春宵
大学生はだいたい勢いだそうだ。
若いうちは時に無理することも必要で、飲み過ぎて記憶が飛ぶなんてことも一度くらいは経験しておいて損はない。そんなことを言う人間が孝之の周りにはよく集まる。幸か不幸かといえば不幸な目にあうことのほうが多いもので、しかしそれでも振り回されることに慣れていく自分がいることに半ば諦めと悲しさのようなものを覚えるのだった。
早いもので大学生活も二年が過ぎて、孝之も皆に遅れることなく無事に三年目の春を迎えることができた。
「なんで男三人で顔を突き合わせて飲まなきゃならないんだ?」
などと文句を言ったりして集まったのが、確か七時頃だったはずだ。割合と広い部屋に住んでいる高部のところは勝手がいいのでよく利用する。
「文句言うなよ慎二」
と、いつものようにまっとうな文句を垂れる山口に言葉を返すと、高部はコップなどを取りに台所のほうへ立った。
「まあ高部の進級祝いってことにすればいいか。なあ孝之?」
「ほんとに無事に三年目を迎えられたことが俺には驚きだよ」
講義に出ているところを見ることが奇跡に近いような友人が、なぜいつもまともに単位を取れているのかが孝之たちの疑問だった。
別にこの三人で集まることは何も特別ではない。いつもつるむ仲間で宴会をするのに、わざわざ名目は必要ない。つまるところは酒盛りをするのに特別な理由はいらないわけだった。
「明日、静香とのデートなんだよなあ」
ところで孝之は大事な用件を抱えていた。恋人との約束である。ぼつっと呟いたのを聞いて山口が首を傾げた。
「とりあえず八時半までに出ればいいけど……」
約束を守ることの重要さは二月前に再確認させられた。殊に約束や時間を守ることに関して彼女は厳しいかぎりなので、なんと言っても前回はどうにかイエローカードで済ませてもらったものを二度目の失敗で完全なレッドカードをもらうわけにはいかない。
「別に大丈夫だろ。高部じゃあるまいし」
前科があるから気にしているのだ、と言いたかったが、人の所為にできることでもないので――実際例のごとく困った人間の影響もあったのだが――要は自分の心一つだと律するしかなかった。
しかし孝之の悪いところは、どこか理性が緩くなる場合があるということだった。酒が入って、いつものように山口の漢詩への愛を聞き、いつものように高部の試験期間の武勇伝に呆れながら、楽しくなるので少し気を抜く。無論明日のことはしっかりと頭にありながらそれでも小さく綻びが現れる。男は学習しない。どこかでこれも誰かが言っていたなと、孝之は後で思い出すことになった。
どうもデジャヴというのはあるらしい。気付けば床から天井を見上げている自分がいた。ブラインドの隙間から漏れている朝の光が寝起きの目には優しくて助かる。いつかと同じ光景に頭が少し混乱しているが、前後のことをよく考えてみる。
孝之の頭にまず浮かんだのは簡単な疑問。
どうして記憶が飛んでいるのだろう? 昨夜は加減して気をつけていたはずなのに、どういうわけなのか。
「頭痛い……」
不確かな意識のまま起き上がるとテーブル上にあるものが目に入った。B5のプリントの裏に書かれた「先に帰る」という山口の文字。起こさないで静かに出て行くのはいつものこと。まだ何か書かれているので見てみると、
「春宵一刻値千金……?」
そういえば、山口がそんなこと語っていた気もする。時間は貴重だと言いつつもある意味で贅沢な使い方ができるのは学生の特権だという。それはこれも困った人間の部類の叔父の言だったが、たまにそういうのもいいと孝之は思う。
まだ起きそうにない高部を横目に孝之は帰る準備をしようとしたが、時間を見て氷つくことになった。十時半。静香との待ち合わせは十時。確か十時頃までは記憶がある。今回は大丈夫だと思ったのだが、もしかすると十二時間近く寝ていたことになるのか。孝之の脳裏に嫌な記憶が否応なしに甦ってくる。
これはデジャヴどころの話ではない。以前とまったく同じパターンの失敗に、酔いの残りも眠気も一気にどこかへ消え失せ心拍が跳ね上がる。山口がいたら「春眠暁を覚えずどころの話じゃないな」などと言いながら、憐れんだ目で見てきそうだ。笑う様子までありありと浮かぶので、想像するだけでもなんだか腹が立つが。自分はまだひどく酔っていて、そのせいで幻覚を見ているんじゃないかと都合の良いことを考えてみても目の前のものが変わるわけがない。心拍が上がって本当に目眩がしそうになる。
ただ、なぜ山口は起こしてくれなかったのかという恨み言を追い越して湧いてきたのはなんだかわからない、というか出来れば気付きたくない恐怖のようなもの。何をしなければならないかはすぐわかったので、気が引けるが携帯電話を手に取る。血の気が引く思いで電話を掛けてみると、思いの外すんなりと彼女は電話に出てくれた。
「あ……、あの、静香……さん?」
変に上擦る声で話しかけるが相手からはまったく返事がない。無言の向こうからは通行人の喧騒が僅かばかりか聞こえてきて、孝之の恐怖をさらに煽った。妙な威圧感のようなものを感じるので怒っているのはわかる。なぜだか少し息苦しくなった。
「実はきの……」
とまず言いかけたところで一方的に電話を切られた。
重苦しく息を吐いて、孝之はうなだれた。男は度胸とよく言う。女々しく落ち込んでいても事態は悪化するばかりだろう。一人気持ちよさそうに寝ている高部が毎度のことながら憎らしく思えてくる。
山口のメモが殊のほか目につく。確かに時間も忘れるほど楽しい夜だった。しかし今度もまた、だいぶ高くついた夜だった。走りながらうまい言い訳を思いつけるだろうか。孝之は自分の情けなさに涙が出そうになった。
了