犬が兄弟になりまして・6
鏡とふたりを何度も往復した航の頸はもげそうになった。
「……名前は……?」
「りく」
「かい」
なんで聞くの?とばかりにふたりは首をかしげる。その仕草に覚えがあったが、騙されてはいけないと航は思った。よくある名前だ。
「……人間か?」
我ながら変な質問をしていると思う。目の前にいるのはまごうことなき青年なのだ。
ふたりの若い男は一瞬首を伸ばし目を見開くと、すぐに肩をすくめて笑いあった。
「人間て……」
そして航を見て苦笑した。
「犬だよ」
「ウソつけ!」
「ウソて」
カイと名乗った男が失笑する。
「どう見ても犬じゃん」
笑いをこらえきれないリクと名乗った男が顎で鏡を指す。
ため息のような鼻息をついたゴールデンレトリバーが鏡の中から航を見ていた。
「おい、いい加減にしろよお前ら、どんなトリックだ。VRか?プロジェクションマッピングか?マジックミラー的なやつか?人んちにどんな仕掛け作りやがったいつの間に!」
航は姿見の後ろを見分する。何もないので前も見分する。やっぱりないので天井からホームシアターとか下がってないかキョロキョロと探した。
「お腹空いた、お兄ちゃん」
「誰が『お兄ちゃん』だ!」
下から寝巻の裾を引っ張る自称・カイに航は怒鳴った。
「だってお父さんとお母さんが『お兄ちゃん』って言ってたもん」
「どこのお父さんとお母さんだ!俺とは関係ねえ!」
「だってスマホでいっつも見せてくれてたもん。『ほ~ら、お前たちのお兄ちゃんだよ~』って」
「『お兄ちゃんあんたたち見たらびっくりして喜ぶよ~』って」
「『お兄ちゃん帰って来たらいっぱい遊んでもらおうね~』って」
「『お兄ちゃん今度の日曜帰って来るかな~』とか」
「『お兄ちゃんお正月には帰って来るかもね~』とか」
「『寒くなったけどお兄ちゃん風邪ひいてないかなぁ』とか」
「『お兄ちゃん風邪ひいて帰ってこられなくなったんだって。残念だったねえ……』とか」
「やめろ!そんなんで両親亡くしたばかりの人間ほだせると思うなよ!人の弱みに付け込みやがって、どっからそんな情報仕入れやがった!」
航はピンと来た。これは新手の詐欺だ。飼っていた犬が恩返しに来ましたとか言って、なんだかんだ世話になってなんだかんだ香典泥棒する気だ。とっくに葬儀は終わっているが。
「アポロさんとの写真はパソコンで見せてもらったよ」
「アポロ…」
懐かしい名前だった。航が生まれる前から実家にいた犬だ。
「アポロさん、すごい子煩悩ぶりがひしひし伝わってきたよね。お兄ちゃんラブラブだったよね。頬っぺた擦り切れそうなほど舐めまくってる動画あったね」
自称・リクと自称・カイが顔を合わせて笑う。そして航を見て
「気持ちわかるよね、お兄ちゃん見たら」
などと言うもんだから航は危うく赤くなりそうだった。
そしてはたと気づく。
航が両親の事故を確認してから実家に帰るまでの2日間、家は留守だった。
「……お前ら、空き巣だな……」
誰もいない間にパソコンを見て家庭内の情報を掴んだに違いない。写真のフォルダには代々の犬の名前が書いてあったはずだ。
「あれでしょ、お兄ちゃん。小さいとき犬のウンコ食べようとしたんでしょ?」
突然、自称・リクが薄ら笑いながら言い出した。
「さっと摘まんで口に入れようとするからお父さんが慌てて止めたら、『おとうさんとおかあさんが毎日持って帰るから、チョコレートだと思ってたー』って泣きだしたって」
「いや、オレらでも食わねえってウンコ」
ガハガハ笑うふたりに、真っ赤になった航は怒鳴る。
「そんなことも書いてあったんかー!?」
「100回ぐらい聞いた」
「散歩に行くたびお父さん言ってた」
「お母さんもしゃべってた」
「すんごい楽しそうに毎回しゃべってた」
「他にネタなかったんかい!」
「犬友さんにも喋ってたよね」
「そこんちの犬に『お前んちの兄ちゃんバカなん?』って聞かれて」
「『まだ会ったことないけどそうなのかもね』って答えといた」
ガハガハと笑うふたりに
「飼い主を敬え!」
と航は怒鳴ったが
「いやお前飼い主じゃねーし」
と返され
「いやいやお前ら犬じゃねーし!」
と我に返るも
「またまた~」
と自称・犬を貫かれ、航は頭を抱えた。
結局「遠かった」だの「いっぱい歩いた」だの「疲れた」だの「焼鳥しか食ってない」だの「お腹が減った」だのわめき散らす自称・犬どものために、航はインスタントラーメンを作ってやった。ドッグフードさえあれば嫌がらせにザラザラと皿に乗せて出してやったのにと舌打ちしたが、あいにく保護施設に全部持って行ってしまっていた。
ラーメンを作っているとき、ふたりは航の両側に張り付き興味津々作る過程を見ていた。はじめ見張られているのかとも思ったが、麺を茹でてもスープを入れても鼻をクンクン鳴らして涎まで垂らし始めたので、少々気の毒になってきた。
ソファー前のテーブルに置いてやると、ふたりとも行儀よくその前に座った。
目を爛々と輝かせてラーメンを見ているがなかなか手を付けないので猫舌なのかと思いつつ
「食べないの?」
と訊くと
「いいの?」
と航を見る。
「どうぞ」
と言うとラーメンの器に顔を突っ込んだ。
そして「うわっち!!」と飛び退いた。
テーブルに足が当たってひっくり返りそうになるのを慌てて航が押さえた。
「あほか!そこまで犬を貫くなよ!」
タオルを濡らして渡そうとするが、ふたりは顔を抑えて受け取らないので航が拭いてやる。
「素直に箸使えよ」
テーブルに置いた割り箸を示すと、ふたりは顔を見合わせ、割りもせず、初めて箸を使う子供のように握り締めて麺を掬って食べ始めた。
ブレないキャラづくりの徹底ぶりに航は半目になった。そこまでやったところでどうせ鏡には真実の姿が映っているはず。食事の姿までいかな最先端のVRでも再現できまい。
航はふっと笑って鏡を見た。
普通にどんぶりに顔を突っ込んでラーメンを食べている犬が映っていた。
「……」
食事までは想定内だったのだなVRも。と航は思った。
「で、お父さんとお母さんはいつ迎えに来るの?」
シーハーと爪楊枝を使うような風情で、腹を満たしたふたりが訊いてくる。
不意を突かれて航はきょとんとしてしまった。
「お兄ちゃん、仕事で大変そうだったからさー、あそこに預けられたのもなんかわかるんだけどさー。至れり尽くせりだからさ、あそこ。まあ、オレらペットホテルとかも泊まったことあるし」
ちょっと自慢気に言う自称・リクにムカつく。
「いつまで経ってもお父さんとお母さん迎えにこないしさー。もしかしてお兄ちゃん、あっちにオレら預けたことお父さんとお母さんに言うの忘れてんのかなーと思ってさ」
「だったらやっぱりお兄ちゃんとこいた方がお父さんとお母さんも安心するんじゃないかって」
「戻って来たのよ」
航は絶句した。
香典泥棒まで働こうという空き巣ごときが、両親の死を無かったことにして蒸し返して、さらにまた何を盗み取ろうというのか。
航の気持ちはぶつりと切れた。
「お前らいい加減にしろよ!」
航は手前にいた自称・リクの胸倉をつかみ、怒鳴った。
「ひとんちに勝手に上がり込んだ挙句、あの時飼っていただいてた犬だなんだとクソみてーなウソこきやがって、飯まで食って!挙句に!お父さんとお母さんが迎えに来ないだと!?」
航は自称・リクを突き飛ばして叫んだ。
「親の死まで人をからかうネタにして、なんか楽しいんか!?ええ!?」
ふたりの男は寄り添って、酷く怯えた目で航を見た。
「なんだよその目は。さんざん人からかって、楽しかったか?ええ?デカい図体の男ふたりでからかえば、金なんて楽に巻き上げられると思ったか?ああ?」
航は怯えるふたりに詰め寄った。
「ついでに親の死ネタに泣かせてみようとでも思ったか?楽しかった思い出とか語って、親不孝だった思い出とか語って、後悔させて泣かせてみようとでも思ったか?ええ?」
航の目から涙が流れだした。
「これで満足か。泣いてっぞほら。泣いてやったぞほら。親の死に目にも会えねえ、それどころか何年も会ってなかったこと後悔してるひとり息子の涙だぞほら。おもしろいか、ほら。見ろよ。見ろよ!」
航は泣きながらふたりに詰め寄った。ごうごうと涙を流しながら、身体を寄せ合い小さくなってるふたりに詰め寄った。
ピンポーンとチャイムが鳴った。
「天道さーん!美馬でーす!いらっしゃいますかー?」
ピンポーンともう一度チャイムが鳴った。
2頭の犬を探しに来た美馬が一応航の自宅に寄ったのだろう。
先ほどの電話で航も探しに出ると言っていたので、いきなり自宅に来るよりは一度電話で確認した方がすれ違いが無くてよさそうなものだが、そこらへんがさすが天然の美馬なのであろう。
そして今、航にとっては美馬の来訪は都合が良かった。
自称・犬のふたりの姿を美馬に見てもらえれば一目瞭然なのだ。
「ヘタクソな化けの皮剥いでやる」
航は震えるふたりに言い捨てると、玄関の扉を開けた。
「突然ごめんなさい!ちょうど近くの駐車場に……、あ」
美馬は航の肩越しを見て息を呑んだ。
「リクくん!カイくん!」
蹴とばすように靴を脱いで上がり込むと、美馬はふたりに抱きついた。
「よかったー!!無事だったんだ!やっぱりお父さんのとこ戻って来てたんだー!」