子どもじゃないから
髪をのばすの。
太陽の光をきらきら反射させて、ふわふわ風になびかせたいんだ。
シャンプーの香りがあなたに届く距離にいたい。
今日はずいぶん空気がまとまりつくような感じがする。
テレビを見るあなたの首筋に、力なくはりついている髪を見てそんなことを考えていた。
元気のない襟足とは裏腹に、熱心に画面に視線をおくっている。
口元からは、先程から小さな笑い声ばかりがもれていた。
そんな彼をこそりとかいま見て、あたしも笑ってしまう。
「えっなに?」
「なにが?」
「今俺見て笑ったからさ」
テレビばかりを見てると思っていたから、視線に気づいていたことが意外に感じる。
なになにと不安そうに聞いてくる彼をみていたら、さらに何かがこみ上げできそうだ。
彼が体を動かすたびに、片手ににぎっているコップの中で小さな津波が起きている。
「なんでもない。ほらこぼれちゃうよ」
「気になるんだけど。あっちょっとこぼした」
そう言って、のんきにスウェットに染みていく黒い染みを彼は眺めている。
その様子にため息を吐き出しながら、濡れタオルを放り投げた。
危なげなく受けとって熱心に拭きだした様子に、また笑いが起こりそうになるが腹に力を入れることによってなんとか阻止に成功した。
そのままぼけっと黒く染まるタオルを眺めていたが、ふと彼の背後に目がいった。
高校生らしくおおざっぱに収納されているマンガ、私も見慣れた教科書に混ざって文化祭で撮った写真が机の上に散らばっている。
だがあたしの目に焼きついたのは、それらではない。
その隣。壁にかかっている糊のきいたスーツ、そしてシンプルなネクタイ。
目に飛び込んできたそれに、静かに息をのんだ。
ちくちくと私をせかす。それは心臓がごわごわのタオルで包まれているような痛みだった。
「ヤバ。これとれないわ。んー…どうしたの?」
固まっているあたしの視線をおった彼の目線が、スーツで止まる。
その時の彼の顔を見たいと思ったが、見ることは叶わない。
彼は今どんな顔をしているんだろう。
私は今どんな顔をしている?
わからないことだらけだよ。
唯一わかっていることは、あたしたちは来月高校生ではなくなるということ。
12年間たくさんのことを学んだのに、この痛みの処理の仕方は検討もつかない。
ずっと大人になりたかった。
そして同時に子供という言葉に甘えていた。
「俺は就職で、おまえは進学だったよな」
もうずっと前から私たちの前に横たわっている事実を、再確認するように彼は聞く。
だから、あたしも慎重に言葉をつむいだ。
「そうだね」
それから、しばらく音という音は聞こえなくなった。
彼の手の中で、さらに染みの広がったタオルが握りしめられている。
すでに慣れた彼の部屋の空気が、一気に牙をむくようにあたしの体に重くのしかかる。
わたしと彼は同じ部屋にいるのに、同じ空気を共有しているのに、重力の単位は違うようだった。
「…じゃあ、俺の洗練されたスーツ姿は拝めないな」
そんなこの重力に負けてしまいそうなテンポの軽い言葉と同時に、彼はふりむいた。
彼はわらっていた。
だけど目は、月の静けさをそのまま取りこんだように凪いでいる。
いつの間にか彼は。
その月の光を一直線に浴びたあたしは、石になってしまったようだ。
月に雲がかかるように、そっと彼はまぶたを閉じた。
「そんな顔すんなよ」
真っ暗な深海にゆっくりと言葉がおちてくる。
そしてやっと地底にたどり着いたとき、私はやっと石となった体から解放されたのだ。
「ごめん。ね、目をあけて」
あたしは彼の足をまたいで顔を近づける。
また月の光にさらされようと、もう屈しないようにと、挑戦的な気持ちで彼の両頬に手をそえた。
血色がよくあたしよりも骨ばった頬は、見た目に反してつめたい。
それは深海の冷たさだった。
波紋が広がるように、彼は目をあけた。
その目は。
その目はもう彼自身の目になっていた。
海でも月でもなんでもない。
私の彼の目だ。
「開けたよ。てか、この格好はなんだ」
言われてはじめて、自覚した体制。
ボッと顔に熱が集まるのを感じたのと、額に痛みを感じたのはいっしょだった。
目の前にある彼の首筋。やっぱり襟足は元気がない。
ふわんと、洗剤と彼自身の香りが混じったであろうにおいが鼻をくすぐる。
あまい。
ああどうしようもなく。
「あのスーツ、まだ着たことない?」
「ん?まだだよ?」
なんで?といかにも聞きたそうな彼の次の句を封じるように、矢継ぎ早にくり返した。
「そっか。最初に着るのはいつ?」
「来月の12日」
「じゃあ、…」
それは卒業式の10日後。
彼はあたしの知らない服をまとって、あたしの知らないあの月の目を携えているだろうか。
「じゃあ、その日の朝、会いに行ってもいい?」
「…」
顔は見えない。
でもどうしても見ておきたくて、背をそらそうとしたあたしを抑えるように肩に手が回った。
そのまま彼はあたしごと包むように、体を丸める。
2人の息づかいが世界のすべてになった。
その狭間にすべりこむよう落ちてきた了承の言葉は、きっとあたしにしか聞こえなかっただろう。
大人に憧れながらも、子供を盾にしていた俺たちには、時計の針の音が煩わしかった。
俺の服の裾を握って、決して背にはまわさないこいつが愛しい。
そういえば。
「髪のびたよなあ」
モノクロの記憶の中では、肩先ではねていたのだが。
例えばだれかが眠りに落ちる瞬間、来ない着信にため息がもれたとき、夕暮れのチャイムをきいたり、目を閉ざす瞬間にもずっと生きていた。
正直じゃない俺らよりもずっとまっすぐだ。
部屋に忍びこんだ風が夜のにおいと共に、髪の香りも俺にとどける。
ああ、すきだ。
「なんだかずっと寒かったんだよ。でも今のあたしにはもう必要ないみたい」
そう言って俺を見つめた彼女の目は、俺の知らないものだった。
12日の朝、俺のモノクロだった彼女は色付いてあざやかで。
プリズムに反射した原色の光だった。
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