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『雨はまだ、君の名前を知らない』  作者: 臥亜


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1/11

まだ、降りはじめない

雨の記憶は、音から薄れていく。

残るのは、匂いと、 濡れた袖の冷たさ。

あの日も、雨だった。

誰かが立ち止まり、 誰かが一歩を出した。

それだけのことが、 長く、残る。

選ばなかった未来よりも、 選んでしまった一瞬のほうが、 人を縛ることがある。

名前はあとから与えられる。

後悔とか、 偶然とか、 運命とか。

けれど、そのときは、 ただ雨が降っているだけだ。

この物語は、 雨が落ちきるまでの、 ひとつの時間。

――静かに、降ります。

雨が降りそうな匂いがしていた。

 空は曇っているのに、まだ落ちてこない。

 決めかねているみたいな空だった。

 水瀬透は、昇降口の前で立ち止まっていた。

 傘は持っていない。

 持ってこようと思えば持ってこられた。

 朝の天気予報は「午後から不安定」と言っていたから。

 でも、まだ降っていなかった。

「たぶん大丈夫」

 そう思ったわけじゃない。

 ただ、決めなかっただけだ。

 

 透は、だいたいのことを決めない。

 進路希望調査は空欄。

 部活は幽霊部員。

 告白されれば断らず、好きな人には告白しない。

 優しいと言われることがある。

 違う。

 何も選ばないだけだ。

 

 校舎裏の階段は、古くて、薄暗い。

 普段は使わない。

 なのにその日は、なぜかそちらへ足が向いた。

 理由は特にない。

 選ばなかっただけだ。

 

 階段を降りる途中、

 踊り場の窓から、風が吹き込んだ。

 湿った匂い。

 遠くで雷が鳴る。

 いまにも降り出しそうで、

 でも、まだ。

 

 そのとき。

 視界の端に、白い影が映った。

 

 振り向いた先に、誰かが立っていた。

 白いシャツ。

 濡れてもいないのに、どこか雨の匂いがする。

 目が合った気がした。

 でも、はっきりとは見えない。

 名前を思い出そうとした。

 同じクラスの、誰か。

 三列目の後ろから二番目。

 けれど――

 

「……まだ、だよ」

 

 声がした。

 やわらかくて、

 どこか遠い声。

 

 何が、まだなのか。

 聞こうとした瞬間。

 

 足を踏み外した。

 

 世界が、縦にひっくり返る。

 手すりを掴み損ねる。

 落ちる。

 

 その一瞬。

 強いブレーキ音が、どこからか響いた気がした。

 

 雨が、ようやく落ちてくる。

 

 地面に叩きつけられる直前。

 誰かが、透の手を掴んだ気がした。

 

 白い指。

 

 そして。

 

 世界は、水に溶けた。

 

 

 目を開けると、そこは雨の降らない場所だった。

 空は灰色のまま、

 雫は宙に止まり、

 地面に落ちることを、まだ決めていない。

 

「ようこそ」

 

 振り向く。

 

 あの白い影が、今度ははっきり立っている。

 透明な傘を差して。

 

「ここは、まだ名前のない世界」

 

 彼女は笑う。

 

「雨はね、まだ、君の名前を知らないんだ」

 

 透は、何も言えなかった。

 名前を呼ぼうとして、

 呼べないことに気づく。

 

 彼女の名前が、思い出せない。

 

 雨は、まだ、降りきっていない。

 

 そして彼も、まだ、始まっていなかった。


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