15話 ~図書の塔の記憶者~
「あんなに柔らかいものなの……? え、これと同じものなの……?」
修練場を後にした三人は図書の塔に向かって歩いていた。
その最後尾でアリスが右手をわきわきさせながら自身の身体に目を落として戦慄していた。
「いやー、あんなところで終わるなんてな~! もっとやりたかった!」
「あれ以上は私の心が持たないわ!?」
「んぁ? あの精霊みたいなのそんなに疲れんの?」
「ぇ? あ、あぁそっちね……」
アリスは右掌をため息とともに下ろして、ヘルシャの問いかけへの答えを返した。
「確かにそんなに連発できるものではないわね。【精霊統化】は精霊と一体化するから常に莫大な魔力を持っていかれるの。長時間使えば魔力が尽きて動けなくなることもあるわ。けれど貴方のそれも相当なものよね?」
アリスはヘルシャの両頬に描かれている血の線を示しながら問いを返した。
彼女は両手を頭の後ろで組んで笑顔で答えた。
「うん、あれやるとめっちゃ疲れる! 半分人間のウチには結構しんどいみたい」
「半分人間? 貴女、亜人とのハーフなの?」
「亜人っていうか、神様?」
「は……?」
ヘルシャの答えにアリスは首を傾げて不思議そうな表情をした。
その疑問に答えたのはヘルシャの隣を歩いていたイグニスだった。
「ヘルシャは武神と人間の混血。さっきの状態は血を贄に自身の存在を武神に近付ける荒業だ」
「武神!? 神格との混血なの!?」
その情報にアリスは驚倒しそうになった。
神格との混血など元の世界では出会ったことがなかったし、様々な来訪者がいるアルカディアでさえ一人も見たことが無かった。
そもそも神格が実体を持つことさえ珍しく、自身の神性を人間に分け与えることなどさらに稀有な事例だ。
「ちなみにイッくんは精霊とのハーフだよ~」
「武神のハーフと精霊のハーフ……。それは強いはずね……。あっ! あいつは、キヅキソウマもそういうのなの!?」
「ううん、そーまは人間。それも相当に弱っちぃの」
「そ、そうよね……」
そのことにアリスは何故か安堵していた。
彼まで高位の存在であったらなんだかやりきれない。
「まぁあいつの世界には魔法も魔術も何も無かったからな。あいつの時代には殆ど武器も禁止されていたようだしな。【科学】という技術が発達して暮らしは豊かだったようだが」
「そんな世界から来て、アルカディアで闘っていたの!? いや、戦ってはいないか……?」
その時アリスはソウマの戦績の情報を思い出していた。
彼の戦績は何故か二つに分かれて記録されており、片方は決して良いとは言えない戦績、片方は全戦不戦敗という戦績だったはずだ。
「着いた~!」
考え込んでいたアリスの耳朶に、ヘルシャの元気な声が届いて思考を中断させた。
先程の修練場もそうであったが、今回の図書の塔は近くで見上げるとより圧倒的な存在感であった。
真下からでは最上部が見通せず、天井に届いているようにも見える。
赤煉瓦を積み重ねたような外観は頑強で、ちょっとやそっとのことでは崩れないであろうことが察せられる。
「さ、いこ。きっとアーちゃんなら喜ぶと思うよ」
にこにこと笑うヘルシャに手を引かれ、アリスは図書の塔の中へと入っていった。
◆◆◆
「うわぁ……凄い……」
アリスは図書の塔に入るなり目を輝かせて周囲を見渡していた。
図書の塔は三百六十度全方位が本棚となっており、それが最上部まで続いている。
その殆どが魔導書や戦闘書で、アルカディアで戦う者であれば役に立つようなものばかりであった。
ただアリスは元々本の虫であり、神前決闘がない日はかなりの頻度で【世界書庫】に通っていた。
「おや、来客かね?」
周囲を見渡していたアリスの元に、ヘルシャでもイグニスでもない誰かの声が上方からかけられる。
その声は低めだが女性のものと分かる美しい声で、しかしどこか艶やかな声音であった。
そちらに目を向けると着物と呼ばれる変わった服を着崩して纏い、五冊ほどの本を抱えながら浮遊している女性がゆっくりと降りてきている。
彼女はテーブルに本を置くと、三人の元に歩み寄ってきた。
近くで見ると彼女は独特な雰囲気を放つ、気だるげな美女であった。
身長はイグニスよりも少し高く、女性にしてはかなりのものだ。
髪は影のような漆黒で、頭頂部で団子状にまとめて簪を刺している。前髪は左側に流し、完全に左目を覆い隠している。
「ルーさん、おはよ! 今日も寝てたの?」
「ヘルシャ嬢、毎度毎度言ってるが、アタシは眠そうなだけでいつも寝てるわけじゃないんよ」
気だるげに答える彼女が腕を組んで首を傾げると、着物を押し上げている双丘が腕に乗っかる。
着崩した着物は大胆に胸元が空いており、深い谷間を覗かせていた。
「…………」
それを目にしたアリスは真顔になり、もう何も考えないようにすることにした。
「【記憶者】、彼女は……」
「あぁ、知ってるよイグニス坊。アリス・フォティア、優秀な来訪者さね。【灰燼の魔女】と呼ばれるほどの力を持ちながら美しい容姿を備え、アルカディアには密かにファンクラブがある。戦っている姿は凛としたものだが、可愛いものが好きで意外に少女趣味。かなりの純情で、推測だが処」
「あーあーあー!! なんでそんなに色々知られてるの!? 貴女何者!?」
アリスは彼女の言葉を遮るために赤面しながら大声をあげた。
それによって言葉を止めた彼女はほんの少しだけ微笑んで謝罪した。
「悪かった、癖でな。アタシは【図書の塔】の管理者で【記憶者】と呼ばれている」
「呼ばれている……?」
「あぁ、アタシにはアルカディアに来る前の記憶が無いんだ。自分の存在は何もかも知らんのよ」
「ぇ、そんなことって……」
アルカディアに召喚された来訪者は、表向きには自分の世界を取り戻すために戦っている。
それなのにその記憶を失っていては、何のためにこの世界にいるのか分からないではないか。
「案ずるなアリス嬢。アタシはここでの暮らしに満足しておる。戦いよりも静かな場所で暮らしていたい」
ゆったりとした話し方のルジストルに諭されたアリスは、心配そうな目を彼女に見向けた。
「自分のことはなーんも覚えてないけどルーさんの記憶力は凄いんだゾ! ここの本はルーさんが全部書いたんだから!」
「この本全部、一人で……!?」
「書いた、というと語弊があるがな。アタシは一度見聞きしたものを完全に記憶できる。だからここにあるものはアタシが読んだ本や聞いた話をまとめたものなんだ」
そう説明するとルジストルは右手を突き出して掌を上に向けた。
するとそこに白い装丁の分厚い本が出現し、燐光を放ち始めた。
「これがアタシの界具。識っているものであれば何でも実体化させられる」
ルジストルは空いている左手も掌を上にして突き出すと、そこに一本のナイフが出現した。
彼女がその面を叩くと金属音が響いたことから、そのナイフが実体であることが窺える。
「ここの本はそれの応用さね。白紙の本を実体化させ、アタシの知っていることを中身とする。だから書くというよりは複製すると言った方が正しいかね」
界具とは来訪者がアルカディアに召喚される際に与えられるものであり、それは個人が力の象徴だと思っているものが形となる。
故に圧倒的なほど剣や槍などの武器が多く、希に防具型の界具も見かけるが、本のような戦いの道具以外が界具になるなど聞いたこともなかった。
「こんだけ色んなこと覚えてられるなら自分のことも覚えてられるでしょ~!」
「そうさな。記憶を取り戻そうと思えば【夢幻書庫】に行けばいいだけだ。アタシが自分で必要ないと思っているだけさね。それにその分他の記憶が無くなったら嫌だからな、ヘルシャ嬢のこととか」
「いや~! ルーさんウチのこと忘れないで~!」
アリスはルジストルとヘルシャの会話に出てきた、聞き覚えのない単語に首を傾げた。
「【夢幻書庫】……?」
「なんだ、この街に来るぐらいだから知ってるかと思っていたが……。まぁお前さんなら悪用などしないだろうし教えても構わんかね」
ほんの少し黙考した後に、ルジストルの黒目がアリスの金眼を射抜いた。
その見透かされるような視線に唾を飲み込んだアリスは彼女の次の言葉を待った。
「【夢幻書庫】とは【世界書庫】と同じ位相にありながら、ほんの少しズレた位置にあるもう一つの書庫だ。 そこに納められているのは来訪者の記憶を綴った本であり、開くことでその者の記憶を追体験できる」
「過去の追体験……。それでルジストルさんも記憶を取り戻せるってこと……」
「そういうことさな。けどアタシは今が幸せなんだ、過去のことはいいんよ」
ルジストルは満足そうな笑みを浮かべてアリスを見つめた。
その表情は慈愛に満ちており、本心からの言葉だということがわかる。
「必要になることがあるかもしれぬ。 【夢幻書庫】に至るための手順を教えておこうかね」
その後アリスは、ルジストルから【夢幻書庫】へ至る手順を教えてもらい、我慢出来なかった本への欲求を読み漁ることで発散させてもらった。
「アーちゃ~ん! また来ればいいじゃ~ん! 帰ろ~よ~!」
「はっ……! ごめんなさいヘルシャ! 私夢中になっちゃって……!」
ヘルシャはアリスが本を読み漁っている間、ルジストルに構っていてもらっていたが飽きてしまったのだろう。
イグニスは今日あったことを伝えて、彼女が記録として本に残していた。
◆◆◆
「はぁ……凄い場所だった……」
「そ~か~? ウチはルーさんがいないと行かないゾ? 文字とか読んでると眠くなってくるし」
「【世界書庫】には無い【黄昏】オリジナルの魔導書なんてここでしか読めないもの」
「ほ~ん、そんなもんかなぁ? 本読むより実際に戦った方が強くなれると思うけど」
「魔法はただ使ってるだけじゃ上達しないのよ。ヘルシャは魔法使わないものね」
「全く使えないゾ! でもウチには必要ないから!」
「ふふ、そうよね」
先程の修練場での戦いがあのまま続いていたらどうなっていたか。
相討ち、否、負けていたのではないだろうか。
ヘルシャはまだまだ余力を残していたように思える。
あそこからさらに強くなるのだとしたら【精霊統化】の状態でも対抗するのは難しかったかもしれない。
「着いたぞ」
アリスとヘルシャの前を歩いていたイグニスが足を止めると、そこには転移紋が刻まれた扉があった。
「これでエデンの北東部に出られる。そこには幻惑の結界が張られているから転移を見られることは無い。それと」
淡々と説明するイグニスは言葉を切ってアリスに何かを放る。
アリスは驚きながらも、咄嗟にそれを受け取った。
「……魔法石?」
「あぁ、それは【夕輝石】。 この町に入るための通行許可証みたいなものだ。それを持ってエデンにある転移紋のどれかに、この町に入る意志を持って触れればここに来れる」
「便利だよね~! まぁ出る時は一箇所なのがちょっと不便だけど~」
「こんなもの貰ってしまっていいの……?」
きっとこれは【黄昏】の団員にのみ与えられる証のようなものだ。
それを部外者であるアリスが受け取ってしまってもいいのだろうか。
「構わない。お前は信頼出来る来訪者だ。なんせソウマに興味を持ったような変わり者だからな」
「それ褒めてるのか貶してるのか分からないわよ……」
イグニスの言い草にアリスはジト目を向けた後、くすりと笑った。
それを見たヘルシャが一歩前に出てアリスの顔をのぞき込む。
「アーちゃんも【黄昏】に入ればいいのに。アーちゃんならすぐに幹部だろうから同じ館で暮らせるよ。楽しそう!」
「……う~ん、確かにそれもいいのかもしれないけど……」
掌の上の【夕輝石】に目を落としながら、アリスは中途半端な笑みを浮かべる。
「少し考える時間をちょうだい……?」
今日だけで知った情報が多過ぎて気持ちの整理が追いついていない。
そんな中途半端な状態で彼らの仲間になるのは誠実ではないだろう。
「……うん、分かった! 入るって決めてからじゃなくても、ここにはいつでも遊びに来ていいからね~!」
「うん、ありがとうヘルシャ。それにイグニスも」
アリスは転移紋が刻まれた扉に身体を向けながら、顔だけ振り返って二人に笑いかけた。
そして扉に手を伸ばして触れると、周囲に夕焼けのような淡い光が満ちる。
それと共にアリスの身体が同色の光に包まれてエデンの街へ転移した。
「……アーちゃん、【黄昏】に入ってくれるかな……?」
「どうだろうな。彼女は賢明なエルフだ。自分が正しいと思う判断を下すだろう」
「そだね。んじゃイッくん、修練場にいこ~!」
「断る」
「え~なんでよ~!」
アリスの転移を見守った二人は、転移紋を後にして帰路につき始めた。
◆◆◆
地下街アガルタから転移すると、あたりはもうすっかり夜であった。
エデンの空はユグドラシルの枝葉に覆われていて昼でも木漏れ日程度しか通さないものの、陽光を吸収した葉自体が発光して街を照らしている。
夜は淡い星々の光を吸収してほんのりと光るため、どこか幻想的な光景を見せてくれるのだ。
そんな柔らかな燐光が照らすそんな街をゆっくりと歩いて、アリスは家路についた。
「はぁ……疲れた……」
自宅に着いたアリスは仰向けでベッドに倒れ込み、今日起きたこと、知ったことを思い返していた。
これまで柱としてきた元の世界の再構築という目的が打ち砕かれ、絶望に打ちひしがれていた。
それでもこの世界で生きなければならないのなら、選ぶ道は二つ。
アルカディアで平穏に生きるか、全てを破壊してこの世界さえも終わらせるか。
この世界の真実を知れば【黄昏】か【黎明】のそんな思想に至るだろう。
「だからと言って【黎明】の思想には賛同できない。何もかも壊して終わらせるなんて間違ってる……!」
アリスは天井に向けてかざした手で拳を作り、【黎明】の思想を否定した。
そして自分はこの世界について何も知らなかったのだと痛感する。
最初に提示された甘い理想を信じ込み、自身で探求することを怠っていた。
これでは誇り高いエルフの名折れだ。
(知るべきことは山ほどある。あいつの過去に関することだろうからリネアさんに聞くのは憚られたけど、界具の二本持ちっていったい何なの……?)
草原での戦いの際、ソウマと敵側のキョウヤという少年が界具を使い分けて戦っていた。
界具とは来訪者個々人の元の世界を終焉に至らしめた厄災、つまりは滅びる要因を内包したもの。
生きてきた世界は一つなのだから、来訪者一人につき一つという絶対条件は揺らぐはずはないのだ。
界具が二つということは単純に考えて二つの世界の終焉を体験し、かつ来訪者に選ばれるほどの後悔を宿していたということではないだろうか。
(キヅキソウマの過去、それを体験すれば何か分かるの……?)
二本持ちの秘密を探るためその結論に至ったアリスは、ルジストルから聞いた【夢幻書庫】の存在を思い出していた。
その場所に行って彼の過去を追体験すれば、きっとすべてを知ることが出来るはずだ。
「よし! あいつには悪いけど、私にしたことを考えれば許されるわよね!」
アリスは拳を下ろすのと入れ代わりに身体を起こす。
そして明日【夢幻書庫】に行ってみようと決心したのであった。
それから彼女は軽く食事を摂り、湯浴みをしてベッドに入るとすぐに眠りに落ちた。
邪精霊の大群との戦いに次いで【黎明】勢の三人との連戦があったというのも大きな要因だが、これまで信じてきたものを打ち砕かれた精神的疲労が溜まっていたのだろう。