番外編8∶宰相の娘
アンリはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には――
燃えるような怒りが宿っていた。
だが、彼は何も言わなかった。
ただ静かに、貴族の男を見据える。
男はその視線を受けてもなお、嘲るように笑った。
「なんだその顔は?」
わざとらしく肩をすくめる。
「悔しいか? 属国の王子様」
周囲にいた取り巻きの男たちも、くすくすと笑う。
「お前たちナグラートの連中はな、帝国に守ってもらっている立場なんだよ」
男は地面にひれ伏す父親を見下ろし、さらに言った。
「犬は犬らしくしていればいい」
その言葉を聞いた瞬間だった。
アンリの拳がぎりっと音を立てる。
「……」
歯を食いしばる。
怒りが胸の奥で燃え上がる。
だが――
ここで手を出せば、どうなるか。
ナグラート王国の立場はさらに悪くなる。
それが分かっているからこそ、アンリは動けなかった。
その沈黙を見て、男は鼻で笑う。
「ほら見ろ。何もできない」
そして父親の胸ぐらをつかみ上げた。
「だからお前たちは――」
その時だった。
「やめなさい」
澄んだ声が路地に響いた。
全員の視線が一斉に向く。
人垣の向こうから、一人の少女が歩み出てきた。
簡素な服装。
だが、その背筋は真っ直ぐだった。
アンリの瞳が見開かれる。
「……ジュリア?」
思わず名がこぼれる。
ジュリアはアンリをちらりと見たあと、まっすぐ貴族の男を見据えた。
「その方を離しなさい」
静かな声だった。
だが、確かな強さがあった。
男は眉をひそめる。
「……なんだお前は」
不機嫌そうに言う。
「平民の娘が口出しすることじゃないぞ」
取り巻きたちが笑った。
「はは、正義の味方か?」
「やめとけやめとけ」
ジュリアの胸が強く打つ。
怖くないわけではない。
けれど――
目の前の光景を見て、黙っていられるほど彼女は弱くなかった。
ジュリアは一歩前に出る。
そして、はっきりと言った。
「その方は、ナグラート王国の王子です」
男は鼻で笑う。
「だからなんだ?」
そしてアンリを指差した。
「属国の王子だろうが」
その瞬間。
ジュリアの表情が変わった。
迷いは消えていた。
「……そう」
小さく呟く。
そして、まっすぐ男を見つめる。
「では、あなたは私の言葉にも従わないのね」
男は眉をひそめた。
「は?」
ジュリアは静かに言った。
「私は――」
一瞬の沈黙。
路地の空気が張り詰める。
そして。
「グラヴィス宰相の娘、ジュリアです」
そう言い家紋のペンダントを掲げる。その瞬間。
空気が凍りついた。
「……は?」
男の顔から血の気が引く。
「グ、グラヴィス……宰相……?」
取り巻きたちもざわめいた。
「う、嘘だろ……だがあの家紋は…」
アンリもまた、言葉を失っていた。
「……ジュリア」
信じられないものを見るような目で、彼女を見る。
だがジュリアは視線を逸らさなかった。
「その方を離しなさい」
もう一度言う。
今度は、はっきりとした命令だった。
男の手が、ゆっくりと父親の胸ぐらを離す。
「も、申し訳ありません……!」
男は慌てて頭を下げた。
「まさか宰相閣下のご息女とは知らず……!」
路地は静まり返った。
その中で。
アンリだけが、ジュリアを見つめていた。
複雑な感情が入り混じった瞳で。
怒り。
戸惑い。
そして――
ほんのわずかな、痛み。
ジュリアはその視線に気づき、胸が締めつけられた。
けれど、目を逸らすことはしなかった。




