【第26話】深夜の邸を襲う影
宰相邸の夜は、月明かりに銀色の影を落とし、静寂が支配していた。
いつもより冷たい夜風が窓から差し込み、邸の灯りも薄暗く揺れている。普段なら安心できる夜も、どこか不穏さを孕んでいた。
ジェニエットは窓辺に座り、城で遅くまで会議を続ける夫・グラヴィスの帰りを待ちながら深く息をつく。
「……今日も遅いわね」
戦争の兆しは日に日に濃くなっているものの、まだ戦火は広がっていない。
「大丈夫……グラヴィス様なら、きっと……」
そう呟き、月明かりに照らされた庭をぼんやり眺めていた。
(アルフォンス王子はもう帰国したっていうけど、本当に物語は変わったのかしら?)
しかし、その背後――廊下の陰から、黒衣の影が音もなく忍び寄る。
前回の夜間侵入の際とは違い、今回は警備員たちも交代や見回りをしていた。だが、疲労で集中力が落ちていた一瞬、わずかな盲点が生まれてしまった。熟練の忍びである侵入者は、その隙を見逃さず、宰相邸の警備服に巧みに偽装し、月明かりに溶け込むように静かに足を進める。鍵や扉の施錠も瞬時に回避され、わずかな物音も消された。
ジェニエットは完全に無防備だった。窓の外に気を取られ、背後に迫る危険には微塵も気づかない。
――瞬間。
冷たい手が、静かにジェニエットの口を覆った。
驚く間もなく、もう片方の手が腕を掴む。
「……っ、何……?」
必死に抵抗しようとするが、侵入者は薬を染み込ませた布を素早く口元に押し当てる。苦しさと眠気が瞬時に全身を包み込み、視界がゆらぎ、意識が薄れていく。
「……グラヴィス様……!」
それが最後の言葉となり、ジェニエットは静かに闇に沈んだ。
静寂の中、邸内に残されたのは、眠らされた衛兵とメイドだけ。何事もなかったかのように、夜風だけが静かに吹き抜ける。
黒衣の襲撃者は迅速に、そして確実にターゲットを確保する。銀髪と青い瞳、そして無防備な寝室――まるで獲物を運ぶかのように、ジェニエットは邸を後にした。
遠く、ナグラート王国への道を疾走する馬の影。夜闇に溶けるその姿は、帝国側の誰にも気づかれることはない。
だが、ブリリアント帝国の宰相・グラヴィスの胸には、なにか嫌な予感が走っていた。戦争はまだ起きていない。しかし、この予感は、宰相邸で何か重大な事態が起ころうとしていることを告げていた。
「……ジェニエット……!」
その名を心の中で呼び、彼は迷わず宰相邸へ戻ることを決意した。
帝国の威信と、愛する妻を守るための戦い――静かに、しかし確実に、今、幕が開こうとしていた。
---




