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『雨はまだ、君の名前を知らない』  作者: 臥亜


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3/11

医者にならなかった僕

空は低い。

 

灰色は変わらない。

けれど、さっきより重い。

 

透は歩いている。

石畳は戻ったはずなのに、足取りが不安定だ。

 

「“ならない”って言ったね」

 

彼女が隣を歩く。

傘はまだ開いたまま。

 

「……ああ」

 

喉が渇いている。

 

「後悔してる?」

 

透は答えない。

 

代わりに、遠くを見る。

 

黒い塔のようなものが、地平線に立っている。

さっきより、近い。

 

「あれは?」

 

「大きいの」

 

それだけ言って、彼女は黙る。

 

 

道の途中に、白い机が置かれている。

ぽつんと。

 

その上に、紙が一枚。

 

進路希望調査票。

 

透は足を止める。

 

名前の欄には、もう自分の名前が書いてある。

 

第一希望――医師。

 

「……書いてない」

 

「これは“書いたほう”」

 

彼女は机に触れない。

ただ見ている。

 

「選んだ未来は、消えないよ」

 

その瞬間。

 

塔の影が伸びる。

 

黒い何かが、紙の上から立ち上がる。

 

白衣。

 

顔のない人影。

 

手には聴診器。

 

足元には、割れた注射器。

 

透の胸が締めつけられる。

 

「父さん」

 

影が首を傾ける。

 

低い声が響く。

 

「期待している」

 

「お前ならできる」

 

「逃げるな」

 

足がすくむ。

 

これは怪物だ。

わかっている。

 

でも。

 

声は、本物と同じだ。

 

透は後ずさる。

 

白衣の影が一歩近づくたび、地面が沈む。

 

「医者にならないと言ったな」

 

責める声ではない。

失望の声だ。

 

それが一番、痛い。

 

透の喉が震える。

 

「俺は――」

 

言葉が出ない。

 

医者にならない。

 

それは、父を否定することなのか。

 

期待を裏切ることなのか。

 

影が手を伸ばす。

 

胸を掴まれる。

 

重い。

 

苦しい。

 

「決めるって、こういうことだよ」

 

彼女の声は静かだ。

 

助けない。

 

ただ、見ている。

 

透は歯を食いしばる。

 

逃げたい。

 

やっぱり書けばよかったと、思う。

 

“まだいいや”に戻りたい。

 

その方が、楽だ。

 

影が顔を近づける。

 

「お前は、何者にもなれない」

 

 

その言葉が、刺さる。

 

透の中で、何かが弾ける。

 

「……違う」

 

小さな声。

 

影が止まる。

 

透は震えながら言う。

 

「医者にならない」

 

「でも」

 

息を吸う。

 

怖い。

 

それでも。

 

「何者かには、なる」

 

 

世界が、震える。

 

塔にひびが入る。

 

空に浮かんでいた雫が、一斉に落ちる。

 

白衣の影が崩れる。

 

崩れながら、最後に一言だけ残す。

 

「なら、証明してみろ」

 

静寂。

 

透は膝をつく。

 

息が荒い。

 

胸が痛い。

 

決めるって、こんなに痛いのか。

 

彼女が近づく。

 

「ね」

 

傘越しに、透を見る。

 

「楽になった?」

 

透は、首を横に振る。

 

全然。

 

楽じゃない。

 

でも。

 

逃げていない。

 

それだけは、わかる。

 

空を見る。

 

さっきより、雨は多く落ちている。

 

でも、まだ全部じゃない。

 

彼女は小さく言う。

 

「少しずつでいい」

 

「雨は、急がないから」

 

透は立ち上がる。

 

塔は、まだ遠くにある。

 

黒く、重く、動かない。

 

「あれが、一番大きいの?」

 

彼女は少しだけ、目を伏せる。

 

「うん」

 

「何?」

 

 

彼女は、まっすぐ透を見る。

 

「“何者にもならなかった君”」

 

 

空が、低く鳴った。

 

雨は、まだ、彼のすべてを知らない。

 

けれど。

 

確実に、近づいている。

 

名前を。

 

彼の、ほんとうの名前を。

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