第4話 護衛騎士への戸惑い
目を覚ましてから、たった三日間。私はようやく部屋の外に出ることができた。
ずっと部屋の中で事足りる生活をしていたなんて、これぞお姫様の生活だと、記憶もないのに一人で勝手に納得をする。
これは多分、肝心な部分を忘れているだけで、完全な記憶喪失というわけではないのだろう。その証拠に、一歩部屋の外に出た途端、まるで憧れていた世界が目の前に飛び込んできたような感覚を味わった。
「リュシアナ様?」
歓喜のあまり、両手を口元で合わせていると、後ろにいたカイルが何事かと声をかけてきた。無理もない。護衛対象が突然、立ち止まってしまったのだから。
けれど今の私に、カイルを気遣う余裕はなかった。
「部屋の中も素敵だったけど、外もだなんて……カイル、中庭ってどっちにあるの?」
「み、右です」
カイルの示した方へと目を向けると、明るい光が差し込む長い廊下が続いていた。
白い石の床は滑らかに磨かれ、足音すら静かに吸い込んでしまうかのように美しい。壁に等間隔で並ぶ燭台の装飾も、陽の光を受けてほのかに煌めいている。こんなにも美しい場所にいたなんて、信じられない気持ちだった。
「っ! カイル、早く行きましょう。ううん。ゆっくり案内して」
振り返り、カイルの袖を掴む。深緑色の瞳の中に戸惑いの色が見えた。記憶喪失になってから、何度も見た表情だったけれど、今は不思議と心地よい。
だってカイルの瞳に映っているのは、かつてのリュシアナではないからだ。今の私が引き出した表情。それが嬉しくて堪らなかったのだ。
「お待ちください、リュシアナ様。そう騒がれては人目につきます」
「あっ、そうね。ごめんなさい」
「そのため、中庭への道は通常のルートを行きませんので、俺から離れないでください」
「大丈夫。カイルから離れたら、自力で部屋に戻れそうにないもの。さすがにそれだけは、ね」
ニコリと笑ってみせるが、カイルの表情は変わらない。
やっぱり信用できないのかな。護衛騎士になったのは、リュシアナが寝込んでいる最中だって聞いたから、ミサとは違うと思ったんだけど……。
すると突然、袖を掴んでいた手が取られた。護衛騎士だから、危害を加えるとは思わないけれど、私は驚きのあまり、一歩後ろに引く。
「わっ!」
それがいけなかったのだろう。カイルはただ手を握っていただけなのに、私の体は引っ張られて、そのまま体当たりをしてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いえ、それよりも大丈夫ですか?」
「うん。カイルが支えてくれたから……っ!」
こ、これは抱き合っているみたいじゃない!
咄嗟に距離を取るが、片手は握りしめられているため、離れることができない。しかもバランスを崩したことで、もう片方の手が私の背中に回されていた。
「カイル……その、手を……」
「いけませんか?」
「だって、ミサもいるのよ」
「いませんが?」
「え?」
そういえば、ミサの声がしない。私の一挙手一投足に反応するのに……どうして?
「さきほども言いましたが、中庭へは通常のルートを使いません。そのため、ミサ殿には同行を遠慮していただきました」
「知られてはマズイの?」
「あまり褒められたルートではないため……」
つまり、怒られるのが分かっている道ってこと?
「……私がそのルートを知って、大丈夫なの?」
「王族なら、むしろ知るべきです。いざという時は役に立ちますので」
「あっ……」
その時は、傍にカイルがいないことを意味している。思わず握り返した手に力が入った。
「すぐに必要になる出来事は起こりません。アルフェリオン王国は平和ですから。リュシアナ様が記憶喪失になる前は、お忍びで城下に出かけられていた、と聞きました。それだけで分かっていただけるかと思います」
「っ! そ、そうね。ありがとう、カイル」
ミサとは違う気遣いと優しさに、胸が温かくなった。と同時に感じる、寂しさ。
彼らは私が『リュシアナ』だから、そう接してくれているだけ。リュシアナの記憶がないのに他の、そう例えば王女や侍女、護衛騎士と聞いても、こんなものかと素直に享受してしまう思考。これは果たして、リュシアナの記憶なのだろうか。もしくは、別の存在のものなのか。
ミサから聞くリュシアナ王女は、彼女のフィルターがかかっているように見えて、真実の姿だとは思えない。逆にカイルの方は、客観的に見えて、それ以上の感情を抱いているような態度を取る。
そう、今のように。必要以上の優しさをくれるのは、どうして?
なんとなく、その理由が中庭にあるような気がした。
私はカイルの横を歩きながら、そんな不思議な感覚を味わった。そんな私たちを誰かが見ているとは知らずに。
***
一階の廊下を一望できる部屋で、赤褐色の髪の女性が、椅子に座りながらリュシアナとカイルを見ていた。末の王女とその護衛騎士との戯れを、微笑ましく見る者もいるだろう。もしくは不謹慎だと感じる者もいるかもしれない。
膝に乗せた本を閉じ、彼女は窓の外を凝視する。その茶色い瞳は、まさに後者の心境とばかりに冷たいものだった。
「クラリーチェ様。何をご覧になって……あれは!」
近くにいた侍女が、クラリーチェの異変に気づき、同じように窓の外へと視線を向ける。
「護衛騎士と手を繋ぐなんて、いくら記憶喪失でもふしだらです」
「そうね。でもリュシアナは、私と違って他国に嫁ぐことはないのだから、別に問題はないでしょう? むしろあの騎士と、結婚させようとしているのかもしれないわよ」
「……陛下が直々に任命されたそうですからね」
「私には好きな騎士を選べ、と突き放しておきながら、あの子には……」
クラリーチェは窓から目を背けた。
「王族の色を持っていないのは、リュシアナ王女も同じなのに……王妃に似ているというだけで!」
「止めなさい。誰が聞いているのか分からないのよ。言葉には気をつけて」
「も、申し訳ございません」
侍女の謝罪を、クラリーチェは口角を上げて見つめる。
今はまだ、私に頭を下げる者は少ないけれど、いずれは倍にして、この国に帰ってくるわ。そう、お父様とお兄様、そしてリュシアナさえも頭を下げざるを得ない存在となってね。
「ふふふっ」
「く、クラリーチェ様?」
侍女の問いかけにも答えず、クラリーチェは再び窓の外に視線を向けた。
「楽しみね」
一階の廊下にはすでに、リュシアナとカイルの姿はなかった。