眼鏡の賢者はかく語りき。3
期せずして溜まったストレスの為、半ば暴食同然の勢いで朝食を片付けると、人の食事中からぐにぐにと両手で頬を弄くり回して変顔をしていた伊織ちゃんと改めて向き直ることにした。
「さて、君は何をしていたのかな?」
「表情筋を鍛えようかと思いまして」
「そうかい。食事中に始めるとか思わず悪意の有無を疑ったんだが、そういう事ではないのだね?」
「無論です。私には澄城先輩へ悪意を向ける理由がありません」
「……そうかい」
信じてやりたいところだが、私に人を見る目がないことは先の数分間で証明された訳で、挙げ句に顔色を伺うべき相手が変顔の最中では判断のしようもない。
「なんというか、あれだね。私は君のことをもう少し理解するように努めるべきなんだろうね」
「はぁ。何やら恐縮です」
「とりあえずは表情筋を鍛えるのは一人の時にしてくれないかね。真面目な話が出来ないんだ」
「何かありましたか?」
幸いにも私の困惑を慮ってもらえたようで、伊織ちゃんは直ぐ様手をテーブル下に引っ込めていつもの涼しげな表情を取り戻した。
彼女は表情が出ないだけで案外愉快な性格をしているかも知れない。そんなことを思いながらも話を本筋へと導く。
「ああ、まだ分からないままになっていることが一つある」
「なんでしょう?」
「君は何故、私に昨日あんな話をしたんだい?」
襲い掛かってきたストレスと脱力感にかき乱されながらも、私の思考はそこだけは押さえなければならない、と強く求めていた。
伊織ちゃんの発言を全面的に信用するのなら、彼女には私と因幡の関係を否定する動機はない。にも関わらず彼女があの時間を設けた。彼女を動かした要因を今後のために知らなければならないと思う。
「ちょっとしたお節介、ですかね。少しばかり澄城先輩を足止めするに足る義理がありましたので」
「足止め?」
やはり第三者が絡んで来るか、と思考を走らせながら彼女が口にした単語を繰り返す。
「生憎と足止めなんてされた覚えはないが?」
「要らない騒動が起きるから軽挙妄動の類いは控えるよう、と伝えました。私の想定では最低でも一日は、因幡さんとの接触を抑えられると思ったのですが」
「なるほど。残念だが朝の内に春と因幡の部屋を入れ替えるよう手を回していてね。そうはならなかったよ」
「……なんでそういうところだけは手が早いんですか?」
知らぬ内に発せられていた謎の威圧感により、返そうとした軽口は音になることなく呑み込まれた。