左を見れば
左を見れば美女がいる。
「……なんでなんやろなあ」
「……なんでなんだろうね」
そして、もう何十回目になるかわからないやりとりのルーチンが、またしても私たちの口から漏れた。ついでに付け加えれば、その後の数秒の沈黙まで含めてひとつのルーチンだ。成績の悪い高校生でも組めそうなプログラム。同じことを言っては黙るの繰り返し。
「……なんでなんやろなあ」
関西混じりのイントネーションで言うのが、私の友人である桃山美咲である。美女である。美咲のことをカワイイと言ってしまう私は、そこらの女子と比べて迂闊にカワイイと言えなくなってしまっている。もっと上級な形容をもってして彼女の容姿を褒め称えたいものの、やめてえなと照れてしまうので自重せざるを得ない。
「……ホント、なんでなんだろうね」
ちょっとアレンジを加えて言ってみたのが私こと村野桜子。私もがんばったら容姿で褒めてもらえることもあるのだが、横に美咲がいるので相対的にブスである。別に自虐ではない。人生これまで、桃山美咲ほどの美女に私は会ったことがないだけだ。
二人して座っているここは、大学のサークル室の一角。他のサークル室とは基調が異なる、畳中心の和室となっている。講義の空き時間に集まっているだけなので、活動中ではない。もっとも、授業スケジュールに空きが出るのは当然のことで、暇を持て余した部員たちがだいたいいつの時間も入れ代わり立ち代わりいる。
そう聞くとゆるい印象を抱くが、これまた我らが茶道部は厳しいところなのだ。
茶道部で厳しいってどんなんだ、と思われる方もいらっしゃるだろう。一方で、茶道において礼儀は必要不可欠、という事実を知っている方も多いはずだ。
要は、茶道部にいるからには大和撫子でありなさい、という厳しい厳しいルールが敷かれているのである。おそらく、ここが女子大であるということも大きな要因なのではなかろうか。
染髪・ピアスなどもってのほか、お天道様に顔向けできない行為はやめなさい、淑女でありなさいといった暗黙の規則に溢れているため、部活動以外の制限も大きい。変に破れば部員の資格が剥奪されるという徹底ぶりだ。私の同期でも追放された人がいた。まあ、試験のカンニングという庇えない内容だったのだが、それで大学のサークルをやめさせられるというのは厳しいものではなかろうか。
こう連ねていると、なんで私はこんなところにいるのだろうと思ったりもするが、茶会などの活動は楽しいし、気の合う友人も多くいるので居心地が悪いということはない。
……ただ、今の私たちの気分は居心地悪いことこの上なく。
「なんでなんやー」
「なんでだー」
とある部内問題について、二人して頭を悩ませているのであった。すると。
「あなたたち、本当同じことばかりで飽きませんね」
言葉に温度があるとすれば零度以下。そろそろ冬が見えてくるかなという秋口の気温を下げるかのようなセリフが私たちに向けられ、つい二人して座布団の上に正座してしまった。
左を見れば声の主──木島部長が、無表情からほんの少しだけ笑顔に持っていったような表情でこちらを見ていた。さっきまで、部室のキッチン回りで作業をしていたが、どうやら終わったようである。
「飽きませんねじゃ、あきませんねん、部長……」
桜子が関西弁で返す。高校までは関西で、大学からこちらなのが誰でもわかる。なお、私たちは二年生。部長は三年生だから一つ上だ。木島部長の落ち着きぶりはすごいので、一つ違いとは見られないかもしれないけれど。
「けれど、今クヨクヨと悩んだところで変わらないでしょう?」
部長の正論に、それはそうだけど、と美咲と顔を見合わせてしまう。色々厳しいとはいえ、服装規定があるわけではないので、部長もセーターにスカートと普通の女子の恰好であるが、この人は四六時中和服でも全く違和感がない。加えて快刀乱麻を断つとはこのことか、と唸ってしまうほど合理的な性格をしている。部長のやや太めの眉が吊り上がるところに鉢合わせたら、膀胱の辺りが縮み上がりそうだ。
「さ。あなたたち、講義はないんですか? あと十分ほどで四限が始まりますけれど」
部長の問いかけに、私たちは揃って首を横に振った。
「私たち、五限に英語が入ってるんです」
「あら、そう。そういえば今、部の経費精算は村野さんにお願いしていましたよね」
「あ、はい。私です」
急に話題が変わったのでちょっと驚く。
すると、ちょっと待って下さい、とキッチンの方に引っ込む部長。ほどなくして、長めのレシートを片手に戻ってきて、きっちり両手で私に見えるように差し出した。
「予算の買い物ですか、名目はどうされますか?」
「キッチンの設備が古かったので、一式入れ替えなんですが……ほとんどが湯呑みで、あとはまな板と包丁くらいですし、食器類としておいてください」
確かにうちの湯呑みはいつからあるのか分からないような代物だった。茶道には使わないとはいえ、普通にキッチンでお湯を沸かして急須と湯呑みでいただくことも多いので、買い替えは助かる。予算の使い道としても問題ないだろう。
レシートをざっと見れば合計十一点で一万円超。そんなものか。
私は立ち上がって部室の鍵つきロッカーを開け、経費報告用のクリアファイルにレシートを入れた。部長は満足げに一つ頷くと、
「では、私は講義に行ってきますので。ごきげんよう」
「いってらっしゃいませー」
美咲の返事もどこか気が抜けている。部長もそれを感じ取ったのか、
「……そこで二人で唸っているだけでは、時間の無駄だと思いますよ。気分転換でもしたらどうですか」
クール系の女優の言い方でバッサリ切った。そりゃこちらも分かっているけれど、時間の無駄と言われると腹が立つ。
「部長のなかでは」美咲の声にもちょっと棘が入った。「もう、あのことは終わったことなんですか?」
普段は真面目な口調にあまりならない美咲の剣幕に、部長は軽く目を丸くした。しかし、
「……ええ。終わったことですね。私の中では」
ひゅっ、と息を呑む美咲。
「みんなが部長みたいに割り切りのいい人とはちゃうんです」
喧嘩腰になりそうな雰囲気を察知して、おろおろしだす私。
「……桃山さん。あなたにとっても、私にとっても、今日をもってこれは終わったことになります。そうでなければ、時間の無駄だなんて言いませんよ」
部長も嫌な空気を感じ取ったのだろう。言うや否や、颯爽と部室を出ていってしまった。
「……部長、感情あるんかなぁ……」
呆れたようにぼやく美咲の横で、私はふとロッカーの左を見やった。
写真が一枚、飾られている。先日、茶道部のみんなで遊園地に行った時の写真だ。メリーゴーランドをバックに、十名弱の笑顔が映っている。その中にはもちろん私もいるけれど、その左隣に写っている二人を、ついつい注視してしまう。
──古川真理奈と、土居すみれ。
「なんか、腹立ってきたなあ」
口を尖らせる美咲には返事をせず、ふと私は、木島部長の木って、鬼のほうだっけなあ、なんてことを考えていた。
古川真理奈が自動車事故に遭ったという連絡を私が受けたのは、三週間前のことだった。
大学はまだ夏季休暇中の九月、彼氏と二人でドライブに行っていたところ、カーブの多い山道でガードレールに思い切り突っ込んだらしい。シートベルト・エアバッグがしっかり作動して、運転者の彼氏は軽傷で済んだらしいが、真理奈は打ちどころが大変悪く、意識不明の重体だった。
真理奈は私や美咲と同級生で、特に美咲はプライベートなつきあいを多くする方ということもあり、事故の一報は真理奈のご両親を通じて美咲に入り、そこから同級生の私や部長に連絡が行った。
そこで聞かされたのは、命に別状はないものの、半身まひの後遺症が出ており、今後右手を動かすことができなくなるかも、ということであった。
そのときの私の狼狽ぶりはひどかったと思う。実家暮らしなので家族には心配されるし、実は私は双子の姉妹がいるのだが、落ち着きなよ桜子ちゃんとなだめられながら、なんで自分と同じ顔をした人間がこれに落ち着いていられるのだろう、と心の底から不思議になり、理不尽に切れてしまったりもした。あとでめちゃめちゃ謝った。
同い年の女の子が、もう右手を動かせなくなるなんてこと、想像しただけで涙が出た。それは真理奈のことを思っての涙なのか、純粋な恐怖の涙だったのか、今でも判別できない。
お見舞いに行こうにも、北海道旅行中の事故で病院も現地、飛んで行ける場所ではない。後輩たちへの連絡は美咲にすべて任せ、なんとも落ち着かない日々を送っていたところ、二つほど厄介なことが起きてしまった。
一つは、事故の詳細が明らかになってきたことによる。どうも、真理奈は事故の直前、運転中の彼氏と「いちゃいちゃ」していたようなのである。シートベルトで保護されるような態勢でなかったので、打ちどころが悪くなってしまったらしい。
このことを私は美咲から聞いてはいない。別の部員から噂話の形で知った。あとで美咲に確認したら、事実らしいと渋々認められてしまったが、こんな類の噂は本当に早く広まるものである。
そしてこれを、部長が良しとしなかった。
まあ、厳しい我が部からすれば、アウトの事例なのは間違いない。別にアイドルでもあるまいし、恋愛を禁止されているわけではないが、真理奈を大和撫子というのはもう無理だろう。事故の悲報もどことなく自業自得の雰囲気に変わりつつあり、部員資格が剥奪されるのではないか、と、違う意味で厄介なことになったのである。
そしてもう一つの厄介ごとが、土居すみれだった。
新人の一年生の彼女は、端から見ていても真理奈と特に仲が良かったし、そして思春期を今日まで引きずったかのように多感な子であった。
そんなすみれが事故の連絡を耳にして、どれほど不安定になったかは想像に難くない。
私でさえも大きなショックを受けたが、それどころの騒ぎではなかった。情緒不安定が過ぎて誰かがそばにいなければ大変だったし、ご家族の目を盗んで夜中にお金も持たずに北海道に行こうとして止められる事件もあったという。
真理奈の不利益な事実と、すみれの反応。連絡から一週間強の期間、茶道部は二つの厄介ごとの中で荒れていた。
まあ、その二つは、私たちにとっても「終わったこと」である。本題はここからだ。
ほどなくして、真理奈がこちらの病院に移ることが決まったのである。
事故直後は意識不明だし、聞けばまひも残っているというが、命に別状はないので移送したほうがいいだろうとのこと、明るいニュースであった。
事故のせいで、真理奈の携帯電話は粉砕されてしまったし、まったく連絡が取れておらず、情報は全て真理奈のご両親を通じて、ついでに美咲も通じての間接入手であった私たちはみなで喜び、すぐにお見舞いに行こうという話がまとまった。
これにより、すみれもかなり安定してくれたのが大きかった。皆で百貨店に行き、お見舞いの果物を選んでから病院に向かったが、その時私は久々に彼女の笑顔を見た。
ただ、やはりすみれの真理奈に対する思いは並ならぬものがあったのだろう、実費で別にお見舞いの品を用意していた。それをバランスが悪いと責める者は誰もおらず、木島部長でさえ何も言わないどころか、すみれを情愛のある目で見ていたように覚えている。
そして病院、真理奈との対面のときである。
久々の再会の印象は、あれれ、というものだった。拍子抜けするくらい、普通だった。
パジャマもって泊まりに来たよー、くらいの軽さで、真理奈はベッドに寝そべっていた。
聞けば、多少の外傷は完全に治り、首だけ簡易ギプスで固定するほかはなにもする必要が無いのだという。そして右手に関しても、神経の問題なので包帯等もいらないらしい。
それでも、心配かけてすみません、としおらしく謝る真理奈を前にすれば、感動で目も潤むものだったが、ここからさらなる感動が待っていた。
「真理奈、リハビリ次第によっては、右手、動くようになるんやんな?」
美咲がそう呼びかけ、そうなんだ、と真理奈が頷いたのだ。
私もそれを聞いた瞬間、潤んだ目の堤防が完全決壊していた。一番の懸案ごとに希望が訪れたのだ、無理もない。
しかも、真理奈はリハビリに前向きだった。
「あたし、絶対に直して、来年の茶会は問題なく出られるようにします!」
そう決意表明する真理奈の目には、強い熱意が籠っていた。おそらくその時、場にいた全員が木島部長の方を窺ったと思う。部長は何も言わなかったが、ちょっと険しい顔をしていた。
これは仮に部を追放になったとしても、残留の嘆願をしよう。そう決意したのは、私だけではなかったはずである。
「右手、絶対動かせるようにしますから! 利き手を変えようみたいな甘え、私の中ではないですから!」
二年弱の付き合いだが、こんなに熱い部分あるんだ、と心が温かくなった──
──の、だが。そこから先が、それどころではない事態になってしまった。
突然すみれが、大声を上げて泣き出してしまったのだ。
感極まってしまったのかと一瞬思ったが、すぐに違うと悟った。これは、負の感情が爆発してしまったときの泣き叫び方だ。
木島部長が迅速に動き、すみれをなだめようとした瞬間、すみれは部長の手を振り払って病室から駆け出して行ってしまった。
あまりの展開に私たちは一様にポカンとしていたが、すぐに慌しい雰囲気になり、何人かですみれを追いかけはじめた。部長や私も加わったが、美咲は病室に残った。
すみれの逃げ足は大変早かったが、病院内を駆けて行ったこともあり、多数の目撃証言を得られたので、ほどなくして病院裏の公園で泣きじゃくっている彼女を発見できた。
怪訝そうな顔でこちらを見つめる親子連れなどを無視してすみれに駆け寄ったとき、私はぎょっとした。すみれの足元に、陶器の破片が散乱していたのだ。しかも、現在進行形でそれを踏み潰している。尋常じゃない。
「ちょっと! 危ないわよ!」
珍しく語調が崩れた部長に取り押さえられてもなお泣き続けるすみれを前に、私はうすら寒いものを感じた。
すみれが壊していたものが、どうも急須であることは私も察しがついたが、それが真理奈への個人的なお見舞い品であるということは、破片の掃除から彼女を自宅に送ることから全てをやってのけた木島部長から、後で聞いた。
そしてその日から今日までの約五日間、すみれは自宅から一歩も出てこなくなってしまったのである。
「……なんでなんやろうなあ」
「……なんでなんだろうねえ」
部長がいなくなった後も、同じことを繰り返す二人。言葉を補おう。
──なんで、あの場ですみれは泣きだして、あのような奇行に走ったのだろうか?
おかしい。病室での真理奈の報告は、どう考えても明るいものだったはずだ。すみれがネガティブになる必要など、何一つない。
「それにしても部長、ひどいと思わへん?」
「うん、冷たいなあって思う」
「やんなあ」美咲が座布団の端っこを苛立たしげに弄りながら語調を強めた。「今日をもってもう終わったことやって。それって、真理奈も追放して、引きこもってもうたあの子も退部するだろうと踏んでのことなんやろか」
「……かもね」
部長は合理的な人間だ。今回の件でも心を痛めていないとは思わないけれど、過去を割り切って先に進む能力については他の追随を許さない。
「なんか、確かにウジウジしてるんはうちらやけどさ、それを否定する気が起きひんわ。そら人間こうなるやろ、思うもん」
「美咲、真理奈とよく連絡とってたもんね……」
「せやで。まあうちはそういうのマメにするタイプってのもあるけどな」
ブブ、と美咲のポケットが振動。美咲は慣れた手つきでポケットから携帯を取り出し、まさにマメにするタイプの実例を見せつけた。
「うわ、またストーカーからメールや」
「え、また」
「またまた。放置しとこー」
その美貌からすれば仕方ないことかもしれないが、美咲は非常にモテる。本人もそういう自分が好きなので、変に地味に着飾ったりすることもない。茶道部にいるだけあってギャルっぽいオープンな格好にすることはないが、芸能事務所からスカウトされているのを、私も一回見たことがある。
そんな美咲なので、粘着質な男性(たまに女性)に付かれてしまうこともあるようだが、慣れきってしまったのか対応がこなれている。
「基本無視。面倒くさくなったら警察。これでオッケーやで」
言われてみればそうであるが、割り切って行動できる辺りさすがだ。部長は容赦ないとかよくぼやく美咲だが、私からすればみんな決断力がありすぎる。
「ホント、タフだよね美咲。すごいと思うよ」
「環境やって。最近もなんか無言電話あったけど、無言電話そのものに害はないから」
「いや、精神的にイヤじゃん……」
私が控えめに突っ込むと、確かに無言電話は今までなかったし虚勢張ったわ、とひと笑いした後で、
「とにかく、すみれちゃんの行動の謎を解かないことには、茶道部のモチベーションにかかわるで。桜子、なんか思いあたったりせえへん?」
「ずっと考えてるんだけど、ないよう」
私は嘆息した。客観的に見れば、真理奈の右手が治ると知ったとたんにすみれは泣きだして病室を出ていき、お見舞いの急須を叩き壊したことになる。それではまるで、真理奈の右手が治ってほしくないかのようではないか。
しかし、すみれに限ってそんなことはないはずだ。
「すみれちゃん、真理奈ちゃんのことを思うあまり、あんな行動に出たと思うんだけど」
「そら、うちも思う。そこがなんでかがわからへんのよなあ」
二人して俯き、私のストレートと美咲のショートボブが同時に揺れた。万事休すかなあ、急須なだけに。しょうもない駄洒落が頭に浮かんでしまう。
と、私の携帯電話が着信を告げた。見れば、電話である。表示されている名前は、私が現在お付き合いしている人間だった。言及してなくてなんだが一応いる。
「あ、彼だ」
呟くと、美咲が「早よ出て」と嬉しそうに言った。
というのも、私の彼氏というのが中々頭が切れるため、こういう不可解なことに対して的確な助言をくれることが多く、前もって相談していたのだった。その辺りは美咲も了解済みである。
「もしもしー」
電話に出ると、ざわつきとともに彼の声が聴こえてきた。街中だろうか。
「あ、もしもし? 今いける?」
「うん、大丈夫だよ」
きっと、相談の回答だ。昨日話した時は、頭を抱えながら「わかんねえ……」と唸っていたが、なんか閃いたら連絡するよと言ってもらっていたのだ。
「あー、昨日の話の件なんだけどさー」
「何か閃いた?」
私の声音が期待で弾む。すると、彼は一瞬間合いを作ってから、
「いや、スッキリする答えは出てないんだけどな。ごめん」
「ううん、気にしないで。こっちも全然分かってないから。ちょっとでも思いつきがあれば嬉しいの」
「やっぱそうだよなあ。で、ちょっと気になることがあったもんだからさ」
「何?」
「えっとさ」彼が言葉を整えた。「その、引きこもっちゃった子なんだけど、なんで公園でお見舞いの急須を叩き壊したのかなあって」
どういうことだろう。美咲に伝えてみると、
「そら、何らかの不安定なメンタルに陥ってしまったからとちゃうのん?」
私も同感だ。そう彼に言ってみる。
「うん、それはそうなんだろうけどな。なんかその子が、病室内でヒステリー起こしたんだったら、その場で叩き割るもんじゃあないかなって思って」
「確かに、一回公園まで走ってからだったけど……病室じゃまずいと思ったんじゃないの?」
「そんな理性があったら大声で泣き叫んだり走り回ったりもしないだろ、普通」
「そ、そうかも」
「どうも、半端に見えるんだよ。その場から立ち去りたければ公園でもたついている必要はないし。俺の感覚だとその子、とりあえず精神的にダメージを食らって逃げ出して、とりあえず公園に来た辺りで、その急須を壊さなきゃ、と何らかの理由で思ったんじゃないかなあ」
言われてみればそうかもしれない。私が考え込むと、電話越しの彼がちょっと慌てたようになった。
「ま、まあ俺の想像があってたとしても、まっすぐ家まで帰ってそこで叩き割るのがスマートだと思うし、その子が感情に任せて動いたのは間違いないと思うぜ。ただ、急須を割るっていう行動が、単なる破壊衝動によるものじゃないだろうなって思ったから、一応連絡入れたんだよ」
「うん、ありがとう」
「いやあんま役には立ってないんだけど。俺の持ち情報じゃあそこまでは想像つかないし、ちょっと茶道部でその辺から考えてみればいいんじゃないかなって。それだけ」
謙遜するものの、今までの私たちにはない発想だ。私は彼にお礼を言って、電話を切った。
「なるほどなあ……」
大体を察していた美咲も腕を組んで頷いている。
「なぜ急須を割ったか、かあ。確かに割る必要はないなあ、すみれちゃん。あの子、真理奈の怪我のこと知ってたやんね?」
「うん。美咲が言ったんじゃなかった?」
「ああそうやった、ごめん」美咲が頭をかいた。「いや、もし知らんかったら、せっかく急須を持っていったのにリハビリが要るなんて、ってショック受けたんかなって」
「うーん、実際知ってたわけだからねえ」
成り立たない推論だが、説得力がある気がした。私も粉々になった急須は見たが、かわいらしい柄があったので観賞用に買ったのだろうと思っていたが。
真理奈は茶道とはあまり関係ないお茶用品も結構好きなので、お見舞いの品で持っていくものとして不適切だとは思えなかった。
「困った、やっぱり出てこーへんな……なんか、急須の事ばっかり考えてたら喉渇いてきたし。お茶淹れよ」
そう言って立ち上がり、キッチンの方に向かう美咲。ごそごそと音がして、
「あ、これか部長が替えてくれた湯呑み。十個あるやん!」
「え」その言葉に私は違和感を覚えたが、「あ、前は八つだったね」
「地味に増やしてくれるのはありがたいなあ。さっそく使ったろ」
ここからキッチン内部は死角になるので、私はやや手持ち無沙汰を感じる。さっきまで左には美咲がいたが、ぽっかりと空間が空いたままだ。
そぞろに部屋を見渡すと、さっきも目に留まった写真が視界に入った。遊園地のメリーゴーランドの前で、みんなで撮った写真だ。部長が写っていないが、そういえば撮影者が部長だったなと思い出す。
──めちゃめちゃ厳しい人だけど、部を支えてくれてる人だよなあ。
──でも、今回の一件は厳しすぎるよなあ。
「……桜子?」
不意に声がして左を見れば、お茶を淹れ終わって座り直している美咲がこちらを怪訝そうに見ていた。ほどなくして、私の視線の先に気づいたのだろう、
「ああ、この写真なあ。みんな、楽しそうやなあ……この後ろのメリーゴーランドもみんなで乗ったよね」
「……しんみりしちゃうね」
「うん……いや、それやとあかんねん! この雰囲気なし!」
ブンブンと手を振り回す美人。これはこれでアリだ。
「はい雰囲気かえまーす! メリーゴーランド雑学!」
「……なにそれ」
まあ、聞くけど。
「メリーゴーランドって絶対左回りしかないの、知ってる?」
「そうなの?」
「せやねん。なんでも、人間は無条件に左に行こうとか左を見ようとする習性があって、左回りは落ち着くんやって。だからスリルのあるジェットコースターは、逆に右回りが多いんやって」
「そうなんだ」感心したが、ふと記憶が蘇る。「あれ、私前に見た映画で、右回りのメリーゴーランド見た気がするなあ」
「え。そうなん」
不安になったのか、携帯電話を起動してインターネットで調べごとを始める美咲。
一分後。
「あー……まあ、海外にあることはあるみたいやな。でも、やっぱり日本の主流は左回りなんやて! ここ日本やし!」
「あはは、そうだね」
なんとも中途半端な雑学だが、ちょっと気が晴れた。それに、ちょっと使ってみたくなる。メリーゴーランドはほぼ左回りで、右回りはほとんどない──
──ん。
ふと、類推して私に閃きが来た。それはとても些細な事だったが、そういうところから推論は組み立てられていって──
「み、美咲」
突如立ち上がった私。
「な、なに?」
「わ、わかったかも」
「ええ?」
心臓の鼓動が大きく聴こえる。興奮状態にあるのだろう。
そりゃ、アルキメデスさんも、風呂から飛び出すわ。ふと思った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「分かったってのはあれやんな、すみれちゃんが何で病室から泣いて出ていったのかってとこやんな」
ホントに分かってるの、と訝しむように美咲が訊いてきた。
「う、うん。あくまで、納得いく仮説が一個できたってレベルだけど」
「いやいや、こんな考えて何も浮かばへんねんから、一個出たらもうそれやと思うなー。で、どんなん。はよ、はよ」
こんなときだけ関西風のせっかちを出してくる。私は苦笑した。
「えっとね。やっぱりすみれちゃんは、急須を破壊したことからも連想できるんだけど、やっぱり急須を持っていったから病室でショックを受けたと思うんだ」
「うーん、ピンとけえへんなあ」
「ちゃんと段階踏むよ。まずさ、私もそうだったけど、病室に行って真理奈に会うまでは、私あの子がもう右手を使えないものだと思ってたのよ」
私が告げると、美咲は記憶を手繰るように目だけで左を見た。
「あー……せやな。そもそもうちも前日まで知らんかった。ご両親から聞いたんやけどね。だから、そのことは本人から聞いたらええわって思って当日まで黙ってたなあ」
「でしょ。だからすみれちゃんも、真理奈の右手は使えないっていう認識で行って、実は使えたってなったわけなのよね」
「そうやな。でも、それってグッドニュースやん?」
心底不思議そうにする美咲。そりゃ、ここでずっと躓いていたものね。
「そう。だから私、すみれちゃんが持っていった急須って、ちょっと特殊なものだったんじゃないかなって思ったの」
「特殊な急須? そんなんある?」
「ふふ、美咲がメリーゴーランド雑学を言ったから思いついたんだよ」
言うと、美咲はうんうん唸りだした。
「え、左回りがほとんどってやつ? それ、急須でなんかあったっけ? 左回り、右回り、左、右……あ、もしかして」
どうやら閃いたようなので、私は続きを促した。
「すみれちゃん、左利き用の急須を持っていったんか!」
「うん。そうだと思うの」
一般に売られている急須は、右利き用しかない。というか、急須といえば右手で持ち手をつかみ、左手で蓋を押さえて使うものという認識で統一されており、そもそも利き手に関わらずそのように使うものである。
しかしやっぱり左利きの人は左手で持ち手をつかみたいだろうし、そうなれば左利き用の急須が必要となってくる。洋風ティーポットは持ち手と注ぎ口が百八十度離れてついているから利き手が関係ないが、急須は九十度離れてついているから、右手でしか持てないのだ。
ということで、非常にニッチな需要であるが、左利き用の急須というものも、販売自体はある。専門店に行かないとまず売っていないけれど。
「そうか……すみれちゃん、真理奈の右手がもう動かないこと前提で、励ます意味も込めたんかな、左利き用の急須をプレゼントしようと考えた、か……筋は通ってんなあ」
「それで、だよ。実際行ってみたらリハビリでよくなる可能性がある、と。それはすごくいいニュースなんだけど、真理奈あの後に息巻いてたでしょ。絶対右手を治すとか、利き手を変えるような甘えはしない、みたいな」
これからは左手で頑張ろう、という気持ちを込めて病室に向かったすみれちゃんにとってはショックな話になるだろう。少なくとも、プレゼントを渡せるような状況ではない。
「まあ、だからってあそこまで泣き叫ばなくてもいいんじゃないかなとは思うんだけど……すみれちゃん、とっても思いつめてたでしょう。もう、右手の使えない真理奈をどう励ますかってことを前もってずっと考えてたんじゃないかな」
「で、それが自分の思い込みに過ぎなかったと分かった、と……なるほど、ほならショックも受けるやろうし、自己嫌悪にも陥りそうなもんやなあ」
「それで公園まで無我夢中で走って、自分が急須を持ってることに気づいて、こんなもの、と衝動的に壊した、というのは筋が通ってるよね」
実際私が目撃した粉々の急須は、蓋や注ぎ口の残骸から急須だと判定することはできたものの、左利き用かどうかなんてことは分かるはずもない。
「桜子、それや。今までの中ではそれが一番ええ。なんか、そんな気がしてきたもん」
「そ、そうかな……」
控えめに呟いてみるが、私も中々いい線行っているのではないかと思う。とりあえず、さっきまでなにも出せずに悩んでいた時と比べれば大進歩だ。
「そうか、気負い過ぎと自己嫌悪やな、それで引きこもってもうて……ん?」
突如、美咲の顔がゆがんだ。美人が台無しだ。
「……それ、あかんくない?」
「どこが?」
「いや……」
心持ち顔が青ざめている。大丈夫だろうかと不安になる。
「だってやで。これが真実としてやで。もう右手は使えないって聞かされてお見舞いのシナリオ考えて、裏目に出ましたと。そら自分はショックやわな。家に閉じこもるのもわかるわ。けどやで。これ、もう右手が使えないって聞かされた人間に対しては、どんな感情をいだくもんやろか」
「……あ」
間違いなく、暗い感情だ。こいつがそんなこと言ったせいで、自分はこんなに傷ついたのだと恨んでもおかしくない。
そしてそれを言った人物というのは──美咲だ。
おもむろに、私たちは顔を見合わせた。
「ど、ど、ど、どうしよ」
「落ち着いて美咲、これが本当ってなったわけじゃないよ」
「いやいや、仮に違ってもうちがあの子に右手のことを言ったのはホンマやん。そのこと自体がアウトなんちゃうやろかって気が」
と、ここで美咲の言葉が止まる。そしてわなわなと震えだして、
「もしかして、最近かかってきた無言電話って……」
「ちょっと! やめてよ!」
ストーカーなんて慣れきっていると豪胆な面を見せているのが嘘のよう、美咲はもはや狼狽の塊だった。伝染して私にも冷たい恐怖が押し寄せてくる。
「さ、さ、桜子うちどうしよおぉ」
ついにはお腹の辺りに抱きつかれるまでに至る。なんだか湿っぽいものを感じるが泣いているのだろうか。駄目だ、そんなことされたら私までそういう気持ちになって──
「……あなたたち、五限の準備をした方がいいんじゃないですか」
聞き覚えのある冷たい声に、私たちは浮気現場を発見されたかのようにお互いから離れた。
その声の主はもちろん。
「ぶ、部長」
四限から戻ってきた木島部長その人だった。
いつもなら、お叱りの一つでも飛んでくるようなシチュエーションだ。しかしながら今は、私たちの尋常ならざる態度を察してくれたのか、やれやれといったような表情をしてから、優しい声で語りかけてきた。
「……まったく、もう終わったことだって言ったじゃないですか……二人とも、五限の準備を早くしなさい。その間、私が独り言を言いますので聞き流してください」
「……やっぱ、部長ってすごいわ。目から鱗落ちたもんな、うち」
「……うん、心から思った」
茶道部の部室を出て、私たちは五限の教室へと向かっていた。
つい三分前、私たちは部長に言われた通り荷物をまとめ、次の講義の準備をした。そして部長の宣言通り、彼女の「独り言」を耳にすることができた。
曰く、こういうことであった。
急須を破壊して泣きじゃくるすみれを家に送り、残骸を掃除した部長は、すみれから何かを聞きだせたわけではなかったものの、急須の残骸からこれが左利き用のものだと気付き、大体のことを察した。私の推論は合っていたわけだ。
そして、翌日すぐにすみれの家に乗り込み、懇々と話し合ったそうだ。
確かにすみれは美咲のことを恨んでいたという。かなり黒い感情を持っていたようだ。
それでもしっかりと話し合うにつれて、感情を整理する時間は欲しいというものの、すみれの中でこの件は消化できたそうだ。
部長の言う通り、この件はもう終わったことだったのである。昨日、すみれからそろそろ大学に復帰できそうだと連絡がきたらしい。
また部長からも、真理奈の部員資格を剥奪することはしない、とすみれに約束したようで、それもすみれの回復に大きく寄与したのは間違いない。
「そもそも事故の原因についても伝聞の域を出ませんし、何より彼女の茶道に対する熱い思いに応えるのが大和撫子たるものですから」
なんて部長は言っていたが、ひょっとして部長、ツンデレだったりするのかな、なんて思ってしまう。
それにしても。
「私たち、結構バカみたいだったね……部長が解決してくれたことを、ウジウジ悩んでさ」
「せやなあ。おまけに部長は冷たいとか言いたい放題やったし」
ケラケラ笑う美咲。まったくだ、と私も顔をしかめた。
「まあでも、ええやん」吹っ切れたような声。「うちらかて、特に知らされてなかったんやし。それに、部長みたいな人の下で、こうやってお人よしに考えている人がおってもいいんちゃうかな、組織なんて」
「それも、そうだね」
話している間に教室に到着。ノートや教科書類を鞄から出していると、つい、茶道部のクリアファイルを持ってきてしまっていることに気づいた。今日、部長から渡された経費のレシートが入っているものだ。
あちゃー、と感じたが、どうせこの後部室に戻るし、と切り替える。なんとなしにレシートを眺めてみると、食器類が十点、まな板が一つの計十一点とある。
……あれ?
部長、確か、湯呑みとまな板と包丁を買ったって言ってなかったっけ。レシートにない。
ということは、キッチンに部長が入れたという包丁は、部長の私物か何かになるのか。
そこまで考えたところで、ちょっと妄想めいた考えも浮かぶ。
例えば部長がすみれちゃんの家に説得に行って、彼女の美咲に対する黒い感情を聞いたときに、これを準備していたりしたら……
だって部長、「今日をもって」終わったことって言ってたし……すみれちゃんとの話し合いとか、すみれちゃんが大学に来れそうだと連絡したこととかは、昨日までのことだし……
今日キッチンに没収した包丁を保管することで全てが終わった、という解釈かも……
そこまで考えて、私は首を小さく横に振った。
いやいや、私。考えすぎだ。
第一、全部本当だったとしても、部長が「終わった」と言っているのだ。私が心配する必要はない。
変な考えはやめようと、レシートを元に戻す。すると、クリアファイルに写真が挟まっているのを確認。なんだろう。
みれば、部室に飾ってある例の写真だった。そうか、何枚か現像して余ったものをここに入れていたのだ。
心なしか、さっきよりも写真が明るく見える。私の左隣に写っている真理奈とすみれの表情も晴れやかに感じて、まじまじと見つめてしまう。
……お?
凝視したのが初めてだからか、今さらになって一つ、発見をした。
すみれの左手と真理奈の右手、地味に繋がってるぞ?
……まったく、こいつらは。
英語教師が入ってきたので写真も鞄にしまったが、多分私の頬は緩んだままだ。
──きっと、また繋げるよ。おんなじようにね。
途切れないメリーゴーランドの左回りを頭に浮かべつつ、そう思った。