「名前のない雨」
雨は、まだ落ちきっていない。
雫は宙に浮いたまま、
行き先を決められずにいる。
この世界は、彼の迷いでできている。
だから、崩れるときも静かだ。
透は、きっと目を覚ます。
もう、わかる。
彼は選んだ。
わたしじゃない。
自分を。
それでいい。
それがいい。
あの日。
ブレーキ音が鳴った瞬間。
わたしは考えるより先に、体が動いた。
彼が前に出ようとしたのが見えたから。
ほんの一歩。
ほんの少し。
でも、それは確かに“選ぼうとした”動きだった。
それだけで、十分だった。
わたしは傘を持っていた。
透明な傘。
彼は持っていなかった。
だから、差し出した。
傘は雨を防ぐものじゃない。
覚悟を形にするものだ。
透。
あなたはもう、雨を怖がらない。
だから、わたしはここまで。
名前を呼ばれなくてもいい。
存在を覚えていなくてもいい。
でももし、目を覚ましたら。
ちゃんと、濡れて。
ちゃんと、傷ついて。
ちゃんと、生きて。
それが、あなたの“名前”。
雨が落ちる。
世界が、やっと重さを持つ。
わたしは、溶ける。
消えるんじゃない。
還るだけ。
まだ名前のなかった雨の中へ。
――さよなら。
透。
雫が、地面に触れる。
そして、音が生まれる。




