犬が兄弟になりまして・5
朝、玄関を開けたら昨日のふたり連れが座り込んでいて、それを近所の女性が家に入れてやれと言った。
「なんでですか!?迷惑してるの俺なんですけど!?」
「知ってますって。いつもは家の中に入れてあるでしょ」
「な!?」
「なに、オイタでもしたんですか?しょうがないじゃないですか、こんなに大きい子たちなんだから。少々のことは我慢しなさいよ」
「はあ!?」
「あたしは平気だけど、大きいと怖がる人もいるんだから、ね、ほら、入れてやって」
「ええっ!?」
女性は航を押しのけると、ふたりの肩をぽんぽんと叩いて中へ促した。
ふたりは満面の笑顔を女性に向けるといそいそと航の部屋へ入る。
「はい。休みの朝早くからごめんなさいね。はいはい」
言いながら女性は航も部屋に押し込むとドアを閉めた。
何故、と航は思った。
こわごわ振り返ると、ふわふわのファーの付いたキャメル色の長めのジレを着た男はソファーに、黒い革ジャン風の男はその下に座って航を見ていた。
航はひらめいた。
「もしかして俺の前に住んでた人と間違えてます?」
そうだ、そうに違いない。自分がここに引っ越して来たのが3年前だ。あの女性は自分より前からここに住んでいた。だからあのふたりが前の住人の友達でしょっちゅう出入りしていたのを見ていたのかもしれない。もしかしたら焼鳥屋も前の住人が常連で大将が覚えていたのかも。
『3年前の?住人を?3年前の?常連を?』
そうなん?と心の中の自分が問いかけるのを無視して、航はふたりに話しかける。
「俺、ここに引っ越してきてまだ3年しか経ってないんでお間違えになるのも無理からぬことだと思うんですけど、たぶんおふたりがお探しなのは俺じゃあないんでその」
両手でドアに促すが、ふたりが腰を上げる気配は全然ない。ただひたすらににこにこしている。
怖い。と航は思った。
無邪気な笑顔だが、そのまあまあデカいガタイで飛び掛かられたらあっという間に簀巻きにされて海へ放り込まれるだろう。女性という目撃者はいるが、このふたりが警察に捕まった頃には自分はもう海の藻屑である。
『警察を……』
呼ぶしかないとスマホを出そうとしたがまだ寝巻のままだった。スマホはベッドの脇にある。そしてベッドはソファーの横にある。ソファーにはふたりがいる。
航はごくりと唾を呑んだ。
いやまだ大丈夫だそんなにすぐには殺されるわけはない。まずは有り金出せと言われるはずだ。抵抗してからクレジットカードだの暗証番号だの吐かされる段取りのはずだ。警察を呼ぼうとしていると知られたらスマホを取り上げられるから、……デリバリーだ。聞かれたらなんか食べます?とか言ってピザを注文するフリでもすりゃいいんだ。
航はすう~っと息を吐きだし、何気なくベッドに近づこうとした。失礼失礼と言いながら狭いソファーとテーブルの間を、黒の革ジャン風の男を跨ぎながら。
そしてスマホをゲットする。
ヨシっとガッツポーズしたいのをこらえ、電話をかけるためにキッチンへ行こうと振り返る。
振り返るときクローゼットの横の姿見に見慣れないものが映った。
え?と航は思ったが、一歩を踏み出せば鏡は視界から外れる。
妙な違和感があった。
そのときスマホが鳴った。驚いて落としそうになりながら、航は着信を見た。保護施設からだった。
早く警察に電話しなければと思いつつ降って湧いた違和感にちょっと冷静になり、電話に出た。
「もしもし!天道さんですか!?施設の美馬です!」
例の天然美女のとても慌てた声がした。天然なので航が名乗る前に本題に入った。
「ごめんなさい!リクくんとカイくんがいなくなったんです!そちらに来ていませんか!?」
「はあ!?」
思わず大きな声が出た。脱走だけは絶対ないと思っていた。自分のマンションから逃げたこともなかったし(棒は追いかけたけど)、名の知れた保護施設で脱走が起こるなどと夢にも思わなかった。
「いつ逃げたんですか?」
美馬は一瞬黙ると、消え入りそうな声で言った。
「……ごめんなさい……。1週間前なんです……」
「はあ!?」
さっきよりも大きな声が出た。
「なんで早く教えてくれなかったんですか!?」
「手放された天道さんに責任はありませんし、これはあくまでこちらの落ち度なので……」
それはそうなんだけどとモヤモヤした気持ちに苛まれつつ、ではなぜ今連絡してきたのかと航は思う。
「それに目立つ子たちなのですぐ見つかると思ったんです。実際目撃証言も多くて……。ただ不思議なのがどこに行っても2頭一緒に目撃されてるんです。ずっと一緒に行動してるみたいで……。だから、余計目立つからすぐに見つかると思ったんですが、全然捕まらなくて……。目撃されたところに行っても、もういなくなってるんです……」
たしかにゴールデンレトリバーとラブラドールレトリバーならわりと知られた犬種だし、あんな大きいのが2頭で歩いていたら目立つだろう。しかも人懐っこくて食いしん坊だ。
「もう誰かが保護しているとか?」
食べ物に釣られて知らない人の家にすぐ上がり込みそうなタイプだったと航は思い出す。
「それが毎日どこかから目撃情報が入るんです。しかもずっと移動してて……」
まさか実家を目指しているのか?と航が思っていると。
「天道さんのお住いの近くから情報が入ったんです!」
「えー!?」
朝早くから起こされ、今日はえー!だのはあ!?だの叫んでばかりだと航は思った。
だがなるほどそれでと納得した。着替えてさっさと探しに行かねばなるまい。先ほどの緊張感などさっぱり忘れて黒髪の男をひょいと跨ぎ、クローゼットに向かう。
「わかりました。僕も近所を探しますんで」
「すみません!ありがとうございます!助かります!」
米つきバッタのように頭を下げている美馬が想像できた。航は適当に服を引っ張り出し、寝巻を脱ぎながら通話を続けた。
「なんかあったら電話します。この番号でいいですか?」
スマホを肩に挟んでズボンを履こうとしたとき、鏡に映った何かが目に入った。
「これお店の番号なんで私の携帯の番号教えます!いいですか!?」
航の肩からスマホが落ちた。ベッドの上だったので事なきを得た。
ズボンに通そうとした足はゆっくりと下ろされ、ズボンは手から離れて落ちた。
「書くもの用意しました!?天道さん!言いいますよ!いいですか!?」
美馬が携帯番号を教えてくれるという、降って湧いた大チャンスが落ちたスマホから聞こえてくる。
だが航は鏡から目が離せなかった。
角度的にそこにはソファーが映る。
今ならそこに座るふたりの男が映るはずだ。
だが今鏡に映っているのはソファーに鎮座する大きなゴールデンレトリバーと、その下の黒いラブラドールレトリバーだった。
何が起こっているんだ!?と航は思った。
誰だ!?と思った。
なんなんだ!?と航は思った。
何がなんだかわからない。今、目に映っているものが本物なのかどっきりなのかもわからない。どうしてこんなことになっているのかもわからない。
混乱した航は全部まとめて叫んだ。
「なっ!だなっ!?」
ふたりは航を見てにっこり笑うと言った。
「遠かった」
「お腹空いた」
「もしもし天道さん!メモされましたか!?じゃあ私たちもすぐそちらへ向かいますので!」
美馬からの電話が切れた。
航は美馬の電話番号をゲットし損ねた。