思い出せなかった日
雨の匂いがする。
今までの雨とは違う。
冷たい。
鉄の味がする。
透は、横断歩道の前に立っている。
夜だ。
信号は赤。
街灯が滲んでいる。
「ここは……」
胸がざわつく。
知っている。
でも思い出したくない。
彼女は少し離れた場所に立っている。
傘をさしていない。
「思い出せる?」
透は答えない。
信号が青になる。
その瞬間。
世界が遅くなる。
遠くから、ヘッドライト。
クラクション。
ブレーキ音。
誰かが、前に出る。
「……やめろ」
透の喉が震える。
視界が二重になる。
今の自分。
そして、あの日の自分。
あの日の透は、横断歩道の手前で立ち止まっている。
その一歩を、出さなかった。
目の前で、誰かが走る。
傘を持った誰か。
透は動かない。
動けない。
「違う……」
記憶が歪む。
あの時。
俺は――
怪物が現れる。
黒い塊。
形は不定。
でも、中心にあるのは。
“止まった足”。
「お前は、動かなかった」
低い声。
透は後ずさる。
「違う」
「怖かっただけだ」
「間に合わなかった」
言い訳が溢れる。
怪物が近づく。
「一歩、出なかった」
その言葉が、世界を裂く。
透の胸が締めつけられる。
思い出す。
あの日。
雨だった。
クラスメイトが道路に出た。
車が来ていた。
透は気づいた。
声を出そうとした。
足が動かなかった。
その瞬間。
誰かが走った。
傘を投げた。
衝撃。
白い光。
記憶が止まる。
「……俺は」
膝が震える。
「助けられなかった」
怪物が笑う。
「違う」
「助けなかった」
世界が崩れる。
信号機が落ちる。
雨が逆さに降る。
透は叫ぶ。
「違う!!」
声が裂ける。
「俺は……」
そのとき。
彼女の声が、静かに響く。
「透」
怪物が止まる。
透が振り向く。
彼女は、少し濡れている。
いつの間にか、傘がない。
「全部は、まだ思い出さなくていい」
透の呼吸が荒い。
「でもね」
彼女は一歩近づく。
「あなたは、止まったことをずっと責めてる」
透の目が揺れる。
怪物が形を変える。
今度は、透自身の姿になる。
ずぶ濡れの自分。
動かなかった自分。
「お前のせいだ」
その声は、自分の声。
透は動けない。
彼女が、透の前に立つ。
怪物と透の間に。
「まだ」
彼女が言う。
「本当のこと、思い出してない」
怪物が裂ける。
塔が大きく揺れる。
空に亀裂が走る。
透は、気づき始める。
何かが違う。
自分は、本当に止まっていたのか?
本当に、一歩も出なかったのか?
雨が強くなる。
世界が白くなる。
彼女の輪郭が、少し薄くなる。
透は気づかない。
まだ。
雨は、真実を知っている。
でも。
透は、まだ知らない。
彼が出そうとした“あの一歩”を。
そして。
彼女が、何を選んだのかを。




