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『雨はまだ、君の名前を知らない』  作者: 臥亜


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2/11

止まった雫

雨は、落ちていなかった。

 

空は灰色のまま、雫は宙に浮いている。

今にも落ちそうで、けれど決めきれない顔をして。

 

透は、しばらくそれを見上げていた。

 

「触ってみる?」

 

声がする。

振り向くと、白いシャツの彼女が立っている。

透明な傘を差して。

 

さっきよりも近い。

けれどやっぱり、どこか輪郭が曖昧だ。

 

透は手を伸ばす。

浮かんだままの雫に、指先が触れる。

 

冷たい。

 

その瞬間。

 

――どん。

 

遠くで、何かが崩れる音がした。

 

足元を見ると、石畳にひびが入っている。

 

「……え」

 

「本音」

と彼女は言う。

 

「今、ちょっとだけ“帰りたい”って思ったでしょ」

 

透は否定しようとして、言葉を止めた。

思った。

たしかに。

 

帰りたい。

ここはおかしい。

怖い。

 

ひびが広がる。

石畳が、ぱきん、と音を立てる。

 

「この世界はね」

彼女は傘をくるりと回す。

 

「君の心でできてる」

 

言い終わると同時に、ひびは止まる。

 

透は息を整える。

 

「どういうことだよ」

 

「そのままの意味」

 

彼女は歩き出す。

透は追いかける。

足元の石は、踏むたびにわずかに揺れる。

 

遠くに、黒い影がうごめいている。

 

「じゃあ、あれは」

 

「あれは嘘」

 

黒い影が、ぐにゃりと形を変える。

人のようで、人でない。

顔のない塊。

 

「君が言い続けた言葉のかたまり」

 

透は、息を呑む。

 

「まだいいや」

 

影が、はっきりと口の形を作る。

 

「そのうち」

 

もうひとつ、影が増える。

 

「普通でいい」

 

三つ目が生まれる。

 

透は後ずさる。

 

「逃げないで」

彼女は静かに言う。

 

影がこちらへ滑ってくる。

地面を這うように。

 

透は叫ぶ。

 

「違う!」

 

石畳が揺れる。

 

「俺はただ――」

 

言葉に詰まる。

何を“ただ”なのか、自分でもわからない。

 

影が足に絡みつく。

冷たい。

重い。

 

「選ばなかっただけ」

 

彼女の声は、優しくも厳しい。

 

「でもね、それも選択なんだよ」

 

影が、透の腕を掴む。

 

その瞬間。

 

彼は思い出す。

進路希望調査の紙。

白紙のまま提出した日のこと。

 

何も書かなかった。

怒られるのが嫌だったわけじゃない。

 

ただ、決めなかった。

 

影が強くなる。

 

透は歯を食いしばる。

 

「……医者には、ならない」

 

口に出した瞬間。

 

空が、ひび割れた。

 

浮いていた雫が、一斉に震える。

 

影が悲鳴のような音を立てて、崩れ落ちる。

 

石畳が静かに戻る。

 

透は膝をつく。

息が荒い。

 

彼女がそばに立つ。

 

「ひとつ」

 

傘越しに、透を見る。

 

「名前がついたね」

 

透は顔を上げる。

 

「名前?」

 

「“ならない”って決めたでしょ」

 

彼女は少しだけ笑う。

 

「それも、ちゃんとした名前」

 

透は自分の手を見る。

震えている。

 

怖かった。

でも、少しだけ。

 

ほんの少しだけ。

 

胸の奥が軽い。

 

空を見る。

 

雫が、ひとつだけ、落ちた。

 

地面に触れて、音が生まれる。

 

ぽつり。

 

彼は、その音を聞いた。

 

そして、ようやく気づく。

 

この世界では。

 

“決める”と、雨が落ちる。

 

まだ、全部は降らない。

 

でも、確かに。

 

一滴ぶん、進んだ。

 

彼女は傘を持ったまま、言う。

 

「ね。少しは、始まりそう?」

 

透は答えない。

 

答えられない。

 

でも、もう。

 

さっきよりは、立っている。

 

雨はまだ、全部は知らない。

 

けれど。

 

彼の名前の、かけらくらいは。

 

覚えはじめているのかもしれなかった。

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