せめて骸に手向けの花を。3
どれだけの時間を因幡の胸元で過ごしたろうか。嗚咽は既に果て、涙はとうに尽きて、僅かばかりの湿り気が名残としてその時間が確かなものだったと証明してくれている。
抱き締めた手をそのままに、私はそれでも因幡から離れられずにいた。
(……どんな顔したら良いんだろうか)
一重にそれが問題だった。果てた嗚咽が、尽きた涙が、僅かであろうと残った湿り気が今は憎くて仕方ない。
私の中の『姉』という存在に対する価値観は、妹から頼りにされる存在でなくてはならないという大前提がある。頼りにならないだろうが、なんて発言は謙遜でしかない。
それが今はどうだろう。弱さを吐露するまでは良い。昨今は人間誰しも、弱音の一つや二つは漏らさなくては生きていけないストレス社会である。なんなら涙を流すのも仕方のないことだろう。
(……流石に泣き付くとか、なんでしちゃったかな)
しかし何事にも限度というものはある。すがり付いて泣くなんて、とても言い訳出来る類いのものではない。
今現在、因幡に抱き締められている様を継続するのは恥の上塗りでしかないのだが、この際はやむ無しとする。問題はその後をどうするかだ。
(何か無いか。微塵に砕け散ったであろう私の、姉としての威厳を回復することが出来るような、そんな起死回生のウルトラCは!)
そういった苦し紛れの思考を始めてしまったものだから、尚更のこと姉としての株が暴落していくのを止められずにいた。
「雅、助けてくれっ!」
招かれざる客がドアを蹴破る勢いでやって来たのは、そんな泥沼に首まで浸かった頃である。
「夜中に随分と騒々しいじゃないか。何かあったのかい?」
ここだ、この瞬間を活かすしかない!と、思考を直ぐ様切り替えて来訪者である春へと応対した。
驚いた因幡の手が、するりとほどける様に私から離れていったのが、少し惜しい。しかし少しでも余裕のある態度を演出しなくては、私の尊厳に関わるのである。
「何かあったなんてもんじゃあない!あの馬鹿、あろうことか人のベッドにまで入って来やがった!」
「落ち着きなよ。まず意味が分からないし、何より因幡が驚いているじゃないか」
私の言葉を受けて、改めて因幡へ意識が向いたのか、少し春に落ち着きのようなものが生まれた。下級生の前で慌てた様を見せるのはみっともないとでも思ったのかも知れない。
「まず、何となく察しは付くんだが、あの馬鹿というのが誰なのか聞いて良いかな?」
「たぶん察しの通りだよ。……桜だ」
思い出すのもおぞましい、とでも言いたげな春。
「……。食堂って頼めばお赤飯とか炊いてくれるのかね?」
「おい止めろ、なんでそんな縁起でもないこと言うんだお前は」
「いやぁ、だって形はどうあれ祝い事の類いじゃないか」
「望まない相手に夜這いをかけられる恐怖を知らないから、雅はそんな事が言えるんだっ。……なんにせよ、今晩だけで良い。今晩だけで良いから匿ってくれ」
さてどうしたものか、と因幡へ視線を向けると、因幡は案の定ではあるが困惑した様子であった。唐突過ぎて意味が分からないのだろう。
私個人の考えとしては、そのような事態が起こった切っ掛けが、私が春に部屋を移ってもらったからである以上、求めに応じる義務があるとは思う。
思うのだがしかし、匿うのは良いとして、ベッドは二つきりしかない。
「構わないが、そうなると春は床で寝ることになるけど、それで良いかな?」
「鬼かお前は。お前ら二人で添い寝でも何でもすれば良いだろう」
意表を突く春の申し出に、少しばかりの違和感。
「何を言うやら。頼む立場の人間が、随分と大きく出るじゃないか」
「抱き合うくらい仲良くなったんなら別に抵抗無いだろう?」
どこか茶化すような言い草が鼻につく。いや、問題はそこじゃない。
「……見てたのか、春」
「部屋開けてすぐ目につく場所でやるからだ。明日はお赤飯でもたらふく食らえば良い」
恥ずかしさと申し訳なさで、私はまたしても因幡に顔向け出来なくなってしまった。きっと、どうしようもないくらいに私の顔は羞恥で赤く染まっていたことだろう。
私の尊厳やら威厳やらは、もう回復のしようもないのかも知れない。