殿下の攻略マニュアルを作っていたら、本人に見つかりました
その日の午後は、珍しく書類仕事が早く片付いていた。
エドワードが窓の外に目をやると、庭師が池のそばで低木を手入れしている。雲のない晴れた日で、光が中庭の石畳を白く照らしていた。次の執務は夕方の閣議まで間がある。珍しく、手が止まっている時間だった。
扉をノックする音が二回。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
クロードの声は普段どおりだったが、執務室に入ってきたときの顔が普段と違った。書類を抱えた腕とは別に、革張りのノートを一冊持っている。
「廊下で拾いました。侍女が落としたようで——中を確認したところ、おそらく婚約者殿のものかと」
エドワードは手を止めた。
「フィオナの?」
「表紙の筆跡から、おそらく」
差し出されたノートを受け取る。表紙には几帳面な字で「個人用・閲覧禁止」と書いてある。筆跡はたしかにフィオナのものだった。三年間、婚約者として公式文書を何度も交わしてきた。見間違えるはずがない。
エドワードはノートを手に取りながら、フィオナのことを思った。
侯爵家の長女。感情が顔に出ない令嬢として宮廷でも知られている。冷静で礼儀正しく、言葉が少なく、何を考えているかわからない。最初に会ったときから今まで、三年間ずっとそういう人間だった。
不満はない。きちんとした令嬢だ。ただ、距離がある。こちらが話せば答えが返ってくるが、それ以上でも以下でもない。自分に興味がないのかもしれないと思ったこともある。婚約者として選ばれた相手だから、義務として付き合っているだけなのかとも。
「本人に返してくれ」
「……殿下」
クロードが珍しく間を置いた。
「中を、少しだけ確認いたしました。その上で申し上げると——殿下がお読みになった方がよいと思います」
「どういう意味だ」
「読んでいただければわかります」
そう言って、クロードは一礼して部屋を出た。
エドワードはノートを手に持ったまま、しばらくそのままでいた。
読むべきではない、という判断は正しい。他人の日記を読むことになる。プライバシーに踏み込むことになる。普段なら迷わず返して終わりにする。
ただ。
クロードが「読んだ方がいい」と言うのは初めてだった。あの侍従は余計なことを言う人間ではない。必要だと判断したから言っている。
表紙をめくった。
◇◇◇
最初のページに、こう書いてあった。
```
【エドワード殿下・観察記録 第一巻】
記録開始日:王暦403年3月12日
目的:殿下に気に入っていただくための情報収集および行動指針の整理
```
エドワードは三秒ほど、その文字を見つめた。
気に入っていただくための、情報収集。
ページをめくる。
```
【第1日】
天候:晴れ
殿下の様子:通常。表情の変化少なめ
有効だった話題:特になし(初対面のため様子見)
有効でなかった話題:特になし
備考:次回までに殿下の好みを収集すること。侍従への聞き込みを検討
```
聞き込み。
声に出しそうになってやめた。あの最初の顔合わせのとき、フィオナは「はじめまして、エドワード殿下」と言って静かに一礼した。その後は差し障りのない会話をして、短時間で終わった。感情のない、事務的な顔合わせだと思っていた。
彼女は情報収集をしていた。
ページをめくる。
```
【第8日】
天候:曇り
殿下の様子:返答が若干遅い。疲れている可能性
有効だった話題:先週の馬術大会の結果(表情が少し動いた)
有効でなかった話題:財務委員会の件(反応が薄かった)
備考:天候と機嫌に相関がある可能性。要継続観察
```
「……要継続観察」
今度は声に出てしまった。
自分のことが書いてある。正確に。財務委員会の話は確かに気が進まなかった。当時は予算の査定でもめていて、会うたびに話が出るのがうんざりしていた。馬術大会の結果は——たしかに少し嬉しかった。出場した弟の成績が良かったのだ。
全部当たっている。それも八日目で、この精度だ。
ページをめくる手が、少し遅くなった。
```
【第15日】
天候:雨
殿下の様子:執務の返答速度が平均比で約2割低下
有効だった話題:なし(会話自体を短く切り上げた方が良いと判断)
有効でなかった話題:全般
備考:雨天時は会話を最小限にすること。ただし好物を用意すると回復が早い可能性(第12日の事例より)
好物リスト(暫定):アーモンドの焼き菓子(焼き加減:濃いめ)、温かいお茶(砂糖なし)、林檎のコンポート
```
アーモンドの焼き菓子、焼き加減濃いめ。
エドワードはそこで思い出した。婚約後、茶会のたびに必ずアーモンドの焼き菓子が出てくること。焼き加減が毎回ちょうどいいこと。フィオナが自ら用意していたことは知っていた。気が利く令嬢だと思っていた。偶然ではなかった。調べた上でのことだった。
ページをめくる。
```
【第23日】
観察結果・まとめ(中間報告)
・雨天時:会話を短くし、好物を用意する
・疲労時のサイン:左のこめかみに触れる(無意識の動作と推定)
・話題の有効性:馬・植物・近隣領地の農業事情(高)、財務・政務委員会(低)
・喜ばせる贈り物の条件:実用的なもの、または動物に関連するもの
・避けるべき言動:第三王子との比較(機嫌が著しく低下する)
```
エドワードは本を閉じて、天井を仰いだ。
正確だ。一つも外れていない。しかも左こめかみを押さえる癖など、自分でも意識していなかった。長い会議のあとや疲れているとき、無意識にこめかみに手をやっているのか。
第三王子との比較で機嫌が著しく低下する、という記録については——まあ、そうだ。弟は優秀で人気があって、比べられるのは好きではない。本人に言ったことはない。でも彼女には、表情か何かで伝わっていたのだろう。
もう一つ気になる項目があった。「植物」だ。
ページを開いて、該当箇所を探す。
```
【参考】殿下が花より植物標本を好む理由(推測)
国王陛下が花粉症のため、幼少期に「花は気をつけるもの」として学習した可能性。植物標本は加工済みのため安全と認識している可能性。
→ 贈り物に花を選ばないこと。植物図鑑または標本が有効と判断。
```
エドワードはゆっくりと、しかし確実に、本を一度閉じた。
父のアレルギーのことを、どこから調べた。
国王の花粉症は宮廷内では知られている。しかしそれが自分の植物標本への興味と結びついているとは、親族以外で指摘した人間はいない。医師か、あるいは古い乳母にでも話を聞いたのか。いずれにしても、相当の手間をかけている。
少し間を置いてから、またページを開いた。
ページをめくりながら、エドワードは考えていた。
三年間、フィオナと会い続けてきた。茶会、式典、公式行事、非公式の面会。数えれば相当な回数になる。その間ずっと、彼女はこれを書いていた。会うたびに記録して、次に備えていた。
自分は何をしていたか。
書類を読んでいた。政務をこなしていた。婚約者との時間を、こなすべき予定の一つとして扱っていた。感情がない令嬢だと思っていた。興味を持たれていないと思っていた。それがずれていたとしたら——相当に、ずれていたことになる。
◇◇◇
ノートの後半に入るほど、記録の密度が上がっていた。
初期は箇条書きと一行メモだったが、三ヶ月目以降になると一日の記録が半ページを超えている。観察の回数が増え、記録される情報の種類が細かくなっている。エドワードは読み進めながら、これを書いているフィオナの顔を想像しようとして——思い浮かばなかった。あの無表情の令嬢が、毎日こんなに細かく書き留めていたとは。
```
【第67日】
今日、殿下に林檎のコンポートをお持ちした。
受け取ったときに一瞬、視線が長く止まった(約2秒)。
いつもより長い。喜んでいた可能性が高い。
次回も試みること。
```
「約2秒」という記録を、エドワードはもう一度読んだ。
自分がコンポートを受け取ったとき、たしかに少し嬉しかった。好物だったから。視線が長く止まっていたかどうかは自分ではわからない。でも、フィオナが時間を数えていたということは確かだ。
二秒。
贈り物を渡されたとき、無意識に視線が止まっていた。それを彼女は見ていた。記録した。次回も試みると書いた。
```
【第89日】
殿下が今日、書類に集中しているとき右手の人差し指でテーブルを叩く癖があることに気づいた。
考えているときのサインと推定。この状態のときに声をかけると集中が途切れるため注意。
反対に、この状態が15分以上続いた場合は休憩を促しても良い可能性。
```
ページをめくる手が、また遅くなった。
このページを書いたとき、フィオナは自分の斜め後方あたりにいたはずだ。書類に集中していて、周りに誰がいるか意識していなかった。でも彼女は15分間、自分の指を見ていた。時間を計っていた。声をかけるタイミングを測っていた。
そしてそれを、記録した。
```
【第101日】
今日、殿下が閣議から戻られた際に顔色が優れなかった。
左こめかみに触れる動作を三回確認。
お茶と菓子を用意し、会話は最小限に留めた。
十五分後、表情が戻った。
備考:回復の早さから、今日の対処は有効だったと判断。
```
有効だったと判断、という言葉に、エドワードは少し息をついた。
確かに、その日は閣議で揉めた。気分が悪かった。フィオナが来て、短い言葉だけ交わして静かに帰っていった。その後、少し楽になった気がしていた。彼女が場を読んでいたからだとは思っていなかった。記録に基づいた行動だったとは、思ってもいなかった。
```
【第112日】
本日の贈り物:青い革の手帳
反応:「ありがとう」と一言。
いつもより声が少し低かった(嬉しいときの声域と一致するか要確認)
備考:次回は別の色を試して比較すること
```
声域の比較。
次のページには、似たような記録がまだ続いていた。プレゼントの色ごとの反応比較、話題別の会話継続時間、訪問のタイミングと机の書類量の相関。どれも几帳面な字で、空白なく埋まっている。
エドワードは一度、窓の外を見た。中庭では侍女が数人、洗濯物を干している。いつもどおりの午後だった。
手帳を贈られたのは覚えている。素直に嬉しかった。使いやすくて、今も毎日使っている。それを彼女に伝えたことはなかった。声が低くなっていたとしたら、それは確かに嬉しかったからだ。
彼女はそれを「要確認」と書いて、次の色で試すつもりだった。
ページが残り少なくなっていた。
エドワードはここまで読んで、ようやく気づいたことがあった。
笑いをこらえながら読み始めたはずだったのに、今はそういう気分ではなくなっていた。いつの間にか、ページをめくる手が丁寧になっていた。記録の端に書かれた小さな一言——「今日も会えた」「いつもより少し長く話せた」「来週も来てくれるといい」——そういうものが、後半になるほど増えていた。情報収集の記録の隙間に、こぼれるように書かれていた。
令嬢は感情がない、と宮廷では言われていた。
違う。こぼれないように、ずっと押さえていただけだ。押さえながら、毎日記録し続けていただけだ。
最後のページを開く。
記録ではなかった。箇条書きでも、日付もない。ただ、普通の文章が一段落だけ書いてある。
```
今日、殿下がはじめて私の名前を呼んでくださった。
いつもと同じ声だったのに、なぜか胸がうるさかった。
私はたぶん、気に入っていただきたいのではなくて、
ずっとそばにいたいのだと思う。
それだけ書いておく。
誰も読まないから。
```
エドワードはノートを閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。
机の上に置かれたノートを見る。表紙の「個人用・閲覧禁止」という文字を見る。三年間、隣にいた令嬢のことを思う。感情がないと思っていた。興味を持たれていないと思っていた。茶会のたびに出てくる焼き菓子のことも、閣議の後に切り上げられる会話のことも、全部が「礼儀正しい令嬢のふるまい」だと思っていた。
違った。
全部、記録に基づいていた。全部、ずっと自分のことを見ていたからだった。
立ち上がった。
◇◇◇
リアが青ざめた顔で部屋に入ってきたとき、私はちょうど次のノートの表紙を書いているところだった。
「お嬢様……申し訳ございません、大変なことを……」
手を止めて顔を上げる。リアが青い。普段から少し慌てやすい侍女だが、今日は色が違った。
「何があったの」
「ノートを……廊下で落としてしまいまして……」
「どのノート」
「えっと……殿下の観察記録と書いてあった、革張りの……」
手の中のペンが、止まった。
「……どこに落とした」
「宮廷の東廊下で……拾ってくださった方が……殿下の侍従の方で……」
部屋の空気が、変わった気がした。
「クロードが」
「はい……」
指先が冷えた。東廊下といえば、今日エドワードが執務をしている棟に続く廊下だ。あの侍従は几帳面で忠実で、落とし物を拾えばまず持ち主を探す。持ち主がわからなければ主人に届ける。中を確認して、婚約者の名前がわかれば——届ける先は一つしかない。
三年間、気づかれないように積み上げてきた。好物も、癖も、機嫌の読み方も、全部。殿下に必要とされる令嬢になれるなら、それでよかった。傍にいる理由があればよかった。感情が顔に出ない、という評判は都合が良かった。本当のことが伝わらないかわりに、気持ちも隠せた。
「どのくらい前の話」
「一時間ほど前で……お嬢様に早くお伝えしなければと思ったのですが、お客様の対応をしていて……」
一時間。
一時間あれば、全部読める。一巻は112日分の記録だ。流し読みなら三十分もかからない。丁寧に読んでも一時間以内に終わる。
つまり、もう読まれている。
どこまでか、ということを考えようとして、やめた。最後まで、だ。クロードが渡したなら、エドワードは最後まで読む。そういう人間だ。三年間見てきてわかっている。途中でやめるような性格ではない。几帳面で、誠実で、始めたことは終わらせる。
最後のページに何を書いたか、覚えていた。
ずっとそばにいたいのだと思う。
誰も読まないから、と書いた。
あの一文を書いたのは、三ヶ月前だ。書いた後、少し後悔した。記録ではない。情報でもない。ただの独り言だ。でも消せなかった。消したら、その夜の胸のうるさかった感覚も消えてしまう気がして。だから残しておいた。誰も読まないから、という言い訳とともに。
読まれた。
今更どう取り繕う余地もない。三年分の観察記録は全部見られた。好物も、機嫌の読み方も、癖も、贈り物への反応も、全部。ずっとそばにいたい、という最後の一文も。
どう思われているか、考えようとして——やめた。考えても仕方がない。もう起きたことだ。
扉を、ノックする音がした。
「……フィオナ」
エドワードの声だった。
リアが私を見た。私はリアを見た。「少し席を外して」と言うと、リアは小さく頷いて部屋を出た。入れ替わりに扉が開いて、エドワードが入ってきた。手にノートを持っている。
「読んだ」
「……どこまで」
「最後まで」
顔が、熱くなった。自分の意志と関係なく。十八年間、感情を顔に出したことはなかった。周囲から「何を考えているかわからない令嬢」と言われ続けてきた。泣いても笑っても顔に出ない、と乳母に言われたこともある。それが今、エドワードの前で、どうしようもなく頬が熱い。
「……お返しください」
「返す前に聞いていいか」
「……聞かないでください」
「なぜ直接言わなかった」
言えるわけがない、と思った。婚約を利用して近づいたと思われたくなかった。「好きだから婚約者になりたい」という打算のある令嬢だと思われたくなかった。だから気持ちは隠して、代わりに行動だけで示してきた。殿下が喜ぶものを用意して、疲れているときは引いて、話したい話題を用意して、三年間やってきた。
「……婚約を利用していると、思われたくなかった」
声が思ったより小さく出た。
「好きだから近づいたと、思われたくなかったのです」
「逆だろう」
エドワードが一歩、近づいた。
「好きだから近づいて、何が悪い」
返せなかった。
「俺はずっと、お前が俺に興味がないのだと思っていた。これだけの記録をつけていて、興味がない人間がどこにいる」
「……続きがあるとわかってしまいましたか」
「表紙に『第一巻』と書いてあった」
部屋が静かだった。
自分でもわかっていた。第一巻と書いた。続きがあることを示す書き方をした。今さら隠しようがない。
「……お返しください」
「返す条件がある」
エドワードが、ノートを持っていない方の手を差し出した。
「ちゃんと言葉にしてくれ。俺には観察眼がないから、言ってもらわないとわからない」
胸のどこかが、ゆるんだ。
三年間、記録をつけ続けた。殿下が喜ぶものを調べて、揃えて、実行してきた。一度も「好き」と言わずに、行動だけで全部やってきた。でも本当は、ただそばにいたかっただけだ。最後のページに書いた通り。ずっとそばにいたい、と。
「……好きです」
声が震えた。「エドワード殿下」まで言いかけて、
「エドワードでいい」
と遮られた。
「……好きです、エドワード」
一拍あって、手が握られた。
「わかった」
それだけ言って、エドワードが笑った。初めて見る種類の顔だった。こんな顔もするのか、と思った。三年間観察していて、一度も記録に残していなかった表情だった。
握られた手が、温かかった。
「一つ、聞いていいか」
「……はい」
「第二巻以降は、俺に気に入ってもらうための記録か。それとも別のものか」
答えに詰まった。第二巻からは——正直に言えば、気に入ってもらうための情報収集という目的は途中からなくなっていた。ただ、殿下のことを記録したかった。どんな日に何を食べたか、どんな話をしたか、どんな顔をしたか。残しておきたかっただけだ。
「……ただの記録です。殿下のことを、残しておきたかったので」
「そうか」
エドワードがもう少し、近くに来た。
「なら続けてくれ。俺も読みたい」
「……読むのですか」
「読む。次は俺が、お前を見ていたことも書いてくれ」
意味がわからなくて、少し考えた。
「……殿下が、私を——」
「エドワードだ」
「……エドワードが、私を見ていた、ということですか」
「そうだ。それと——お前が気づいていないだけで、俺もずっと見ていた。焼き菓子の焼き加減を毎回合わせてくれることも、閣議の後に会話を切り上げてくれることも、全部気づいていた。ありがたいと思っていた。ただ、言わなかっただけだ」
「……それは」
「お互い様だったようだな」
手が、もう少し強く握られた。
次のノートに書こう、と思った。今日、エドワードが初めて笑った顔を見た。今日、手を握られた。今日、名前で呼ばれた。今日、ずっと見ていたと言われた。
三年間で一番、書くことが多い一日だった。そして、三年間で一番、胸がうるさい夜になりそうだった。
そうして、生まれて初めて、少しだけ笑った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本作は短編シリーズ「令嬢の決別」の一作です。
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