嶺上開花は乙女の祈り
その卓は、世界の均衡を測る天秤と呼ばれていた。
「——“理喰らい”の公爵、和了。混一色、ドラ三。跳満、一万二千」
淡々とした裁定役の声が、黒曜石の神殿に吸い込まれていく。点棒の代わりに卓上を滑ったのは、青白い燐光を放つ「魂魄の欠片」だった。卓を囲む四者のうち、影のように揺らめく公爵の影が、満足げにそれを手元へと引き寄せる。
ここは「調律ノ間」。天変地異、国家の興亡、そして個人の生殺与奪——森羅万象の決定権は、すべてこの卓上で決まる。麻雀とは、この世界において「運命」と対話し、その流れを書き換えるための唯一無二の神聖儀礼であった。
私の名はシエル。辺境伯領の末娘。一族が背負った「龍の呪い」を解くため、この命が尽きるまで和了り続けなければならない宿命の代打ちだ。
卓の対面に座る「鱗の賢者」が、ゴツゴツとした指で牌山を二つに割る。彼の瞳には、悠久の時を生きた者特有の、冷たい諦観が浮かんでいた。
(……まだ、負けられない)
配られた十三枚の龍骨牌は、氷のように冷たい。私の手牌は重く、濁っている。だが、一縷の望みだけは捨てていなかった。
一巡、また一巡と、神殿の空気が重くなっていく。捨てられる牌が、カチリ、と鳴るたび、世界のどこかで誰かの運命が定まっていく。私の背筋を、焦りと冷や汗が伝った。
(お願い、来て……!)
手牌が進まぬまま、私の指が、ただ一点、まだ誰も触れていない聖域——王牌へと無意識に向く。
この世界で、自らの力で運命をこじ開ける方法はただ一つ。 自ら槓を行い、理の壁を穿ち、その頂に眠る奇跡を掴み取ること。
嶺上開花。
それは、神の領域に触れることを許された、ただ一途なる乙女の祈りの名だった。
東二局。私の親番。ここで食い止めなければ、公爵の「理」が卓を支配し、流れは二度とこちらへは戻らない。辺境伯領に刻まれた「龍の呪い」——それは、龍脈の枯渇による緩やかなる死。この卓で魂魄を失うことは、故郷の土地から生命力を奪われることと同義だった。
(お願い、手よ、集まって……!)
十三枚の龍骨牌が手元に揃う。 だが、神はここでも私に試練を与えた。萬子、索子、筒子が混ざり合い、役の方向性すら見えない雑多な手牌。あまりの重さに、指先が痺れる。
対面の「鱗の賢者」が、無感情に第一打を放つ。それは「北風」の牌。この場では「停滞」を意味する。 「理喰らいの公爵」は、先ほどの和了の余韻を楽しむように、ゆったりとツモってきた牌を弄び、不要な「一筒」——「始まりの雫」を捨てた。
カチリ、カチリ、と牌が捨てられる音だけが響く。まるで砂時計の砂が落ちる音だ。 私のツモはことごとくかみ合わない。焦りが呼吸を浅くする。
六巡目。先に動いたのは、やはり「鱗の賢者」だった。 「——リーチ」
短い宣告と共に、彼の魂魄の欠片が卓に置かれる。その瞬間、神殿の壁に嵌め込まれた巨大なステンドグラス——この世界の理を描いた「創世記の窓」——に、ピシリ、と一本の亀裂が走った。 賢者の捨て牌は、まるで計算され尽くした鉱脈図のように美しい。
(まずい……!)
賢者のリーチは、「大地の怒り」を意味する役だ。もし和了られれば、私の領地で地盤沈下が起きる。防がなければ。 だが、私の手には安全な牌がほとんどない。
「ツモ」
公爵が静かに呟く。彼の指が牌をつまみ上げ——そして、無造作に河へ捨てた。 それは、賢者のリーチへの「現物」(絶対に安全な牌)だった。公爵は、私と賢者が潰し合うのを高みから見物するつもりなのだ。
もう一人の対局者、「沈黙の僧正」もまた、息を殺して守りに入っている。 私だけが、この「大地の怒り」の奔流に晒されている。
(どうすれば……。安全牌は、あと二枚しかない)
もしこのまま流れ着けば、私の親番は流れ、呪いは確実に進行する。 ツモ番が回ってくる。これが最後かもしれない。目を閉じ、祈りを込めて牌山に指を伸ばす。
指先に触れた牌は、異様なまでに冷たかった。 いや、冷たいのではない。三枚の仲間と共鳴し、微かな「熱」を帯びている。
(……来た!)
それは、私が手の中で三枚重ねていた「白龍」の牌。四枚目。 天啓だ。 しかし、同時に悪魔の囁きでもあった。
今ここで「槓」を宣言すれば、嶺上から牌を引ける。嶺上開花への唯一の道が開かれる。 だが、槓をすれば、賢者が和了った場合のドラ(ボーナス)が一つ増える。賢者の待ちがもしこの「白龍」であったなら、私は「大地の怒り」どころではない、領地そのものが崩落するほどの致命傷を負う。
リスクしかない。常軌を逸した賭け。 だが、宿命の代打ちとは、この瞬間のためにこそ存在するのだ。
シエルは、背筋を伸ばした。硝子のように澄んだ声が、神殿の静寂を切り裂く。
「——槓」
彼女は四枚の「白龍」を卓に晒した。ステンドグラスの亀裂が、まるで龍の咆哮に応えるかのように、さらに深く広がった。
裁定役が、厳かに王牌の封印を解く。 シエルは、震える指を抑えつけ、世界の均衡が眠るその頂——嶺上牌へと、ゆっくりと手を伸ばした。
神殿の空気が、張り詰めた弦のように震えた。「槓」という一言が、絶対的な静寂の中で反響する。
対面の「鱗の賢者」の眉が、わずかに痙攣した。彼の「理」——大地を揺るがすはずだった完璧なロジック——に、予期せぬ変数が叩き込まれたのだ。もしシエルが宣言した「白龍」が、賢者の待ち牌そのものであったなら、それは「槍槓」と呼ばれ、シエルは宣言と同時に劫火に焼かれていただろう。
だが、賢者は動かない。彼の待ちは「白龍」ではなかった。 安堵の息が漏れるよりも早く、恐怖がシエルの喉元を締め上げる。彼女の行為は、賢者の和了を回避したかもしれないが、同時に「嶺上ドラ」という新たな火種を卓上に生み出してしまった。賢者の「大地の怒り」に、さらなる力を与えてしまう危険性を孕んでいる。
裁定役が、厳かに王牌に積まれた牌を一枚めくり、新たなドラ表示牌として卓上に晒す。 神殿に集う全員の視線が、そこに注がれた。
表示されたのは「二筒」——「双なる月」を意味する牌。 新たにドラとなったのは、「三筒」——「三界の交わり」であった。
その瞬間、影のように揺らめいていた「理喰らいの公爵」が、初めてその身動ぎをした。虚無であったはずの双眸に、鋭い光が宿る。 彼は、この卓の「理」が大きく歪むのを感知したのだ。
シエルは息を止める。 心臓の音が、耳元で鳴り響く。 (お願い、私に力を……!故郷を護る力を!)
彼女の指が、王牌の頂——嶺上牌に触れる。 それは、他の龍骨牌が持つ氷のような冷たさとは無縁だった。まるで、一族の祈りが凝縮されたかのように、微かな熱を帯びている。
牌は、彼女の指に吸い付くように滑り込んできた。
ツモられた牌が、手牌の隙間に収まる。 シエルの全身を、電流のような何かが貫いた。 それは、絶望的なまでに重く濁っていた彼女の手牌を、完璧な調和へと導く最後の一枚。 先ほど新たなドラと示された、「三筒」そのものだった。
シエルは、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、もはや宿命に怯える末娘のものではない。運命を自ら掴み取った「代打ち」のそれだった。
彼女は、今しがた引き入れた「三筒」を、卓の中央に静かに置く。 カチリ、と澄んだ音が響いた。
「——ツモ」
裁定役が、厳粛な声で唱和する。 「和了。シエル嬢。嶺上開花、混老頭、対々和、三暗刻、役牌・白龍——」
シエルが倒した手牌は、十三枚すべてが么九牌(一・九・字牌)と刻子(三枚組)で構成されていた。常人ならば、それだけで組み上げることを諦めるような、重く偏った手。
「ドラ四。——数え役満。三万二千」
シエルの魂魄の欠片が、眩い光を放つ。 「鱗の賢者」が置いたリーチ棒——彼の魂魄の一部——が、光の粒子となってシエルの元へと吸い寄せられた。
神殿の壁に走っていた「創世記の窓」の亀裂が、白龍の咆哮と共に瞬時に塞がっていく。賢者の「大地の怒り」は、「天啓」によって鎮められたのだ。
「理喰らいの公爵」が、初めて声を発した。それは、古井戸の底から響くような、低く、愉悦に満ちた声だった。 「……面白い。神の気まぐれか、あるいは。よもや、あの濁った手から『十三龍将』(※数え役満のこの世界での呼称)を編み上げるとはな」
シエルは点棒を手に、荒い呼吸を整える。 勝った。 だが、これは始まりに過ぎない。公爵の瞳は、この奇跡すらも「喰らう」対象として、シエルを品定めしていた。
南場へ。 神々の戯れは、まだ続く。
南場が始まる。卓上の配置が変わり、私の正面には今や「沈黙の僧正」が座している。
東二局での「十三龍将」。あれは奇跡だ。一族の祈りが、私の無謀な槓に呼応し、万に一つの可能性を手繰り寄せたに過ぎない。手元に集まった青白い魂魄の欠片は、確かに故郷の龍脈へと流れ込み、枯れかけた大地を一時的に潤している感覚がある。
だが、代償も大きかった。 私の対面から、今は右下へと移った「理喰らいの公爵」の視線が、値踏みするように私の魂魄に突き刺さっている。彼は、私が引き寄せた「運」そのものを、次なる獲物として定めたのだ。
南一局。親は「鱗の賢者」。 彼は先ほどの失点にも動じず、その打牌は太古の地層のように堅牢だ。捨てられる牌は、一切の無駄がなく、守りに重点を置いている。彼はもう、自らの「理」が及ばぬ奇跡を警戒している。
場は静かに進む。 誰もが、公爵の出方を窺っていた。
五巡目。賢者が「六索」(森のざわめき)を河に放った、その刹那。
「——喰」
公爵が、初めて副露(※鳴き)を行った。 「チー」や「ポン」ではない。彼が使う言葉は、常に「喰」だった。 彼は賢者の「六索」をさらい、手元の「四索」、「五索」と合わせて卓に晒す。
その瞬間、神殿の空気がよどんだ。 まるで、大樹の精気が根こそぎ吸い上げられたかのように、卓上の「流れ」が公爵の手元へと捻じ曲がっていく。
(これが、「理喰らい」……!)
私のツモが、途端に重くなった。 引いてくる牌、引いてくる牌が、ことごとく不要な客風や、手牌から孤立した牌ばかりになる。東二局の奇跡が嘘のように、私の手から「運」が急速に失われていくのが分かった。
それは他家も同様だった。 賢者のツモも滞り、「沈黙の僧正」の指先もわずかに震えている。
公爵は、他者の「可能性」を喰らい、自らの手牌の糧とするのだ。
八巡目。再び公爵が「喰」を宣言。今度は僧正の捨てた「二萬」(対なる宿命)をポンする。 公爵の影が、さらに濃く、大きく膨張した。彼が晒した二つの副露は、不気味な文様を描き出し、明らかに「死」を司る役へと向かっている。
(まずい、このままでは、彼に流れがすべて集まってしまう……!)
私は必死に手牌を組み替えようとするが、まるで泥濘に足を取られたように、一向に有効牌を引き入れられない。公爵が構築した「理」が、私という存在を「不要」と断じ、流れから排除しようとしている。
十二巡目。 公爵はツモってきた牌を、まるで最初からそこに存在したかのように手牌に組み込むと、音もなく一枚の牌を河に滑らせた。
「——聴」
リーチではない。ただ、「聴」(聴牌、テンパイ)とだけ。 だが、その一言は、賢者のリーチよりも重く、神殿の空気を凍てつかせた。
その瞬間、私の背後にある故郷の光景が、脳裏を過ぎった。 ——青白い魂魄の欠片が、再び大地から剥離していく幻影。
公爵の待ちは、私が今、この手で握りしめている「生命線」そのもの。 私が和了るために絶対に必要な、最後の一枚。
公爵は、私の手牌を読み切り、その上で、私の希望をピンポイントで喰らおうとしているのだ。 私の指先が、絶望に冷え切っていく。
南一局、十三巡目。私の指先は、絶望という氷に触れたように冷え切っていた。
(——読まれている)
「理喰らいの公爵」の聴牌は、私の手牌を完璧に看破している。 私がこの泥濘のような手から、唯一の活路を見出すために必要な牌。故郷の命運を繋ぐ、その一枚。 公爵は、それを「一点」で待ち構えている。
私がそれを引けば、和了れない。捨てれば、公爵の直撃となり、今度こそ私の魂魄は喰い尽くされる。 公爵の「理」が、私という存在を「詰み(ツミ)」の状態に追い込んでいた。
ツモ番が回ってくる。 引いた牌は、やはり無関係な「九索」。手牌に力がこもらない。 私は、この「九索」を捨てるしかない。そして、次のツモで運命の牌を引かぬよう、神に祈るしかない。 だが、公爵が支配するこの卓で、神はあまりに無力だ。
カチリ、と「九索」を河に置く。 公爵の影が、嘲笑うかのように揺れた。
(……待って)
その時、脳裏を稲妻が貫いた。 東二局の、あの奇跡。嶺上開花。
(あの和了は、重く、濁っていた。常識では組み上げられない、偏った手だった)
公爵は「理喰らい」。彼は、卓上の「論理」を喰らい、計算し、支配する。 だからこそ、彼は私の東二局の「奇跡」を理解できず、「神の気まぐれ」と断じた。 そして今、彼は私の手牌を「論理的」に読み解き、私の「論理的」な活路を塞いでいる。
(——だが、もし)
もし、私の祈りが、あの嶺上開花が、私一人のためのものではなかったとしたら? もし、あの奇跡が、この「論理」の卓そのものに、たった一つ「非論理」の楔を打ち込むためのものだったとしたら?
私の視線が、卓の対面——「沈黙の僧正」へと吸い寄せられた。 彼は、この南場に入ってから、ただの一度も手を開いていない。捨てられる牌は、まるで意図が読めない雑多なものばかり。 公爵は、僧正を完全に「死に体」とみなし、その存在を「論理」の計算から除外している。
(僧正の捨て牌……。一萬、九萬、一索、九索、九筒、東、南、西、北、白、發、中……)
一瞬、呼吸が止まった。 僧正の河は、雑多なのではない。 彼は、么九牌(一・九・字牌)以外のすべてを、ただ静かに捨て続けていたのだ。
公爵が「論理」の支配を構築している間、僧正はただひたすらに、「非論理」の結晶を編み上げていた。
(——国士無双)
この世界で「神の御手」と呼ばれる、究極の役。 公爵の「理喰らい」をもってしても、その存在を感知できない。なぜならそれは、「理」ではなく「信仰」そのものだからだ。
僧正の待ちは、何か。 彼の河にない么九牌は、ただ一つ。
私の手牌に、一枚だけ、最初から最後まで孤立し、何の役にも立たなかった牌がある。 公爵が「無価値」と判断し、その計算から外した牌。
「——一筒」(始まりの雫)
これだ。 私の「嶺上開花」は、この一打のためにこそあった。
私は、公爵から視線を外した。 もう、彼の「理」の支配下に私はいない。
私は、手の中の「一筒」を掴んだ。 公爵の影が、初めて焦りを見せて揺らぐ。彼には理解できない。なぜ、私が自らの「詰み」を解くための牌ではなく、その無価値な牌を手に取ったのか。
シエルは、その「一筒」を、静かに河へ置いた。
その瞬間。 それまで石像のように動かなかった「沈黙の僧正」が、ゆっくりと目を開いた。 その瞳には、虚無ではなく、森羅万象を映す「円鏡」が輝いていた。
「——和了」
その声は、万の鈴が鳴り響くような、清浄な響きだった。
僧正の手牌が、倒される。 十三枚すべてが、么九牌。 「国士無双、十三面待ち」
裁定役の声が、震えている。 「——役満。和了、沈黙の僧正。四万八千」
公爵の「理」が、音を立てて崩壊した。 彼が築き上げた論理の城は、信仰という名の「非論理」の洪水によって、根こそぎ押し流された。 公爵の集めた魂魄の欠片が、激しい光と共に僧正の元へと吸い込まれていく。
シエルは、魂魄の四分の一を僧正に支払った。 だが、その顔は晴れやかだった。 故郷を縛っていた「龍の呪い」が、その連鎖を断ち切られ、霧散していくのが分かった。
「理喰らいの公爵」は、影が薄れ、まるで実体を失ったかのように卓に沈んでいた。 彼は「論理」の怪物。そして、「信仰」に喰われたのだ。
最終局。 シエルは四位のまま、卓を立った。 彼女は勝者ではなかった。だが、紛れもない、ただ一人の救世主だった。
神殿を後にするシエルの背後で、裁定役の声が響く。 「これにて『調律ノ間』を閉じる。世界の均衡は、是とされた」
シエルは空を見上げた。 嶺上開花は乙女の祈り。 その祈りは、自らが奇跡を起こすためではなく、神の御手をこの卓に降ろすための、尊い生贄だったのである。




