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『雨はまだ、君の名前を知らない』  作者: 臥亜


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6/11

濡れない人

雨が降っている。

 

強い。

 

今までで一番。

 

透は走っている。

 

塔が近い。

 

黒く、ひび割れ、脈打っている。

 

 

「急がないと」

 

 

なぜ急ぐのかはわからない。

 

でも、遅れたくない。

 

 

隣を走る彼女は、息が乱れない。

 

 

透はふと気づく。

 

 

彼女は、濡れていない。

 

 

「……あれ?」

 

 

自分の制服はびしょ濡れだ。

 

髪から雫が落ちる。

 

 

でも。

 

 

彼女の肩には、雨粒が触れていない。

 

 

落ちてきたはずの雫が、

彼女の少し手前で消えている。

 

 

「さっきから思ってたけど」

 

 

透が言う。

 

 

「お前、濡れないのか?」

 

 

彼女は少しだけ笑う。

 

 

「透が濡れてるなら、いい」

 

 

答えになっていない。

 

 

塔がさらに近づく。

 

 

ひびの隙間から、光が漏れている。

 

 

 

道の途中に、ベンチがある。

 

 

見覚えがある。

 

 

学校帰り、よく座った場所。

 

 

そこに、透明な傘が立てかけてある。

 

 

透の心臓が跳ねる。

 

 

「あれ……」

 

 

彼女は立ち止まらない。

 

 

透だけが足を止める。

 

 

傘に触れようとする。

 

 

その瞬間。

 

 

手が、すり抜ける。

 

 

触れられない。

 

 

透の呼吸が浅くなる。

 

 

「なんで」

 

 

傘は確かにそこにある。

 

でも、重さがない。

 

 

彼女が振り向く。

 

 

「それは、あなたのものじゃないから」

 

 

静かな声。

 

 

「じゃあ、誰の」

 

 

彼女は少し考える。

 

 

それから。

 

 

「貸したままの人の」

 

 

透の喉が乾く。

 

 

思い出せない。

 

でも、胸が痛む。

 

 

塔が、どくんと脈打つ。

 

 

地面が揺れる。

 

 

塔の影から、もう一人の透が現れる。

 

 

ずぶ濡れ。

 

 

震えている。

 

 

「あの日」

 

 

その透が言う。

 

 

「お前は、動いた」

 

 

本物の透が凍りつく。

 

 

「え……?」

 

 

「動こうとした」

 

 

 

景色が一瞬だけ切り替わる。

 

 

横断歩道。

 

 

雨。

 

 

透が、足を踏み出す。

 

 

確かに、一歩。

 

 

でも。

 

 

その前に。

 

 

横から、誰かが飛び出す。

 

 

傘が宙を舞う。

 

 

透はその腕を掴もうとする。

 

 

届かない。

 

 

衝撃。

 

 

音が消える。

 

 

世界が白くなる。

 

 

 

 

 

透は膝をつく。

 

 

「俺は……」

 

 

動いた。

 

 

止まっていなかった。

 

 

でも、間に合わなかった。

 

 

彼女が、静かに言う。

 

 

「全部、自分のせいにしなくていい」

 

 

その言葉に、

塔が大きく揺れる。

 

 

透は顔を上げる。

 

 

彼女の輪郭が、さらに薄い。

 

 

足元が、透けている。

 

 

「お前……」

 

 

声が震える。

 

 

「誰なんだよ」

 

 

彼女は少しだけ困ったように笑う。

 

 

「遅い」

 

 

 

その瞬間。

 

 

雷が落ちる。

 

 

塔に大きな亀裂が入る。

 

 

中から、光が溢れる。

 

 

透の目に、

一瞬だけ映る。

 

 

病室。

 

 

ベッド。

 

 

点滴。

 

 

心電図。

 

 

雨音。

 

 

彼女の声。

 

 

「やっと、思い出した?」

 

 

 

世界が揺れる。

 

 

塔が崩れ始める。

 

 

透はまだ、

完全には理解していない。

 

 

彼女は――

 

 

あの日、傘を投げた人。

 

 

そして。

 

 

この世界は、

透が目覚めるまでの“時間”。

 

 

雨は、止まりかけている。

 

 

残っているのは。

 

 

最後の一滴だけ。

 

 

 

それが落ちるとき。

 

 

彼女は、消える。

 

 

 

透は、まだ知らない。

 

 

選ぶのは。

 

 

生きるかどうかではない。

 

 

彼女を、どう記憶するかだということを。

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