、陛下も目尻を和らげて優しく言われました。
「……祖父殿は本当に君のことを気に入っていたからね。それで本物の孫になってほしいとこれをつくられたのかもしれない。立会人の名も祖父殿になっているし」
そして幼い私は内容も分からないままサインした、と。
しかしそこでどうして相手がラヴィル殿下なのか。
「ただ問題はこれが聖堂にもきっちり写しがおさめられている、正式なものだということなんだ」
つまり。
「記憶になくとも、君とラヴィルは正式に婚約しているんだよ、子どもの頃から。公になっていないから、知る者がほとんどいなくてもね」
うっ。再び叫びそうになりました。
脳裏に彼との様々な思い出が浮かんで悪寒がします。
そもそもこんな過去の遺物が出てきたことを今の彼に知られたら。いったいどんな嫌がらせをされることか。だって彼がこんな婚約を喜ぶはずがありません。
(だって今の私はこの紙切れ一枚でラヴィル殿下を拘束していることになるのですよね……?)
彼のプライベートなど知りませんが、もし殿下に恋人がおられたら、今の私はそれこそ恋する二人の邪魔をする悪役令嬢。
私は真っ青になって陛下につめよりました。
「へ、陛下、どうかこの証書はなかったことに。地層の底から見つからなかったことにするか、すぐ破り捨ててくださいませ」
「わかっているから落ち着いて、レミリア。君が婚約を望んでいないことも問題だけど、これがある限り、君が申し込んだ当主就任も許可を出せないんだ。私個人としては君の家の事情もわかるし、許したいのだが、例の〈誓約〉があるから」
「あ」
「そう。カスタロフ家が臣下になる時に交わした、あの約束だよ」
陛下の困った顔に、私は一時の恐慌を頭の隅に押し込め、先祖が交わした〈誓約〉を思い出します。
エルシリア王家に一振りの剣あり。
その名を、カスタロフ家というーーーーー。
昔、この大陸では小国が乱立し、王は国を守るため、傭兵を雇う必要があったといいます。
そして傭兵たちをまとめる指揮者の中に、万の単位で傭兵を動かすことのできる〈傭兵王〉と呼ばれる男がいたのです。それが我がカスタロフ家のご先祖です。
各国の王が契約を結びたがった〈傭兵王〉
その心をとらえたのはエルシリアの若き大公。
大公は傭兵王の力を得て当時公国にすぎなかったエルシリアを一つにまとめ、王国と為しました。そして王となった大公は傭兵王の功績を称え侯爵に叙し、大粒のエメラルドがはまった見事な宝剣を与えて乞うたのです。
『カスタロフ侯爵、そなたの瞳と同じエメラルドを柄にはめたこの剣を、友愛の証に受けとってほしい』
『王よ、我がカストロフ家の血は王とその子らのもの。この宝玉が色を変えぬかぎり、我が一族の忠誠も変わらない。無私の心で仕えることを誓約しよう』
これが有名な〈エメラルドの誓約〉。以来、百年、我が家は王家を支え続けています。
と、感動の逸話で知られるカスタロフ家叙爵ですが、実際は波乱だらけだったようで。
当然と言えば当然ですが、もとからのエルシリア貴族が新参の余所者の台頭を喜ばなかったのです。こぞって反発し、
一、カスタロフ家当主は王族と姻戚関係を結ぶなどの野心をもたないこと。
一、爵位継承は成人直系のみ。
などの規約を条件に、やっと叙爵を認めたとか。
「……君が当主になることを望むなら、この婚約はなかったことにするのではなく、正式に破棄しないと周りが黙っていないと思う。私が黙っていても、きっと弱みを握ろうと調べだす者が出るだろう」
確かに。あれからずいぶんたって我が家もこの国に溶け込んだとはいえ、それでもまだ反発を持つ者がいます。
もうあらゆる方向で黒歴史、嫌すぎる婚約です。
「……どうか陛下、お願いいたします。このことがラヴィル殿下に知られるであろうことはもう覚悟いたしました。ですからどうか正式に破棄の方向で進めていただけませんか。こんな証書が残ったままではラヴィル殿下もご不快でしょうし」
ラヴィル殿下が苦手。が、それ以上に家を継ぐ必要がある以上、王族と婚約などできません。
陛下もうなずいてくれます。
「君が妹になってくれたら個人的に嬉しいが。私もそれしかないと思う。が、破棄するにしても君とラヴィルのサインが入った破棄証明がいる。そして彼は実は数年前から領地に引っ込んでいてね、私の登城要請にもこたえてくれないんだ」
今日、君を呼んだのは、ラヴィルのことで相談があるからだ、と陛下がおっしゃいます。
「どうだろう、破棄のサインをもらうついでに、彼を王都に連れ戻してくれないだろうか」
は? 私があの悪魔を?
一瞬、表情をつくれなかった私に、陛下が苦笑をもらされます。
「私も彼に会う必要があるんだよ。実はラヴィルが私に叛意をもつと噂が広がっていてね」
「え?」
「ラヴィルは私の即位以来、宮廷に足を向けていないんだ」
それは……、確かに悪い方に勘繰られます。
「レミリア、自由に動けない私の代わりに動いてくれないか。使者としてたってくれ。彼にひと月後にはじまる私の即位二周年を祝う式典への参加をうながしてほしい。式典には内外の貴族が集う、そこで兄弟仲がよいことを示したいのだ」
「ですが問題を起こしたばかりの我が家が仲介に立つなど」
「ラヴィルはすでに貴族院が派遣した使者をすべて追い返している、もう他に頼める相手はいない」
陛下の顔に苦渋の色が濃いです。
「君がこの件を片づけてくれれば皆の眼も変わるだろう。私も擁護する。王冠にかけて誓う。臣下としてが無理なら幼馴染としてうけてくれ。私の望みは心が離れてしまったラヴィルとの和解だ。彼が心を開くのは君しかいない」
そう言われると心が揺らぎます。
正直、幼馴染だけど、いえ、幼馴染だからこそ、あの悪魔が私に心を開くとは思えません。
が、敬愛する陛下にここまで言われて断れる者がいるでしょうか。それに婚約破棄ができなければ終わりなのは我が家の方。
駄目でもともとやってみるしかありません。
「王命、つつしんでお受けします」
私は胸に手を当てると、深く腰を折って王に応えました。
だから私は気づけなかったのです。頭の中がこれからのことでいっぱいだったこともあって。
陛下が兄と婚約者の姫君について一言もふれなかった不自然さと、常に温厚で誠実な陛下にしては少しからかうような、悪戯っぽい笑みを浮かべておられたことを、見落としたのですーーーー。