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『「またね」』関連作品

「またね」

作者: ソラヒト

「あなたはどうやってここに入ってきたの?」

「研究室の先輩の紹介で、引き継いだって感じですね」


 4年生のおお先輩が都合で辞めることになり、ボクに熱心に声をかけてくれた。

 あまり乗り気でなかったボクに、何度も。

 そのうち、アルバイトをしてみるのは近道になるかもしれないと、ボクにも思えてきた。

 O先輩の意図はそこにあるのだと、遅ればせながら気がついた。

 O先輩のおかげで、ボクはなんの苦労もなくバイトを始めることができた。

 人づきあいが苦手なボクとしては厄介な面接を避けることもでき、O先輩への感謝の気持ちは強くなっていくばかりであった。


「やっぱり」

「え?」

「私もなんだけど、うちの学校からいつもふたり、バイトが入ってるらしいよ。歴代引き継ぎ式で」

「へえ、そうなんですか」

「引き継ぐルートはこだわってないみたい。あなたのように研究室だとか、ゼミ、クラス、友人、それに」

「サークルとか」

「うん。いつからそうなったのか知らないけど、なんだか不思議な伝統よね」

「伝統、なんだ」

「世界は不思議で満ちている、って言うのかしら」

「先輩、話が大きく飛躍してます」

「永遠の謎よね」

「いや、絶対に違うと思いますけど」


 キミはときどき、どこまで本気なのかよく分からなかった。


      *


 キミとはこのバイト先で知り合った。

 ボクはバイトの先輩であるキミに仕事内容を教えてもらった。

 だから、ボクはキミを「先輩」と呼んでいた。


「初めまして」


 キミはそう言って微笑むと、初日で緊張しているボクに、自己紹介だと言って、自分のことをいろいろ話してくれた。

 何気なく気を遣ってくれているのだと思った。


「すみません、なんだか気を遣っていただいて」

「何が?」

「ボクは人づきあいが苦手で、特に初対面の人とはうまく話せないし」

「そんなことないじゃない。私と普通にしゃべってくれてると思うし」

「そうですか」

「学内に友だちがまったくいないわけでもないでしょう」

「まあ、ボクは広く人とつきあう人間ではないですけど、少しは友人がいます。ボクがそのつもりでいるだけかもしれませんが。持ちつ持たれつな感じで。そうでないと、やっぱり学校でいろいろたいへんじゃないですか」

「代返とか、食券とか、試験前のノートとか、先生方の情報とか……」

「まあ、そんなところです」


 ボクは苦笑いを浮かべた。

 苦笑いは得意だった。


「なんだか、普通の学生みたい」

「普通の学生のつもりでいるんですけど」

「見えないなあ」

「そっくりそのまま、先輩にお返しします」


 キミは笑った。

 ついさっき出会ったばかりだというのに、キミとの会話はとても楽しかった。

 こんなふうに感じたのは、ボクは初めてだったと思う。


      *


 キミの自己紹介から、キミとボクは同じ学校の同学年であることが分かった。


「専攻は『インド哲学』、通称『印哲いんてつ』よ」

「へえ、そうなんですか。ボクはよく知らないけど、面白いですか?」

「面白いよ。だから専攻したの」

「学科があるんだから、そんな人が何人もいるわけですよね。なんだかすごいです、先輩」

「同じ学年なんだから、『先輩』はやめてよ」

「いやいや、こちらはご指導いただいている身分ですから」


 バイトの仕事は今のところ難しいものではなかったので、とりあえずは順調だった。


「この調子なら、すぐに私がいなくても大丈夫になるよ」

「え、そんな。まだまだ無理ですよ。初日なんですよ。いなくならないでください、先輩」

「近々、バリに行こうと思っているの」

「バリ、ああ、バリ島ですか、先輩。インドだけでなく、インドネシアまで」

「センパイ、センパイって、もういいわ」

「そんな、見捨てないでくださいよ、先輩」


 人づきあいが苦手なボクが、スムースに働き始めることができたのは、同じ学校の同学年であるキミがいてくれたからだし、キミの性格のおかげだと思った。

 それに、劇団に入っているとか、写真撮影が趣味だとか、インド哲学とか、バリ島に行くとか、その他いろいろ、キミはボクから見ると不思議な雰囲気をまとっていた。

 ボクの知らない世界を知っている人なのだと思った。


      *


 17時30分、初日は無事に終了した。

 キミとボクは一緒に広い歩道を歩いていた。

 キミが最寄りの地下鉄駅への近道を教えてくれることになっていた。

 間もなく地下鉄への降り口が見えてきた。


「ほら、近いでしょ」

「近道を教えてくれてありがとうございます、先輩」

「だからやめてってば」


 キミとボクは階段を下りた。

 地下鉄から吹く風は少し生暖かい気がした。


    *      *      *


 ボクは講堂の最前列、右隅の席に座っていた。

 そこはもはやボクの指定席だった。

「西洋音楽史」自体には100人以上の学生がいたと思うけど、ボクの周囲10mくらいには誰も座ることがなく、ボクはポツネンとしていたように見えたと思う。

 ボクは誰とも関わりたくなかったから、ちょうどよかった。

 わざとそういう席を選んだのだから。

 講義の内容は堅苦しいものではなく、一般教養らしく初心者向けだった。

 主要な作曲家の主要な作品を中心に、簡単な解説の後、曲のさわりを聴いたりした。

 ボクがこの講義を選んだのは、楽だと思ったからだった。

 ボクは自分でも無類の音楽好きだと思うし、クラシックの主要な曲はとうに押さえていたから、指定席で昼寝をしていても、課題や試験は大丈夫だと思った。

 好きな内容の講義だったから昼寝をすることはなかったけど。

 出席にうるさくないこともありがたかった。


      *


 その日はシューベルトの交響曲を取り上げていた。

 メインの話はもちろん有名な“未完成”のことだった。

 未完成のままの楽曲はシューベルトに限らず、またこの曲に限ったことではないのに、「未完成」と言えば基本的にこの曲ということになっている。

 そのくらい有名な曲であり、従来は「第8番」として知られていた。

 しかし、その後の研究成果から、今では「第7番」とされるようになった。

 最後の交響曲である“ザ・グレート”は「第9番」とされていたものだが、ひとつ繰り上がって、今では「第8番」とされるようになった。

 このことが、シューベルトの交響曲を番号で呼ぶときに混乱の原因となっていた。

 講義の内容はそのまま“未完成”から“ザ・グレート”へと移った。

 なかなか楽しいエピソードを持つ、ボクの好きな曲のひとつだ。

 この曲は“未完成”と同様にシューベルトの生前には世に出ておらず、作曲家の没後、この曲の楽譜をシューマンが発見した。

 この曲の価値をただちに認めたシューマンは、シューベルトの兄に許可を得てから、友人であり、当時指揮者としても著名であったメンデルスゾーンに楽譜を託し、メンデルスゾーンの指揮で世に出ることとなったそうである。

 3人の偉大な音楽家をつないだいいエピソードだと思う。


      *


 講義終了後、早足でとっとと退出しようとしていたボクの視界の一隅に、派手な民族衣装らしき服装をした人がいた。

 女性だとは分かった。

 でも、顔はよく見えなかった。

 眼鏡をかけているようだった。

 アジアのどこかの国から来た留学生かな、と思った。


      *


 バイト先でキミに言われた。


「あなた、『西洋音楽史』とってるのね」

「よくご存じですね、先輩。でも、それがどうかしたんですか?」

「私も受講しているの」

「そうなんですか、へえ」

「ずいぶん意外そうな顔をしてるわね」

「い、いえ、そんなことないですよ。クラシックに興味があるなんて、さすがだなあと思って」

「じゃあ、あなたもさすがってことね」

「またまた、いじめないでくださいよ」

「でもさ、面白いよね」

「何がですか?」

「例えばさ、今日の“未完成”だって、日本で言えば江戸時代の曲なのに、今もなおたくさんの人たちに聴かれているのよ」

「確かに」

「他にもたくさん有名な曲があるけど、みんな古いのに今も演奏されているんだから、なんらかの魅力があるわけじゃない?」

「まあ、そうなりますね」

「それって、なんだろうなと思って。ヒントでも分かるかなあと思って、受講しているの」

「ジャズのスタンダードもそうですよね」

「うん。今となってはビートルズだって、デビューは30年ぐらい前なんだから、もうクラシックと言ってもいいんじゃないかな」

「先輩、もしかして、音楽好きでいろいろ聴いてる人なんですか?」

「んー、あまり意識したことはないけど、そうかもね。最近は図書館で借りたガムランをよく聴いてるの」

「ガムラン、やはりバリ島ですか? ジャワではなく」

「そう、予習を兼ねて」


 キミはごきげんな様子でにっこり笑うと、急に表情を変えた。


「あら?」

「あら?」

「うっかり流しそうになったけど、あなたこそずいぶん音楽好きなんじゃない?」

「まあ、それなりに」

「そのうち音楽談義ができそうだね」


 フフッ、という感じで、キミはちょっぴり笑った。


「あなたって、やっぱり面白い人かも」

「は?」

「あなた、いつも講堂の最前列の右隅にいるでしょう」

「先輩、ボクについて研究でもしてるんですか?」

「何言ってんの、そんなことしてどんな役に立つのよ」

「世界平和、とか」


 ボクのボケには無関心なまま、キミは言葉を続けた。


「私がいるあたりからあなたがいる方を見ると、いつも闇のようなオーラがうごめいているように見えるのよ。暗くてヤバそうな」


 キミはおどろおどろしい様子を声で表現しているようだった。


「それで、もっとよく見ると、そこに怪しげな学生が座っていたの」

「それがボクだって言うんですか、なんかひどい言われようをされている気が」


 ボクはいちおう抗議することにした。


「そんなつもりはまったくないんですが……って言うか、先輩は第三の目でもあるんですか?」

「違う違う、悪口じゃないの」


 非難されているのではない。

 だとしたら、なんだろうか?


「ある意味、すごいと思って」


 キミの返事はボクの予想より先にすぐに飛び出した。

 予想できたとしても、ボクがキミの返事を当てるのは不可能なひとことだった。


「なんで闇に隠れているように見えたのか不思議だった。興味があった」

「まあ、なるべく目立たないように、いるかいないか分からないように心がけているので」

「あれは逆に目立っていると思うけどなあ」


 これは絶対に認められない。

 ボクはやんわりとかわすことにした。


「そんな関心を持っているのは、間違いなく先輩だけですよ」

「どんな人なのか、とても気になって、ときどき遠巻きに見てたの。あまり近づくと危険そうだと思って」

「やっぱりひどい言われようだ」

「怖いもの見たさで、どんな顔をしているのかなあとか、ホントに人間なのかなあ、とか」

「それはご期待に添えられず、すみません」

「闇のオーラの人だから、どんなに暗くてヤバイ人なのか楽しみにしてたのに、ちっとも暗くないし」

「もともとボクはそんなオーラ出してませんて」


 キミはまた「フフッ」という表情をしていた。

 ボクを何者だと思っているのだろうか?


「だから、あなたがバイトに来たとき、どこかで見た顔だと思ったんだけど、名前も心当たりがないし、何か気持ち悪かったのよねえ」

「どんどんひどくなっているような気がするのですが」

「ごめんごめん、悪気はないのよ」

「そうだ、目立っていると言えば、留学生の人がいますよね?」


 そろそろ限界を感じたボクは話題を変えようと思った。


「眼鏡をかけたアジア系の女性で……」

「ああ」


 キミはうなずいて顎に手をあてた。

 心当たりがあるようだった。


「それ、たぶん私」

「ええっ?」


 ボクは本気で驚いた。


「ほら、私、印哲だし、昔から民族的なものが好きなの。だから、割とああいう服を着てるのよ。寒くなってくるとそうでもないけど」


 なんて人なんだろうか。

 キミという人は。


「民族学をやってもよかったかなあ。うちの学校じゃ無理だけど」

「バイトのときの服装とは全然違うじゃないですか、眼鏡だし」


 ボクの驚きはなかなか静まらず、つい言葉が出てしまった。


「アルバイトのときは動きやすい方がいいでしょ」


 そのとおり、キミはバイトではジーンズを穿いていた。


「それに私、普段はコンタクトなの。眼鏡も持ち歩いているけど」

「なるほど」

「レアな私が見られて、よかったわね」


 キミは茶化すように言った。


      *      *      *


 それから、学内ではよくキミが目につくようになった。

 奇抜な服装をしている人がいたら、たいていキミだったから。


「私とこんなに長く会話が続けられる人なんて、これまでいなかった」


 バイトの休憩時間に四方山話をしていると、キミは不意にそう言った。


「だから、あなたは面白い人。そんな人はあなただけ」

「ボク、喜んでいいところですか?」

「是非そうして」


 ボクはまた苦笑いを浮かべた。

 キミは楽しそうに見えた。


    *      *      *


 ある日の「西洋音楽史」の講義前、早めに講堂に来ていたボクのうしろに人の気配を感じた。

 約10m以内には誰も来ないはずなのに、と思ってふり向くと、青地に灰色のペイズリー柄のような衣装を着たキミがいた。


「ずいぶん早いじゃない」

「先輩、なんでここに?」

「闇のオーラの発生源をこの目で見ようと思って」

「ボクじゃないですからね」

「もちろん、冗談よ」


 キミはいたずらっぽく笑った。


「学内であなたと一緒になれるのって、今はこの講義しかないから」

「違う学部学科の人が一緒になるのは一般教養パンキョーしかないですよね、ってことはさておき」

「さておき?」

「先輩と一緒だと目立つから困ります」

「バイト先じゃないんだから、『先輩』じゃないよ」

「こだわりますね」

「こだわっているのはあなたの方でしょ」

「ボクはこだわり派なので」


 キミは「フフッ」という表情になった。


「目立ちたくないなら、今こそ闇のオーラを」

「繰り返しますけど、ボクじゃないですからね」

「もちろん、冗談よ」


 キミも繰り返した。


「それはさておき」


 キミは言った。


「あなたに言っておきたいことがあって」

「はあ」


 間抜けな相槌を、ボクは打った。


「私、あなたのこと、どうしても気になって。好きになったみたい」


 キミはまるで今日の天気について語るかのように、さらっと言った。


「は?」


 間抜けな相槌が続いた。


「だから、もっとあなたのことを知って、この気持ちが本当かどうか確かめたいの」

「え?」

「バイト先でするような話じゃないし、ここなら周りの人に聞かれることもないかなと思って」


 ボクはとにかく荷物をまとめて、急いで講堂を出た。


「ちょっと、どこ行くのよ……」


 声が聞こえていたけれど、ボクは足を止めなかった。

 なんだよ、それ。

 いきなり。

 本気かよ。

 ボクはかなり混乱していた。

 これから先、どんな顔でキミに会えばいいのか、見当もつかなかった。


── もちろん、冗談よ。


 そう言ってくれたらいいのに。


    *      *      *


 10日間くらい、キミと会うことはなかった。

 バイト先ではこの間、キミについていろいろ訊かれる羽目になった。


「あの子と同じ学校なんだよね。あの子って、どんな子なの?」


 まとめると、この質問がとても多かった。

 ボクは思っていたところを正直に答えた。


「ボクにもよく分からないんですけど、只者ではないですね。油断していると危険なタイプです」


 バイト仲間はキミの他に何人かいた。

 ほとんどが学生だった。

 緩いけれどもいちおうシフトもあった。

 ボクは同じ学校ということもあって、キミと組むことが多かったけれど、キミがいない日はもちろん他の人と組んだ。

 壁に貼られたシフト表から、バイト仲間中ではキミが唯一の女性だと分かった。

 それだけでもキミは目立つのに、キミはここでも異彩を放っているらしかった。

「今日はあの子はいないのかい」と、よく声をかけられた。

 社員さんを含め食堂のおばちゃんから警備員さんに至る全員が、キミを知っているようだった。


    *      *      *


 次にキミと会ったのは、講堂でだった。

 講義前に、またキミは指定席までやってきた。

 何かを抱えて。


「バリに行ってたんだ、親友とふたりで」

「本当に行ったんですね」

「そうだ。親友はもちろん女の子だから、気にしないで」

「そんなこと考えつきもしませんでしたよ」

「これ、おみやげ。あなただけ特別に」


 ボクはキミが抱えていた何か……大きな平べったい紙包みを受け取った。


「ここでは開けない方がいいよ。しまうのたいへんだと思うから」

「なんかとんでもないものが入っているとか?」

「そんなことないに決まってるでしょ、失礼ね」


 キミは「フン」という表情になった。

 紙包みを触った感じでは、何か平らな板状のものに、棒が何本かついているようだった。


「現地で使っている人形のレプリカなんだよ」


 キミは言った。

 そう言われても、ぼくにはどんなものなのか想像ができなかった。


「人形なのに平べったいのは、影絵芝居だから」


 キミはその人形は何かの神様だと名前まで教えてくれた。

 ずいぶん珍しいものをくれたものだと思った。

 けれど、これをどうすればいいのかはさっぱり分からなかった。


「とりあえず、ありがたくいただいておきます、先輩」

「遠慮なくどうぞ」


 ここまではキミはにこやかだった。


「それはさておき」


 このひとことを言い終えると、キミは急に目を吊り上げ声を荒げた。


「なんで逃げたのよっ!」


 きっと講堂にいる人の目がこちらに集中していたはずだ。


「先輩、静かに。もう講義が始まっちゃいますよ」

「だって……」


 キミの目が潤んだように見えた。

 まずい。

 泣かれると思った。

 ボクはキミの手をつかんで外に出た。

 慌てていたせいで、せっかくのおみやげを置き忘れてしまった。

 ボクは焦って取りに戻った。

 講義はサボることになった。

 中庭のベンチにキミとボクは並んで腰掛けた。

 講義時間中なので、人影はまばらで好都合だった。


「一生懸命言葉を考えて、頑張って告白したのに、無言で逃げるなんてひどいよ」

「あれって、本当に告白だったんですか?」


 ボクは信じられなかった。


「本気、なんですか?」

「何よ、その言いぐさ。ひどすぎる」


 うつむいて涙をこぼすキミ。

 ボクはキミに泣いてほしくなかった。

 泣いてほしいなんて思ったことは一度だってない。


「分かりました、先輩。ボクが悪かったんです。ごめんなさい。だからもう泣かないでください」

「泣いてない」

「え?」

「大あくびしたの」


 なんて人なんだろうか。

 ボクはまたそう思うことになった。


「何をどっかの少女漫画みたいなこと言ってるんですか?」

「あなたの突っ込みが、嬉しいよ」


 涙は止まっていなかったけれど、キミは少し笑った。


「無事に日本に帰ってきた気がする」

「なんですか、そのセリフは?」

「もっと突っ込んでほしい」

「誤解されそうなセリフはよしてください」


 涙を白いハンカチで拭くと、キミはにこりとした。


「それで、あなたは何が分かったの?」


 キミはボクの言葉を逃していなかった。


「分かりましたって、言ったよ」


 聞き流されてもいい、深い意味のないひとことだったのに、キミは意味を見出したらしかった。

 ボクは意味を付け加えることになってしまった。


「先輩が考えているようなヤツじゃないと思いますよ、ボクは」


 好かれる要素はないということをボクは説明した。


「きっと、先輩はボクのことよく知らないから、よいイメージを抱いてくれているから、好意的に見てくれるだけです。ボクは闇に包まれているし、その闇はボクの内側から」

「私、あなたのこと、よく知らない」


 キミはボクを遮った。


「だから、もっと知りたいと思う。これはいけないことなの?」


 キミの口調はずいぶんはっきりとしていた。


「ボクは先輩に嫌われたくないんです。先輩はボクをイヤになっていきますよ、ボクを知るほどに」

「なんでそんなこと言うの」


 キミは静かに言いながら、少し肩を震わせていた。


「あなただって、私のことよく知らないのに、私と長話してくれるじゃない。前にも言ったけど、私、あなたほど私と長い会話ができる人なんて知らない」

「それはボクのつまらないボケが文字数を稼いでるだけで」

「会話って、意思の疎通がないとできないよね。お互いに無意味な言葉をいくら並べても、それは会話とは言えない。お互いに話をしたいと思うから、会話になるんだよね。それに」


 ボクは言葉を挟まずにキミの言葉を待った。


「あなたの内側に闇があるとしても、そんなの、私にだってあるよ。あなたに言えないことだって、たくさんある。見られたくないことも、知られたくないことも。でも、それって誰にだってあるんじゃない?」


 キミはボクの目をじっと見つめていた。


「あなただけがひどいことなんて、ないよ。自分をけなすようなことなんて、言ってほしくないよ」


 キミはうつむいた。

 嗚咽おえつをこらえているようにも見えた。

 ボクは自然と口を開いていた。


「ボクの言葉は冗談にしか聞こえないかもしれませんけど、先輩がまっすぐな気持ちを伝えてくれて、とても嬉しいです」


 キミはまだ肩を震わせていた。


「うまく言えないんですけど」

「うん……」

「今のぐちゃぐちゃな気持ちを全部伝えるのは無理だと思うんですけど、でも、ボクも先輩のこと、好きみたい、なので」

 

 ボクは「みたい」の三文字を入れていた。


「まずはもっといろいろ話をしましょう。もっとたくさん、お互いのことはもちろん、どんなことでも、なんでも、できるだけ」

「ありがとう」


 キミは言った。


「変な人なのに、優しいね」

「大丈夫です。先輩も充分に変な人ですから」

「似た者どうしなんだね」

「類は友を呼ぶって言いますからね」

「そうだね」


      *      *      *


 とは言ったものの、学校にしても、バイト先にしても、キミとボクが一緒にいられる時間はとても限られていた。

 キミは忙しい人だったのだ。

 ボクは会うたびにキミのスケジュールを訊くことになった。

 短くても時間が合うならば、キミとボクは一緒にいられるように努力した。

 例えば、バイトの休憩時間だけではなく、コーヒーを飲みに行ったり、食事をするようになった。

 キミがなんの用事もなくすぐに帰れるときはたまにしかなかったけれど、乗り換えになる私鉄の駅までは一緒に帰った。

 ボクはそこそこ遠回りになったものの、まったく気にならなかった。

 デートと言うにはあっさりしすぎな時間だった。

 でもたぶん、キミとボクはただの知り合いから、親友あるいは仲間くらいにはなっているんじゃないかと思えた。


    *      *      *


「だいぶ、ひとりでもできるようになったね」


 キミが教えてくれた近道を使って、最寄りの地下鉄駅へと歩いていた。

 ボクがキミより先に歩いていた。

 キミの教えはしっかりボクの身についていたのだ。


「おかげさまで。優秀な先輩があってこそ、です」

「あっ、全然心が込もってない。そんな言い方じゃお客さんに伝わらない」


 もう「先輩」にはこだわらず、キミは言った。

 ボクは相変わらず「こだわり派」だった。


「なんの話でしょうか、先輩」

「私ね、今日はこのあと、稽古なんだ」

「もしかして」

「そう、劇団」

「そうですか」


 何やらキミはふくれてしまった。


「ねぇ、興味ない?」

「わぁ、どんな劇団で、先輩はどんな役なんだろうなぁ」

「棒読みかよ、もう」

「ボクはド素人なもんで」

「教えてなんか、あげないよおー、だ」


 キミは下のまぶたを下げることはなかったけれど、ボクに向けて舌を出してみせた。

 キミがボクより先に地下鉄のホームに降りると、ほどなくキミが乗る車両が滑り込んできた。


「またね」


 キミは車両に乗り込んだ。

 ふり向くと、閉まったドア越しに手を振ってくれた。


    *      *      *


 ボクは先輩のキミに、まだ丁寧な口調で接していた。


「先輩はロング派なんですか?」


 キミは髪を伸ばしていた。

 毛先は肩甲骨を越えたあたりまであった。


「んー、特にそうでもないけど、切りに行くのが面倒で」

「それ、言っちゃっていいんですか?」


 キミは正直な人なのだとボクは思った。


「長いと、洗うときたいへんじゃないですか」

「そうなの。そこが問題よね」

「ボクと同じくらいにしたらどうですか?」

「あなたと同じだと、さすがに短すぎ。なんだっけ、スポーツ刈り?」

「洗髪はとても楽ですよ。シャンプーの節約になるし、すぐに乾くし」

「そうだろうけど、そこまではねえ……あなたは短い方が好きなの?」

「そうですね、どちらかと言えば、という程度ですけど」

「それで、私の髪は長すぎる、と」

「いえ、そんなつもりはないですよ。気を悪くしたなら謝ります、先輩」


    *      *      *


 何日かあとの「西洋音楽史」の日、キミはバッサリ髪を切ってきた。

 ボーイッシュと言えるくらいに。

 ボクはひと目でドキッとした。

 昼休みの1号館の学食で、ボクはキミに訊いていた。

 混雑する時間帯なので、周りはかなりざわついていた。

 でもボクはうまいことうしろの方にあるふたりがけのテーブルを確保していた。


「何かあったんですか、先輩。まさか、失恋とか」


 何言ってんの、と気軽に返してくれると思っていたのに、キミはなんだか浮かない顔になっていた。


「さては、切りすぎてしょぼくれている、とか」

「私ね」

「はい」

「実は婚約中なの」

「え?」


 なんだか捨て鉢な感じがした。

 ボクはひとまず正直に言った。


「冗談にしてはメガトン級の衝撃です」

「本当のことよ」


 沈黙。

 ボクは青天の霹靂に打たれ、焼け焦げていた。


「もう、諦めてるんだ」


 うつむいて、キミはつぶやいた。

 確かに冗談ではないようだった。

 でも意味が分からなかった。

 諦めてるって、どういうことなのか?

 気になった。

 とはいえ、それを訊けるような状態ではないと思った。


「婚約しているなら、そんな顔しないで、もっとルンルンな感じでは?」


 キミは答えてくれなかった。

 ボクはどうも失言したらしい。

 本当だとしたら、事態はかなり深刻そうだと感じた。

 これ以上追究するのは危険だと思った。

 ボクは話題を替えてみた。


「ここのメニュー、もうちょっとどうにかしてほしいですよね」

「そうね」


 気のない返事があった。

 ボクはなんだかカチンと来た。


「ところで、いちおう確認しておきたいのですが」


 キミはまだうつむいていた。


「ボクは先輩のなんなのでしょうね?」


 キミはハッとした表情になった。

 しばらく時間をおいてから、キミはこう言った。


「私が『先輩』なら、あなたは『後輩』、かな」


 講義をサボって、中庭のベンチで話をしたことを思い出した。

 あのときのキミが、目の前のキミと同じ人だとは思いにくくなっていた。

 ボクは丁寧な口調で接するのをやめた。

 こだわり派もやめた。

 おそらく、少し傷ついていた。

 きちんとお祝いしたいとは思っていたけれど。


      *


「ねえ、今日バイトが終わったら、時間ある?」


 作業開始直前にキミが訊いてきた。

 キミは微笑んではいたものの、少しやつれて見えた。


「紅茶でも飲みに行かない? いいお店があるの」

「了解」


 昼間の学食での会話を思い出して、ボクはひとことだけ返した。

 バイトを始めてからほぼ2か月が経過し、11月になったばかりだった。

 キミとボクは組んではいたけれど、ボクが仕事をほとんど覚えたことで、作業は各自独立しておこなっていた。

 定時になって上がるまで、キミとボクは言葉を交わさなかった。


      *


 10分ほどキミについて行くと、アンティークをうまく誂えたしゃれたお店に着いた。

 20席程度しかなく、広くはなかった。

 バロック音楽が流れていた。

 おそらくテレマンだと思った。

 通奏低音のアンサンブルがきれいに響くいい演奏だった。

 キミとボクが席についたときは、他にお客はひとりしかいなかったのに、キミがオーダーしたダージリンの残りがカップ半分程度になる頃には、ほぼ満席になった。

 ボクはアール・グレイをとうに飲み終えていた。

 人気があるのは納得できる、おいしい紅茶だった。

 もうキミのダージリンは減らなかった。

 店外に空き待ちの人が徐々に増えていた。

 時刻は夕食後に立ち寄るタイミングになっていた。

 キミの目的が紅茶にないことは明らかだった。

 キミが切り出すのをボクは待っていたけれど、店が混んできたのを確認して、小声でこう言った。


「あまり聞かれたくない話だと思うし、長居をできるわけでもなさそうだから、もう出よう」

「……うん」


 時間的には、普通なら何か食べに行きたいところではあった。

 ただ、どこに行ったとしても紅茶屋と同じような状況だろうし、そもそも食事どころではなかった。

 キミとボクは、地下鉄のルートをたどるようにしばらく歩くことにした。

 近道は使わずに。

 うつむいて歩くキミがなかなか口を開かないので、ボクから切り出した。


「キミの婚約についての話だろうって思うけど、ボクに何を言いたいのかな?」


 無言のキミ。

 沈黙の時間。

 歩いていればそれほどでもなかったけど、信号待ちで止まるとちょっぴり肌寒い気がした。


「どんなことでも話せる、そういうつきあいができるのは、今あなたしかいないから……」


 キミの小さな声が聞こえた。


「それはどうも。で?」

「怒ってる?」

「怒ってないよ」


 と言いつつも、やはりボクは怒っていたのだと思う。


「少しだけ、いつものあなたより怖い気がしたから」

「だとすると、ボクはキミの影響で『少しだけ』正直になっているのかもしれない」

「本当に?」

「嘘じゃない。なんか恥ずかしいけど」


 キミはハの字眉になっていた。

 どことなく嬉しそうにも見えた。


「私、隠すつもりは全然なかった。触れ回るようなことでもないけど、でも、あなたにはいつかきちんと話さなくっちゃって、ずっと思ってた」


 ボクは続きを待った。


「私、研究室の先輩に告白されて、つきあって、プロポーズされたの」

「なるほど」

「初めての人も、その先輩」


 想像したくない。


「痛いだけだったけど」


 リアクションに困った。


「私って、こんな人だから、どこへ行っても浮いていて、ひとりでいることが多かった。男の人に優しくされたのは、人生で初めてだった。私を普通に女の子として見てくれて、大切にしてくれるなら、デートにしてもHにしても断る理由が見つからなかったし、きっとこれでいいんだって思ってた」


 ボクは黙っていた。


「話はとんとん拍子に進んだの。合意したわけだから。先輩はもう社会人だけど、自分は早く結婚したいんだって、前から言ってた。今は式場も押さえてあるし、あとだいたい1か月……」

「典型的なマリッジ・ブルーってやつですか」

「準備が進むにつれ、だんだん怖くなってきた。私、どうして深く考えずにOKしちゃったんだろう。断る理由が見つからないからって、考えるための時間をもらいもせず、簡単に決めちゃうなんて」

「でも、誰からもどこからもプレッシャーがなく、自分で決めたことなんだろ?」

「そうなんだけど」

「だったら、嬉しそうに見えないのはやっぱりおかしいよ」

「私も、望んでそうなるんだから、私が必要だと思ってもらえたんだから、どんどん嬉しくなるって思ってたのに、実際はどんどん不安になって」


 ボクは先を待った。


「あなたと知り合ったのは、そんなときだった」


 そんなこと言われても……。

 正直なところ、ボクはそう思っていた。

 混乱していたのだ。


「先輩は私に、結婚したら家庭を守ってほしい、できれば普通に主婦になってほしいって言った。私は家事が嫌いじゃないし、もちろん、やればできると思ってる。それについて異論はなかった。だから、結婚するまでの間は、自分の好きなことに打ち込んで、やりたいことをやっておこうと思った」

「で、バリ島に行ってきた」

「うん。結婚してもできることはたくさんあると思うけど、今みたいな自由さはたぶんなくなっちゃう。その前に、と思って」

「ボクにおみやげをくれた。驚いた」

「実は、私も驚いたことがあって」

「バリ島で?」

「うん。影絵芝居を見たのよ。私、それがとても面白くて、あなたにも見せてあげたいなあって思った。そのあと、おみやげ屋さんであの影絵人形を見つけたとき、これをあなたに買っていきたいって、すぐに思った。喜んでくれるかなって。他の人たちには、絵はがきとか、Tシャツとか、お菓子とか、無難なものを買ったのに、あなたにだけは……そう気づいてハッとした」

「そう言えば、ボクにくれたとき、特別に、とか言われたような……お愛想程度のことだと思ってたけど」

「頼まれたわけでもないのにね」

「まあ、行ってくるとは聞いてたけど、いつ行くのか知らなかったし、おみやげを欲しいともくれるとも思ってなかったし」

「だから、あなたに、って思った自分に驚いたの」

「婚約者である先輩には?」

「特に要望がなかったから、Tシャツ」


 急に風向きが変わった気がした。


「バイト先や、学校で、あなたと同じ時間を過ごすうちに、あなたに興味を持って、あなたのことをもっと知りたいって思った。誰かのことをこんなふうに思うなんて、私は初めてだった」


 まずい展開だと思った。


「そして、確信した。結婚の日が近づくにつれて、なんで嬉しくならないで、不安になっていくのか、その理由を」


 ボクは黙っていた。

 ざわついた気持ちで。


「私、講堂で、あなたを好きになったみたいって言った。自分の気持ちを確かめたいって。けど、本当はもう好きになっているってどこかで分かってた。だって、あなたのことをもっと知りたい、もっともっと知りたいって気持ちが止まらないんだもの。でも、婚約しているのに、はっきりとその気持ちを認めてしまうなんて、やっぱり怖かった。どうにかなってしまいそうだった。それでも、気づいてしまった。私は先輩が嫌いではないけれど、好きでもないんだって」


 ボクはまだ黙っていた。

 沈黙が重くなってきた。


「うちの家族も、先輩の家族も、その日に向けて熱心に準備してくれて、あとは当日を待つばかり、というところまで来てる。自分のわがままで、みんなの気持ちを全部こわしてしまうなんて、できない。だったら予定どおり結婚して、しばらく考えてみて、大丈夫ならそのまま、だめなら別居なり離婚なりすれば……」

「何言ってんだよ」


 ボクは言ってしまった。

 歩きながら聞き流すのは無理だった。

 立ち止まってキミの方を向いた。


「ごめんなさい、こんなこと話して。あなたにしか話せないなんて、迷惑かけて……」

「そうじゃない、違うだろ」


 キミの小さな声をボクの声が完全に消した。

 大きな声を出すつもりはなかった。

 ボクは怒っていた。


「ボクのことはどうでもいい」


 やめられなかった。

 街中だというのに、かまうことなく大声を出していた。


「キミは自分ではっきりと結婚したくないって分かってるじゃないか。自分が犠牲になればなんとかなるようなこと言って、悲劇のヒロインかよ。おかしいだろ」


 キミはボクと視線を合わせていたけれど、おろおろしているようだった。


「今のキミの状況は、もちろんキミ自身の選択の結果だよ。それは分かってるよね。そして、このままではいけないってことも分かってる。でもキミは、流れに乗ってしまうことで自分を正当化しようとしている。自分が苦しめばそれでいいと思っている。ボクにはそう思えた」


 ボクはだんだん悔しさを感じていた。


「キミはあまりにも情けない。涙が出そうなくらい情けない。キミの曖昧な態度がこのまま続けば、どうなってもいずれはたくさんの人を傷つけることになる。それはもう避けられないかもしれない」


 きっとボクは既に少し涙目だったと思う。


「でも、何よりもまず、キミの人生だろ?」


 自分の中からこのひとことが出てきたとき、ボクは涙目であることを自覚した。


「もしかしたら一生を左右することになるんだぞ。ゼミの先輩でもない、周りの人でもない、キミのことなんだよ。自分の気持ちを分かっているなら、後悔しない結論を出せよ。納得できる結論を出せよ」


 キミはうつむいて涙をこぼすばかりだった。


「キミがボクに好意を持ってくれたことは、正直に言うととても嬉しかった。でも、キミが婚約中だと知って、当惑を感じた。それでも、キミが前向きで、キミが納得できるなら、ちゃんとお祝いしたかった。だけど、これではとても祝えないよ。キミは自分では言わなかったけど、後悔するって分かってて、どうしてわざわざそうするのさ?」


 キミの涙は止まらなかった。

 ボクはもう言葉が続かなかった。

 言い尽くしたと思った。

 街の音がしばらく聞こえていた。

 やがてキミは涙を拭きながら、こう言った。


「ありがとう。私のことなのに、とても真剣に考えてくれて」


 そう言われて、ボクは自分がとても熱くなっていることに気がついた。

 そんな自分がいたことに驚いた。


「ごめん……」


 ボクはキミから視線をそらした。


「部外者のボクにこんなことを言う資格はないのに、つい熱くなっちゃって」

「違うよ」


 まだ涙の止まらないキミは、ハンカチを握りしめて静かに言った。


「すごく心の込もった言葉だった」


 ボクは地下鉄のホームでキミにダメ出しされたことを思い出した。


「だったら、今のボクの言い方ならお客さんに充分伝わるってことだね」

「うん」

「でも、ボクは劇団に入る気はないよ」

「もったいない」


 涙を拭きながら、キミはちょっとだけ笑った。


      *


 キミとボクは地下鉄に乗った。

 キミはまっすぐに帰れる日だったので、キミが私鉄で乗り換えるまでボクは一緒にいることにした。

 キミは普段はコンタクトだったけれど、眼鏡も持っていたから、それをかけていた。

 そしてずっと顔を伏せていた。

 ボクはキミの方を見ないようにした。

 私鉄の乗り換え駅に着くときになって、ボクはキミの表情をひと目見た。

 キミは泣いていなかったけれど、見ていられないような表情だった。

 このまま帰らせるのはどうかと思った。

 乗り換える前に一旦外に出て、コーヒーでも飲もう。

 ボクはそう考えた。

 駅から外に出ると、キミとボクが乗ってきた電車が動き出すところだった。

 踏切の遮断機が下りて、キミとボクは電車の通過を待った。


「まだ約1か月、あるんだろ」


 ボクはそう言ってしまった。


「ちゃんと自分と向き合って、もう一度冷静に考えた方がいいよ」


 キミはまた涙を流していた。


「そう、だよね」


 電車が通り過ぎ、遮断機が上がった。

 でもキミは立ったままで動けなかった。


「迷惑かけて、ごめんなさい」


 もっと涙があふれている。

 踏切内で大泣きしているわけにはいかない。

 ボクはキミを支えながら、踏切を渡った。

 すぐそばの狭い路地に入り、キミが落ち着くのを待った。


「ボクのことは気にしなくていいよ」


 今更ひとつぐらいボクに落ち込む材料が増えたって、大勢たいせいに影響はないし。


「気を取り直して、コーヒー飲みに行こうよ。少しは落ち着くと思うし。よかったらケーキでもなんでも食べよう。ボクのおごりで」


 キミの涙は止まる気配がなかった。

 眼鏡を落としそうになっていたので、ボクが取り上げた。

 合図したのではないのに、キミはボクの肩に顔を埋めてきた。

 ボクはキミを拒絶するべきかもしれなかった。

 でも、できなかった。

 コーヒーは飲めなかった。


    *      *      *


 キミはしばらくバイトに来なかった。

「西洋音楽史」も2回は欠席したはずだ。


    *      *      *


 次にキミと会ったのは、バイト先だった。


「今日、終わってから、いい?」

「了解」


 キミとボクは、この日も地下鉄のルートをたどるようにしばらく歩くことにした。

 近道は使わずに。

 地下鉄の駅をどのくらいやり過ごすことになるか分からなかったけれど、どこかの店に入って話せるようなことではないと思っていた。

 この日は前回よりも暖かい日だった。

 キミとボクはゆっくり歩いた。


「休んでた間に、両親に話した。婚約を解消したい、って」

「緊急家族会議開催だ」


 ボクはわざと漢字が多い言葉を使った。

 早口言葉みたいだった。

 雰囲気が多少でも和らげばいいと思った。


「ものすごく怒られた。こんなに怒られたことなんて、今までなかった」

「だろうな」

「ここまで話を進めておいて、突然解消って、おまえは何様のつもりだ、って」

「修羅場だ」

一時いっときの気の迷いじゃないのか、他に男ができたのか、たぶらかされているんじゃないか、妊娠したのか、病院に行った方がいいんじゃないか、精神科がいいんじゃないか、他にもいろいろ、たくさん、たくさん言われた」

「すごく心配してくれてるんだよ」

「うん。怒ってくれるのも、たくさん言ってくれるのも、とても心配してくれているからなんだって分かった」

「そうだよ」

「私、すごく泣いちゃった。申し訳なさももちろんだけど、嬉しくて」

「それから?」

「私の気持ちを、全部正直に話した。そうじゃないといけないと思ったから」

「うん、それでよかったと思うよ」

「両親は呆れてた」

「そっか」

「何度も何度も話し合った。私の意志を確かめていたんだと思う。だから、最後は私の意思を尊重してくれた」

「いい親御さんだ」

「おとうさんに言われた。『一度だめだと思ってしまったら、もう元には戻らない』って」

「なるほど。『覆水盆に返らず』だ」


 うつむきながら、でもしっかりした口調でキミは話してくれた。


「今週末、先輩の家に行って、謝ってくる。おとうさんがついてきてくれる」

「そうなるよな」


 キミは立ち止まった。

 上目遣いにボクを見つめた。

 顔を戻すと、ボクの目をまっすぐに見つめ直した。

 強い意志を感じた。


「だから、待っててほしい」


 ボクには意外な言葉だった。


「ボクが? 何を?」

「あなたと一緒にいたい」


 キミはボクから目を離すことはなかった。

 ボクはしばし呆然としてしまった。


「やっぱり、ダメかな」


 そう言うとキミはボクから目を離し、うつむいてしまった。

 ボクはなんと答えればいいのか、考え込んだ。

 無意識に握った右手を口にあてがい、左手は右肘を支えていた。

 ボクの目はキミの足元を見ていた。

 でも、正解なんて分からない。

 そんなものはないと思い始めていた。

 キミはまだうつむいたままで、静かにこう言った。


「あなたって、実はなかなか本心を言ってくれないよね」

「え?」

「いつもけむに巻く感じで、正体不明でいようとしている。人づきあいが苦手と言いながら、どこかに隠れてしまう」


 ボクは衝撃を受けた。

 自分では思いもよらないことだった。

 でも、ボクが反応したのは、無意識にそうと認めたからだと分かった。

 キミの言葉は、ボクの永年の弱点のど真ん中を一撃で貫いたのだ。

 知り合ってからわずかな時間を共有しただけとはいえ、キミは迷うことなくボクをきちんと見ていてくれたのだ。

 そうでなければ、こんな言葉が出てくるはずがない。


「私は、ね」


 キミは再びボクをまっすぐに見つめていた。

 ボクはたじろいでいたと思う。


「あなたがどこに隠れようと、必ず探し出して、捕まえたい。あなたとの距離をなくして、あなたの心から直接、あなたの気持ちを確かめたい」

「……」

「私、自分があなたのことを誤解しているなんてちっとも思わない。でも、あなたの気持ちがどうなのか、分かっているなんて言えない。あなたがどうして隠れてしまうのか、今の私には分からない。けど、いつかあなたの気持ちを全部しっかり抱きとめるから、だから……あなたに出てきてほしい。そして」


 キミの目から涙が一筋こぼれた。


「私のそばにいてほしい」


 そこまで言うと、キミは両手で顔を覆っていた。

 ボクは胸がいっぱいになっていた。

 頭の中は真っ白で、言葉は出てこなかった。

 どのくらい沈黙が続いたのか、よく分からなかった。

 街の音は耳に入ってこなかった。

 ボクはひとつ息を吐いた。


「最近、キミは泣きすぎだ」

「だって」


 キミはもう顔を覆っていなかった。

 なのに涙がまたあふれようとしていた。


「キミらしくないと思うよ」


 もうこれ以上泣いてほしくなかった。


「私の言葉、おかしくなかったよね」

「うん」


 くしゃくしゃになりそうな表情のキミがいた。


「ちゃんと伝わったよね」

「心からのものだと感じたよ。ちゃんと、お客さんに届いてる」


 キミに少し笑顔が戻ってきた。


「劇団で鍛えているから」

「全部、きっちり、決着つけて来いよ」


 ボクは思いがけない言葉を吐いていた。


「うん、そうだよね」


 何かをちょっと考えているキミ。

 自分の背中を押すキミ。

 一歩踏み出す、キミ。


「分かった。頑張ってくる」

「当然だ」

「待っててくれる?」

「待ってるなんて、約束できない」

「どうして……」


 うつむくキミ。


「キミはとにかく決着をつけなくちゃいけない。その先は、また別の話だと思う」

「……」

「キミが決着をつける前に、ボクは素敵な女の子を見つけて、そっちに行くかもしれない。キミに義理立てする必要はないと思ってる。ボクの出番はまだないけれど、もしかしたらずっとないままかもしれない」

「そんなこと言わないでよ。これで最後なんていやだよ。終わりになんてしたくないよ」

「でも」

「でも?」

「キミと次に会えるまでボクに何事も起こらなければ、結果的に待ってるのと同じではある」


 そもそも、ボクに何かあるなんて、自分ではまったく思ってないけど。


「回りくどい言い方をして、また煙に巻こうとしてるでしょ」


 キミは鼻声になっている。


「もう泣くなよ」


 キミのハンカチはぐっしょりになっていた。

 ボクは自分のハンカチを渡した。


「洗ってあるから大丈夫だと思うけど、におったらゴメン」

「ありがと」


 キミは目の周りを拭いた。


「すごく面白い顔になってるよ」

「やっぱり、ずるい。話をそらそうとしてる」


 キミはまだ鼻声だった。


「闇のオーラを出しているんだ」


 夜だから辺りは暗いのに、ボクはおかしなことを言ってしまった。


      *


 そろそろ地下鉄に乗らないと、終電に間に合わなくなりそうな時間になっていた。

 キミとボクは少し慌てて地下鉄へ潜った。

 ホームの時刻表を確認した。

 終電には間に合いそうだった。

 キミとボクの間には、まだ距離があった。


      *


 例によって、私鉄の乗換駅に着いた。

 キミとボクはこのあと、別々のホームに立つことになる。


「じゃあ、ここで解散」


 ボクは言った。


「了解」


 キミはボクのまねをしたらしかった。

 キミの涙目は当分治りそうになかった。

 けれど、この日のキミは眼鏡をかけなかった。


「ちゃんと帰れるか?」

「大丈夫」


 キミはどうにかして微笑もうとしていた。

 顔がひくひくして見えた。

 時間がかかった。

 少し不自然に見えたけど、キミは間違いなく微笑んだ。


「またしばらく会えないけど」


 キミは言った。


「連絡もなかなかできないと思うけど」


 泣きそうなのをこらえているように見えた。


「最後だなんて、絶対思わないから、お別れの言葉は使わないね」


 少ししゃくり上げ気味だったけれど、キミの言葉は、はっきりと届いた。


「またね」


 ボクに手を振るキミを、階段を下りていくキミを、ボクは黙って見送っていた。


    *      *      *


 キミのおかげで、ボクでもすっかり仕事を回せるようになっていた。

 キミはしばらく休ませてほしいと連絡を入れたようだった。

 いつまでなのか、シフト表では分からなかった。


    *      *      *


 ボクは相変わらず指定席にいた。

 一般教養科目である「西洋音楽史」は出席をとることがなく、当然代返の必要もない、のんびりしたものだった。

 大半の連中が講堂のうしろの方に集まって、その多くは寝ていたと思う。

 もちろんキミはいなかった。

 学内で奇抜な服装を見かけることもなかった。

 この日取り上げられたのは、何故かプロコフィエフの『交響曲第5番』だった。

 ボクの好きな曲のひとつだけれど、とても冒険的な選曲だと思った。

 もしかしたら、講師の先生が好きな曲なのかもしれない。

 この曲を知っている人がこの講堂に何人いるのか、はなはだ疑問だった。

 年度末の試験にこの曲が出たら面白そうだ。

 ボクは思った。


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