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17.初めての胸の高鳴り

 あわてて話をそらそうとしました。でもできませんでした。


 何故なら、私の手が殿下の手の中にあったから。


 どうしてこんなことになったのでしょう。

 殿下は不自然な沈黙に陥った私が席を立ちそうで、儀礼上、止めようとなさったのでしょう。そして手を伸ばされただけ。なのに偶然、そこに私の手があって。


 私の手を包むようにおかれた殿下の手。今、殿下は手袋をつけてはおられません。指の長い美しい手は、男性らしく硬く骨ばっていてとても熱く感じました。


 殿下の手はこんなに大きかったでしょうか。昔よくつないだ手は、確かに殿下のほうが大きかったです。が、こんなにも力強かったでしょうか。強く抑えられているわけでもないのに、ぴくりとも手を動かせません。さっきまで普通に不平交じりに幼馴染の気の置けない会話をしていたのに、一瞬で空気が変わってしまいました。


 遊戯盤のリバーシの駒が自分の色から相手の色へと裏返るように。昔はあんなに平気でつなぎあっていた手ですのに、悔しいほど簡単に、すべてが覆ってしまいます。

 

 いえ、覆るということは、元からこんな心が私にあったということでしょうか?

 馬鹿なと、とまどい、私はよけいに動けなくなります。


 それは殿下も同じの様でした。


 体を動かせないのでお顔を見ることはできません。ですが重なった手が殿下の様子を伝えてきます。いつも冷静なあの方が動揺しておられるような。

 そもそも妙に殿下との距離が近いのです。広い、何十人も人を招けるような食堂の長いテーブルに、固まるようにして対角に二人の席が設けてあります。せめて対面ならテーブル越しの適切な距離をとれるのに。


 どれくらい時間がたったのでしょう。

 ポトリと花瓶から薔薇の花弁が落ちる音がして、私たちは我に返りました。


 殿下がそっと手をどけられます。私もあわてて手を引き寄せました。殿下がつけておられるコロンが移ったのでしょう。昔の殿下からはしなかった、見知らぬ大人の男性の香りがしました。


 殿下は何もおっしゃいません。私は必死に何事もなかったかのように話題をふります。


「……こ、ここでは、いつも一人で食事を?」

「…………他に同居人がいるように見えるか?」

「で、では誰かを招いたりなど」

「へたに誰かを招けばかんぐられる」


 だって。私はもとの二人に戻りたかったのです。

 こうなって初めて気づきました。私はこの方を苦手と言いつつ、それでも殿下と軽口をたたき合うこの時間が好きだったのです。殿下の幼馴染という地位が嬉しかったのです。


「で、では家庭を持たれてはいかがです、和やかな食卓になると思いますが」

「……そういうお前こそどうなのだ。手紙には今回、証書が見つかるまで婚約のことは知らなかったとあったが、これからどうする気だ。本気で破棄して当主の座に就くつもりか」

「それは……」

「強がるな。傭兵どももずいぶん減ったのだろう?」

「だ、大丈夫です、数が減った分、精度に磨きをかけておりますから。それにそれを補う人材も求めていますし」


 そう、頼りになる婿殿を。

 いくら私が実務をこなせると言っても、武門の家である我が家の当主がこんな事務系では重みがありません。侯爵家の血を繋げるためにも、他家に侮られないためにも、できれば有力な武門の家の出の婿殿が欲しいところです。


「候補は一応あげています。ベルヌ伯爵家の次男、ジャン様に、シェル家のレオナルド様に……」

「それは何かの冗談か? 話にならないカスばかりじゃないか」


 眉をひそめておっしゃいますが、これでも好物件なのです。なんといっても今の我が家は醜聞の只中にいるのですから。婿に来てもいいと言ってくれる肝の太い相手を探すのに、親戚の叔母様方もどれだけ苦労なさったか。


 そんな我が家の事情に頓着せずに、殿下がため息をつかれました。


「俺は、お前が自分の好きな相手を選ぶと思っていた。幸せな結婚を望むと。幼い頃のお前は家のために相手を選ぶなど、考えてもいなかっただろう」

「……!」


 そんなこと、この人に言われたくないです。だってしかたがないじゃないですか。もう家を守れるのは私しかいないのですから。そして私が今後も王家の御二人に関わっていくなら、カストロフ家当主という地位が必要なのです。


 ぎっとにらみつけると、しばしの沈黙の後、殿下がぽつりと言われました。


「お前、ディーノが戻ると思っているのか?」


 どきり、と胸が跳ねました。


「だから万が一アイツが帰ってきてもすんなりと当主の座を返せるように、厄介ごとのない小者ばかり選んでいるのか?」

「そ、それは……」

「ここにはお前と俺しかいない。飾る必要はない。あれからあいつから連絡はないのか」

「……連絡など、兄もしようがないでしょう。あれだけのことをしでかしたのですから」


 兄、ディーノは隣国テオドラの王女、ユリアナ様と駆け落ちしました。

 もともとリヒャルト陛下の花嫁候補としてエルシリア宮廷に滞在されていたユリアナ王女。陛下の御渡りがあるたび、陛下の護衛として従っていた兄とも言葉を交わし、いつしか許されない恋に落ちたのだそうです。大醜聞です。

 

 通常なら両国をまたいでの大騒ぎになるところですが、テオドラとしても自国の王女が片棒をかついだ失態に、エルシリアに管理不行き届きを言いたてることもできず。各自で追手を差し向けたまま、現在にいたっています。


 そんな兄が今さら戻っても、この国に居場所などありません。


「殿下、真面目な話、どうすれば宮廷に顔を出してくださいますか……?」


 そして、どうすれば婚約破棄に応じてくれるのか。


 考えると、あまりのお先真っ暗具合に、泣きそうになってしまいます。

 歯を食いしばり、真剣な眼で殿下を見つめると、彼が困ったように目をそらせました。


「そこまで言うなら。お前が都で流れる悪い噂のすべてに俺が潔白だと馬鹿どもに証明するなら。まあ、応じてやってもいい。だから、そんな顔をだな……」

「! 本当にそれで顔を出していただけるのですね?!」


 言質はとった!

 一気に元気になった私は、前のめりに殿下に迫ります。二人の間の距離が邪魔なくらいです。


「いそいで流布する噂は調べますが、もしすでに耳におはいりの分がありましたらお聞かせください! 優先的に反論証拠を集めますので!」

「お、おい?!」

「ありませんか?」

「……王都を離れても情報だけは入ってくるからな。いつか報復することもあるだろうと記録はとっているが」


 ではそれを見せてもらってつぶしていけばいい。

 バルトロに聞けばリストにして渡してくれると言うので、私は鼻歌が飛び出しそうな勢いで立ち上がりました。それを見て、殿下が苦笑なさいます。


「……元気が出たのはいいが。とことん雰囲気を壊すのがうまいやつだ」

「え?」

「いや、こちらの話だ。それより……」


 殿下が目を細めて私を見つめます。私はまた動けなくなりました。


「それを選んだのだな」

「え」

「ドレスだ。言っておくが、露出の多いものは俺の趣味ではないぞ。バルトロとアナが悪乗りしただけだ。そこだけは誤解するな」


 今、私が着ているのは深い青に黒のリボンを配したドレス。紫がかった薔薇の蕾が数個、アクセントとして胸深くに飾られた、シンプルだけど美しいドレスです。


 アナのおすすめのきわどいラインのドレスには驚きましたが、後でクローゼットをのぞくと私好みの地味めなものも一そろいありまして。ありがたく着用させていただいています。


 実は着替えようとして、ふと、あの殿下がまともにドレスの用意をしてくれるわけがないと、何か仕掛けがないか縫い目までほどいて調べたのです。するとこよりのようなものが出てきて。開けてみると、『あほなことをしとらんで、さっさと着替えろ』 と書かれていて悔しかったのですが。


 なんでしょう、改めて殿下の口からドレスの話が出てくると、これを仕立てたのがこの方だと言う現実が迫ってきて、また居心地が悪くなってきます。


 もしかしたらこの方がすでにふれておられるかもしれないドレス。

 さっき重ねた大きな手を思い出してしまって。私は「失礼します」と言って、あわてて部屋を出ました。また、あの訳の分からない、胸が苦しくなる雰囲気に戻るのが怖かったのです。


 そんなふうに自分の不可思議な心を持てあましていたからでしょうか。誰もいない廊下を進んでいると、窓の外をすっと何か白いものがかすめた気がしました。


 大きな、人影のような。外はテラスもない壁、人など登ってこれないというのに。


(な、まさか)


 幽霊? い、いいえ、そんな馬鹿な。きっとただの見間違いです。そうに決まっています。いえ、それ以外にあり得ません。ただ、この城のおどろおどろしさのせいか、肌が泡立っていくのが分かりました。


 そしてその衝撃で、私の頭から、さっきの不可思議な重い空気が見事に四散しました。


 かえってよかったのかもしれません。あのままでは一晩もんもんと眠れず寝返りを打つことになりそうでしたから。


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