番外編9∶ 敵の娘
路地には、重たい沈黙が落ちていた。
貴族の男は青ざめた顔で何度も頭を下げている。
「も、申し訳ありません……! まさか宰相閣下のご息女とは……!」
「もういいわ」
ジュリアは静かに言った。
「その方たちを解放して。二度と手を出さないと約束しなさい」
「は、はい……! もちろんでございます!」
男は慌てて頷き、そそくさとその場を去っていった。
取り巻きたちも慌てて後に続く。
やがて路地には、静寂だけが残った。
ナグラートの親子は、震えながら何度も頭を下げている。
「ありがとう……ございます……王子殿下……」
父親がかすれた声で言った。
アンリは一瞬だけ目を伏せ、静かに答える。
「……もう大丈夫だ」
それだけ言うと、そっと手を差し出し、親子を立ち上がらせた。
「ここから離れなさい」
「は、はい……!」
親子は何度も頭を下げながら、急いで路地を去っていった。
そして――
残されたのは二人だけだった。
アンリはゆっくりと振り返る。
その視線の先にいるのは、ジュリア。
「……」
しばらく沈黙が続いた。
アンリの瞳には、複雑な感情が浮かんでいる。
やがて彼は低く言った。
「……なぜです」
ジュリアは小さく首を傾げる。
「え?」
アンリは一歩近づいた。
「なぜ助けたのです」
その声は静かだったが、どこか張り詰めていた。
「あなたは……」
一瞬言葉を詰まらせる。
「あなたは、グラヴィス宰相の娘だ」
その名を口にするだけで、胸の奥がざわつく。
ジュリアは黙ってアンリを見つめた。
アンリは続ける。
「ナグラートを属国にした男の……娘だ」
その言葉には、抑えきれない感情が滲んでいた。
怒り。
悔しさ。
そして――どこか悲しみのようなもの。
「そんなあなたが」
アンリは拳を握る。
「なぜ、ナグラートの民を助けるのです」
ジュリアは少しだけ目を伏せた。
そして静かに言った。
「助けたかったから」
アンリの眉が寄る。
「……それだけですか」
「ええ」
ジュリアは顔を上げる。
その瞳はまっすぐだった。
「目の前で困っている人がいたの」
「……」
「だから助けた」
アンリは言葉を失う。
あまりにも単純な答えだった。
だが――
その瞳には嘘がなかった。
ジュリアは続ける。
「それに」
少しだけ躊躇してから言う。
「あなたが助けようとしていたから」
アンリの目がわずかに見開かれる。
「あなたは怒っていた」
ジュリアは言った。
「でも、手を出さなかった」
「……」
「きっと理由があるんでしょう?」
アンリは答えなかった。
だが、その沈黙がすべてを物語っていた。
ジュリアは静かに言う。
「あなたは、優しい人ね」
その瞬間だった。
アンリの表情が強張る。
「……違う」
低く言った。
「優しくなどありません」
そして目を伏せる。
「力がないだけです」
その言葉は、あまりにも悔しそうだった。
ジュリアの胸がきゅっと締めつけられる。
「そんなことないわ」
思わず言った。
アンリは顔を上げる。
ジュリアはまっすぐ彼を見つめていた。
「あなたはちゃんと守った」
「……」
「さっきの親子を」
静かな声だった。
「それだけで、十分すごいことよ」
アンリは何も言えなかった。
ただ、彼女を見つめる。
夕暮れの光の中で立つ少女。
宰相の娘。
自分の国を奪った男の娘。
それなのに――
どうしてこの人は、こんな目をするのだろう。
アンリの胸が、また強くざわめいた。
「……ジュリア」
気づけば、名前を呼んでいた。
ジュリアが少しだけ微笑む。
その笑顔を見た瞬間。
アンリは思った。
――この人は危険だ。
自分にとって。
とても。




