16.閑話・俺が彼女に婚約サインをさせたのは
その日、俺は王宮の四阿にいた。
レミリアもディーノも王宮に伺候しない日で、退屈だったのを覚えている。ぼんやりと次にレミリアに会ったら何をするかを考えつつ本をめくっていると、女官たちの声がした。
「レミリア様ってやっぱり殿下を狙ってらっしゃるのかしら? あんなにいつもくっついて」
「私、母から聞いたわ。カスタロフ家は前代でもそんなことがあったそうよ。レミリア様の母君、エルザ様ったら次期当主のくせに、なんと今の陛下に言い寄られていたそうよ」
「まあ、あの〈誓約〉があるのに、どう思ってらしたのかしら、ずうずうしい」
馬鹿かと思った。その頃のレミリアはまだ五歳になったばかりで。誰かの妻になることなど考えたこともないだろう、赤ん坊だった。結婚、などと言っても、それはお菓子の名前? と真剣な顔で問い直すような天然だった。
そもそも俺や兄の妃は父が決める。その父がカストロフ家を嫌っているのだ。
カスタロフ家の力が王家を上回るのを警戒したとも、有力貴族出の王妃とその一族がカスタロフ家を排斥にかかったからとも言われているが。
実際のところは、父は若かりし頃、カストロフ家当主エルザ様に結婚を申し込み、誓約があるからと断られ、それを根に持っているのだ。我が親ながら恥ずかしい。
とはいえ父は見事、初恋をこじらせたようで、他の男を婿に迎えたエルザ様とは、未だにまともに口を聞こうとしない。
そんな有様だから、父がレミリアを王家の嫁に迎えたいなどというわけがない。
そしてそんな王を夫に持つ王妃も同じくだ。
宮廷に仕える者ならば、皆、知っているはずなのに、さも心配だと言うようにレミリアのことを噂している。
むかつくが、これは今に始まったことではない。
祖父のお墨付きを得て、特例で出入りしている幼い少女。
彼女を案内する女官たちは例外もあるが、たいていは国内貴族の子女だ。当然、派閥もある。
複雑な彼らの利害関係からすれば、第一王子を含む王家の二人の未婚の王子は格好の獲物だ。傍にいる目障りな少女を排除しようとするのは当然のことだろう。
だから職務に抵触しない、誰からも叱責を受けないささいな範囲で。
巧妙に、だが執拗に嫌がらせを繰り返した。さりげなく、落としやすい位置に花瓶をおいたり、彼女が失敗するように誘導する形で。
政争に生きる大人ではなく、ただの幼児相手ではそれくらいでちょうどいいと考えたのだろう。王と王妃はレミリアを嫌っているが、祖父が目をかけている以上、おおっぴらに嫌がらせをすることはできないから。
ほんの些細な。目くじらを立てるほうが狭量といわれるくらいの範囲で。
だからこそたちが悪い。
その動きに気づくたびに未然に防いではいたが、俺もまだ子どもだ。大人から出された課題もこなさねばならず、自由に王宮から出ることもできず、レミリアにつきっきりではいられない。
妹と同じく天然で、何も気づいていない兄であるディーノに知らせようかとも思った。妹を守ってやれ、と。
が、彼もレミリアも貴族でありながら、人の害意なぞ知らずにのびのびと育っている希少な人種だ。
こんなことを耳に入れれば彼らを汚してしまいそうで。いや、それ以上に、野心などない彼らが、諍いを嫌って王宮に来なくなりそうで怖かった。
だから敵をつぶすのは俺一人で済ませることにした。
しつこい彼らだが、公の場で恥ずかしい目にあわせれば、懲りてもう手出しもしなくなるだろう。そう考えて、さり気に報復してやっていたのだが……。
黙って発言主を特定しながら聞いていると、女官たちの話はさらに聞き苦しくなってきた。
「殿下たちがカストロフ家の令嬢だからと無下にできないのを知って、あつかましいこと」
「家の力を使えばなんとかなると思われているのではなくて? 母子そろって嫌ですわ」
さすがにむっとして身を起こすと、わざとらしく欠伸をしてやった。
気づいた女官たちが真っ青になって逃げて行く。その無様な様に少しすっとした。
だがその姿を見送って、ぼんやりと先ほどの会話を思い返していると、逆のことも頭に浮かんだ。
レミリアはまだ五歳だ。だが誰か王宮に出入りする他の男が彼女を見初めたらどうしよう、と。
王族と違って貴族の結婚条件はゆるやかだ。恋愛結婚をした、などと言う言葉もたまに聞く。脂ぎった爺が権力に任せて可憐な少女を妻にしたなどという例もある。
急に不安になった。
あの無垢な可愛いレムルの将来はどうなるのだろうと。
俺自身はとっくにすれて政略結婚などなんとも思わない。が、あのレミリアだけは笑顔のままでいて欲しかった。
何より彼女が誰かほかの男の物になってしまうかもしれない、誰かの妻となって俺の前から消えてしまう未来があるかもしれない、そのことにぞっとした。
そんな時だった。祖父に呼ばれたのは。
祖父は人払いをした部屋に俺と二人だけになって、秘密めかして囁いてきた。
「そなた、レミリアが好きだろう」
な、いきなり何を言い出すのか、この爺は。
何故か狼狽して、真っ赤になって反論しようとしたが、にやりと笑って封じられた。
「まさに天使だからのお、レミリアは」
そんなことは聞いていない、あれはただの手下だと訴えたが、祖父は笑うばかりだった。そして言った。
「どうじゃ、共同戦線を張らんか」
「共同戦線?」
「レミリアをうちの子にする作戦のに決まっておるだろう。わしもレミリアが可愛い。よその家にもっていかれるのは不愉快だ」
そして祖父は真顔で、
「お前、レミリアを嫁にせんか」と爆弾発言をかましてくれたのだ。
「そ、そ、そんな、レミリアも僕もまだ子どもですよ?!」
「当面は婚約だけでよかろう。公に家を通すといろいろ外野がうるさいからの、しばらくは秘密にして。そうじゃな、わしが立会人になるからさっさと婚約証明書にサインしてしまえ。先に既成事実を作ってしまえば、あのうるさいバカ息子も文句は言えんだろ」
そんなのでいいのか。仮にも王族と侯爵家の縁組が。
「それともそなた、手をこまねいてレミリアを他家に渡してもいいのか?」
「……」
その一言で、俺は落ちた。
無邪気なレミリアを祖父のもとに誘い、何も分からないまま署名する彼女を、黙って見守った。
良心はまったく痛まなかった。
それよりはこれで安心だと、ほっと息をついてしまったのは、やはりその頃から性格が悪かったからだろう。




