番外編13∶約束の夕刻と、冷たい鞭音
唇が離れたあとも、しばらくの間――
どちらも動けなかった。
互いに視線を逸らしたまま、わずかに乱れた呼吸だけが重なる。
気まずい沈黙。
その空気を破ったのは、ジュリアだった。
「……そろそろ帰らないと」
小さな声で呟く。
「館を出たこと、バレたら大変だし」
アンリは一瞬だけ目を閉じ、息を整えると、
「そうですね。近くまでお送りします」
と静かに言った。
そして、手を差し出す。
ジュリアはその手を見つめる。
さっきまで、何のためらいもなく触れていたのに――
今はなぜか、胸が強く鳴って、指先が動かない。
その様子に気づいたのか、アンリは少しだけ眉を寄せ、
「離れたら危ないですから」
そう言って、ジュリアの手を取った。
指先が触れた瞬間、びくりと体が震える。
握られた手は、互いに少し汗ばんでいて、
言葉にしなくても、緊張が伝わってきた。
二人は何も言わず、そのまま歩き出す。
やがて館の近くまで辿り着いた。
アンリは足を止める。
「ここまで来たら大丈夫ですね」
そう言って、そっと手を離した。
――離れたはずの温もりが、まだ残っている。
その瞬間。
ジュリアは思わず、もう一度アンリの手を掴んでいた。
アンリが驚いたように目を見開く。
「……また会える?」
不安と期待が混じった声。
アンリは少しだけ視線を逸らし、沈黙する。
だがやがて、小さく息を吐き――
「……明日の夕刻、あの市場の噴水近くの木の下にいます」
と、低く答えた。
ジュリアの顔がぱっと明るくなる。
「絶対に行くわ!」
迷いのない笑顔だった。
一瞬、見つめ合う。
甘く、静かな時間が流れる――
その時だった。
「――あぁっ!!お許しください!!」
館の方から、鋭い悲鳴が響いた。
続けて、空気を裂くような音。
――鞭の音。
ジュリアの表情が凍りつく。
「ピナ!?」
アンリはすぐに表情を引き締めた。
「とにかく、早く戻った方がいい」
その言葉に、ジュリアははっと我に返る。
「え、えぇ……!では、また……!」
そう言い残し、館へと駆け出した。
息を切らしながら庭園へ辿り着いた瞬間――
その光景に、言葉を失う。
そこには、
地面に跪かされ、鞭を打たれているピナの姿があった。
そして、その前に立つ男。
グラヴィスは、冷たい表情でそれを見下ろしていた。
まるで、何の感情もないかのように。




