Jack lo squartatore
外からの風に敏感になった少女は、その微かな違和感にもまた敏感だった。
地下室を支配する不快な空気は家主の到来によって書き換えられる。それは不快な空気を別の不快さに変えるだけのものだったが、いま起こっていることはそれとは違っていた。
「―――」
声を出そうとして、喉が痛んだ。
声帯がおかしくなったのだろう。そういえば水分も足りない気がする。それこそが、彼女に餌を与えるべく家主がここを訪れる予兆とも言えたが。
暗闇に慣れた眼がその人物を捉える。家主ではない。長身と呼べる男ではあったが雰囲気からしてまるで違う。
黒い髪に黒いコート。彼女の眼がこの部屋に慣れきっていなければ見過ごしたかもしれないほど闇に溶け込んでいた。威圧するような感覚はなく、どこか儚げにも見える。
今の彼女にとってはそれすら死神に見えたのかもしれない。いや、この部屋から抜け出せるならば死神でもよかろう。解放と自由。それを同時に望むほど少女は愚か者ではなかった。
ならばせめて前者を選ぼう。
家主に汚され尽くされたこの身体でも、死神の生贄になるのならば。
「―――」
少しばかり、擦れた声が出た。まだ声が出せる。もう悲鳴しか出せぬものと思い込んでいたが、この身体は立派だ。
これは生への執着か。
或いは死への渇望か。
縋るほどに声を出そうと試みる。拘束された体ではそれしか出来ず、それ以上は必要なかろう。どうにか必死に黒い男に縋ろうと視線を上げて。
「―――ぁ」
家主が、姿を現しているのが見えた。
「―――ひギいぃィああがァあだがぎあひあああガいヒいヒああアああァ!!!」
怯えているのか戸惑っているのか、それまで大人しかった少女が突然叫び声を上げた。
悲鳴と言えばそうだが、もはやそんな形容も当てはまるまい。壊れかけた喉で何かを叫ぼうとすれば、こんな酷い声になるのだろう。
―――声?
いや、何かを伝える意味すら持たないのならば声ですらないのか。
モーリスは既に気付いている。この少女を壊した男が背中に居ることを。
薄暗い地下牢。拘束された少女は余すところなく陵辱されていた。その身体に残るものは痣だとか体液ばかりではなく、死なない程度に繰り返し痛めつけられたその結果。
死臭にはまだ遠く。
それ故にこの異臭はおぞましい。
「―――困りましたね」
背後の男が呟くのが聞こえた。
モーリスはその合図を待っていたわけではない。だが、男が呟くよりも早く振るわれた一撃はモーリスの右肩を見舞った。
鮮血が舞う。それでも、比較的浅い傷に留まったのは彼の機敏な動作によるものだった。
振り返って相手を見据える。長身の男はその手に大振りのナイフを持っていた。狭い室内で振り回すには十分な得物だろう。
「アルカンジェロといったか。善人とも悪人とも区別がつかない男はどちらよりも厄介だな」
「そんな分類に意味などないでしょう。私は私のやりたいようにやるだけです。これほど早く嗅ぎ付けられるとは思いませんでしたがね」
踏み込む。アルカンジェロは容赦なくこちらの首を狙ってきた。的確に振るわれる刃物は素人の動きではない。その一撃を、モーリスは懐から取り出した拳銃によって受け止める。
途端、アルカンジェロもまたすぐに飛び退いて違う方向から襲い掛かった。モーリスにとってその攻撃が対処できないほど鋭いということはなかったが、この男はどれだけ防がれても迷いがなかった。
冷徹とは少し違う。言うなれば機械的。
だがその行動は有効でもあった。モーリスはここで一度も発砲できていない。アルカンジェロのナイフは結果として彼の拳銃を封じている。
「―――私をここで殺しても、当局は既に感づいているぞ。変態庭師」
「そうですか。ならば街から離れるべきでしょうかね。まぁ、目的は果たしたので構いませんが」
目的と言って男は笑う。モーリスの背中に居る少女の存在か。この庭師にとっての目的は、既に果たされているとも言える。
それは気に喰わない。異常でありながら浮き彫りにならず世間から見えてこない。こういう人種は、モーリスにとって何よりも気に喰わない。
それが、目的が果たされたなどと、妄言を吐いた日には。
「―――鬱陶しい」
発砲する。モーリスの拳銃から放たれた弾丸はアルカンジェロを掠めることもなく通り過ぎた。だが、拳銃に受け止められる筈だったナイフが弾かれて軌道を逸らす。
その軌道修正の時間は次の弾丸を放つには十分。確かな照準は庭師の体を中心に捉えていた。外す距離ではない。
だが、必中となりえた弾丸はアルカンジェロの右肩を貫いただけに留まった。咄嗟の反応、と呼ぶほど容易いことではない。この男、弾かれた自身の武器を何ら省みることなく回避に踏み切った。
判断力という次元の話ではないだろう。この地下室に体現されたかのような男の狂気は、この場においても余すところなく発揮されていた。
この男の殺し合いは、良い意味で理性を全て排斥しているのだ。
踏み込まれる。至近距離で殴りあうほど密着した中で、モーリスは拳銃という利点を生かせない。掴みかかられ、呼吸を嗅ぎ付けられるほどに近づく。青い双眸が瞬きすら許さず、こちらを見据えていた。
「―――貴方は、誰です?」
腕を掴まれ、銃口は虚空を向いたまま役に立たない。その中でまったく力を緩めることなく庭師が尋ねる。
「………浮浪者だ」
モーリスの言葉にも淀みは無い。名乗らなかったことは、この度し難い男に対してせめて名前くらいは知られずにおこうとした拒否反応なのかも知れないが。
いずれにせよ、その言葉を皮切りにモーリスは半身の力を抜いた。
勢い余って体勢を崩すアルカンジェロを確かめ、この男の習性を知った上でモーリスは拳銃の手ごたえを確かめる。手に馴染むほど、その硝煙が次はまだかと急かしているようだった。
予想外の展開があってもアルカンジェロは狼狽しない。それがこの男の狂気であるが、それは正し過ぎた。殺し合いにおいて奇となるは、理性的な狂気でしかない。
互いに地面を転がりながら、再び襲いかかろうと体勢を立て直す。突然倒れこんでも庭師は戸惑う仕草さえ無かった。だがその美点も、何ら関係なく。
モーリスは地面と水平になった腕をそのままに、銃の引き金を引いた。再び地の底で響く銃声は獣の咆哮のように標的を駆逐する。
体勢を整えようとしていたアルカンジェロは右足のつま先に被弾し、ついに立ち上がることさえなくなった。恐ろしいのは、そんな状態になってもなお反撃の手を緩めないことにある。
「―――」
息を止める。発砲した僅かな時間で立ち上がるタイミングが遅れた。アルカンジェロは何処からか掴み取ったらしい木片をこちらに叩きつけようとしていた。
転がって回避する。二度目の振り下ろしはなかった。いや、腕で叩きつけるような一撃ではなく身体ごと倒れるような格好なのだから当たり前だ。この男がどのように狂ってどのように痛みを無視したところで身体はそれを否定する。
モーリスは立ち上がり、飛び退きながら三発目を発砲した。飛び掛ろうとしていた庭師の眉間に直撃する。
それでもなお、彼は倒れながらでも前に進んできた。
「―――これか」
この男は理性で動いていなかった。そして、動くことを否定した身体を、動くことに疑いを持たなかった狂気がけし掛けている。
前に出ろ。この男を殺せと。
だが虫の息だ。この至近距離で10mm口径の弾丸を頭部に受けて無事な筈が無い。出血量だけでも、やがて死に至ることは明白である。
だから、どうせ死ぬのなら。あっさり大人しく死んでくれればいいものを。
それでもこの男は足掻いて死ぬ。身体を限界まで生き延びさせ。見る者残される者にとって嫌悪だけを増幅させたいのか。最後に果てるそのときまで、おぞましく振舞い続ける。
それは、モーリスに対してだけではない。恐らくはこの部屋に監禁され陵辱された娘にとっても同じか、或いはそれ以上だろう。死んでくれると思ってみればこの振舞いだ。どこまでも、悪夢がまとわりつくようで。
だからモーリスは躊躇うことなく、再度引き金を引いて庭師の息の根を止めた。
銃声はこの地下牢を断罪してはくれないだろう。現に、漂う硝煙の匂いすら別の匂いに掻き消されてしまう。迷い込んだモーリスとて、例外ではないように。
娘にとっては救いの選択肢ではあるにしろ。彼にとって此処は目的地ではなかった。
踵を返す。この部屋を立ち去る前に、ついでではあるが娘の枷は外しておく。
「…貴方は」
かすれた声で娘が呟く。
幼ささえ隠し切れない発育途上の身体はどうしようもなく痛めつけられ、無残と形容するより他に無い。それを憎悪に例えようと、ぶつけるべき相手は既に殺したというのに。
枷は解かれた。
とはいえ、監禁されて何日が経過したか。自力で立ち上がることもままならない彼女は座り込んだまま動かない。いや、或いは。この状況がどういうことなのか理解に努めようとしているのか。
「もうお前を縛り付ける枷は無い。自分の家に帰るがいい」
「…助けにきたの?…殺しに来たの?」
どちらでもない、とは言わなかった。結果として庭師を殺し、娘を救った。その事実に相違は無い。
「―――私は通りすがりでたまたまここを訪れただけだ。意図的に来たわけではない」
「…そうなの。まるで」
―――死神のようなのに、と。少女はそんな言葉を口にしていた。
地獄の釜に放り込まれた彼女にとっては、黒衣の異邦人もそのような象徴に見えたのだろう。恐怖か、憎悪か、絶望か、或いはそれら全てを引き金にして。
「私の言っていることが理解できるか?」
「…ええ。もう、ここから出られるのね?」
弱々しい声色は次第に力を取り戻しつつあるようだ。渇望した自由が眼前に迫って心が血の気を取り戻したか。
それでいい、とモーリスは嘆息する。
どのみち彼にとっては係わり合いのない事件だ。だが、娘の悪夢が終わるなら。例え陳腐な結末でもいい、上出来だろう。
「―――私は早々に此処を立ち去る。お前はありのままを誰かに伝えればいい」
「…そうなの。残念だわ、本当に。私を救ってくれた貴方。せめて名前だけでも」
「…モーリス・マルブランシェ」
名乗った。だがその刹那。
玄関の戸がノックされる音が響いた。
モーリスの身体が強張る。アルカンジェロは最低限に社交的でありながら友人に恵まれていなかったようだ。ならば、その住処を訪ねてくる人物は何者か?
考えるまでもない。モーリスが此処に至ったのもメディオリ家の庭師が怪しいという当局の仮説を睨んだからだった。捜査の手が伸びれば、必然的に辿り着く道程だ。
遅かれ早かれ娘は救われたか。いや、アルカンジェロの性癖の餌食が今に始まったという保障もない。庭師の躊躇のない殺意は『経験済み』という結果で裏打ちされたものである可能性もある。
そうなれば娘の救出が早いことに何の不都合もない。ただ、異邦人のモーリスがこの場で当局と出くわすことの不都合は介在していたが。
不都合だ。警察関係者からすれば、殺害されている家主と囚われている名家の娘。そして其処に家宅侵入した異邦人という光景が見られるだろう。アルカンジェロの殺害だけでも逮捕は免れない。
早急に此処を離れるべきだった。いや、この街そのものから。どのみち出立する予定だったではないか。それを早めたとて、何の問題もない。
「…お前はじきに保護されるだろう。私は此処を出る」
「……貴方は、警察でもないのね?」
「宿無しのはぐれ者だ。司法から見れば犯罪者かその予備軍なのは間違いない」
「…でも、わたしを救ってくれたわ」
そんなものは都合のいい状況の幻想だ。モーリスはそんな言葉こそ口にしなかったが、これ以上娘に構ってもいられなかった。今は玄関の向こう側にいる人間―――恐らく警察であろう―――がいつ踏み込んでくるとも知れない。地下室にいては、退路すら無いのだから。
「…逃げ道なら、あるわ」
娘が呟く。視線を戻せば彼女は弱りきった体で立ち上がろうとしていた。ふらつき、壁にもたれ掛かりながらではあったが。
「おい、無茶をするな。その様子では足に力が入らないだろう」
「平気よ、…平気なの。…助からないかもしれないと思っても、身体がどういう状態かはずっと確かめてきたんだから」
満身創痍に見えた。少なくともモーリスから客観的に見て娘は既に死に体だった。生への渇望などとうに果て、甘き死を迎え入れるだけの人間だった筈。
いやそもそも。こんな年頃の少女がこれほど強かに見えることなどあっただろうか。
「そこに…戸棚があるでしょう。合間に隙間がある」
「…?ああ、これか」
彼女が指差した空間には、地下室に陳列した戸棚の間。ぽっかりと黒い穴があった。ただでさえ薄暗い室内にあって底が見えないが、人が足を踏み外す程度の大きさはあるだろうか。
「…アルカンジェロが、言っていたの。この地下室を使っていたときにさらに地下にある遺跡が出てきたって」
「遺跡だと?何故放置されている」
「…未発見のものじゃないって、話なんだけど。別のところで発見された大昔の水道がこの下にもあったみたい」
埋もれた古代の遺物、その上に今の街がある。そういうことは十分に心得ていたが。こんな逃亡ルートがあっては地下牢の役目もあったものではない。
いや、だからこそ娘の枷を厳重にしたのか。いずれにしてもアルカンジェロにとってこの穴は想定外の産物だったのだろう。
しかしこの穴は埋められることなく残された。枷を外されれば、絶好の逃亡ルートと言える。古代の水道ならば遠かろうと水源に通じるからだ。その建築は、古代のものでも十分な強度によって保たれている。
「…これを使って逃げるか」
「正面からは、出られないのでしょう?」
「確かにそうだが…」
「…大丈夫、モーリス。わたしを救ってくれた貴方を見捨てるわけにはいかないもの。わたしが助けるわ」
それは、命の危機にすらあった少女にしてはひどく頑なな決意の表れに見えて。
情にすがるほど惰弱ではないモーリスが従ってもいいかと思えるくらいには頼もしくあった。
「―――私だけ逃げれば何も問題は、」
「ダメ。ちゃんと、見送らないとダメなんだから」
彼女はやはりついてくるつもりらしい。疎ましいことはないが、しかしこの身体だ。穴に降りるにしても、モーリスの助けが必要になるだろう。
そんな重荷が、疎ましくない筈はないのだが。
「判った。ひとまずここは、お前の言に従おう」
彼女も満足げに頷く。モーリスは手ごろなランプを見つけ、それを手に穴に降りることにした。




