第38話 始まりのベンチで
あのベンチには幸い、座っている人はいなかった。
開園して間もない時間なので、ご飯時でもないし、皆アトラクションの列に並んだりと精力的に動いている時間帯だからだ。疲れ切って荷物番として座っているお父さんの姿もまだ無い。
俺と白兎さんは、あのベンチに。
あの日、白兎さんが雨でびしょ濡れになりながら座っていたベンチに腰掛けた。
「同じベンチですけど、こうも景色が変わる物なんですね」
「あの日は雨だったからね」
白兎さんの呟きに、俺も当時のことを思い返す。
「あの日の私は、本当にヤケッパチな気分でした。だから、濡れるのも構わずこのベンチに座り続けていました」
「……やっぱり辛かったんだね」
あの頃の白兎さんは、クラス中から無視されていた。
彼女は平気そうに装っていたが、平気なはずがなく、彼女の心にはどんどんダメージが蓄積していたのだ。
「そうですね。父の死後に初めてラビットマウンテンに来たのも、そうやって心が荒んでいたのを父の想い出に慰めてもらえるんじゃないかと思ったからです。けど、当日お母さんは急な仕事で行けなくなって、10年の月日が経っていたから、私の記憶にあったラビットマウンテンとは様変わりしていたから、かえってより強く孤独を痛感することになっていました」
「そんな弱り切っている時に俺が声を掛けたと」
「あの日、本牧くんが私に付き合ってベンチに寝転んだり、レインポンチョをくれた時は嬉しかったです」
「いや、キャストならみんなそうしてたよ。あの時は、本当に偶々通りかかっただけで」
「それなら、神様に感謝しなきゃですね。あの時、偶々通りかかったキャストの人が本牧くんだったという幸運に」
白兎さんはニッコリと笑ってスッと、俺の座っている方に身体を寄せながら話を続ける。
「私は本牧くんに興味が湧きました。だから、借りたままだったキャップを返すのも、教室の机の中にコッソリ入れるとか、やり方はいくらでもあったのに、手紙でわざわざ呼び出して直接手渡すことにしました。そして、呼び出しの手紙を書くにあたって、何かないかと机の引き出しを探っていたら、父の形見のレターセットを見つけました」
「なんで、そのレターセットを使ったの? いつか大事な人へ伝えたいことがある時に使いなさいっていうのが、お父さんとの約束だったんでしょ?」
「父の形見のレターセットを使ったのは、本当に衝動的な物でした。多分、この頃の私はまだヤケッパチな気分が抜けていなかったんだと思います。こんな周りに嫌われている自分に、大事な人なんて出来る訳ないって……」
「…………」
先程、白兎さんが身を寄せたので手の指先が触れ合っていた。
俺は、無言のかわりに彼女の手を握った。
すると、彼女もそれに応えるように俺の手を握り返してくれる。
言葉を発しなくても、2人の間ではちゃんと伝わっていた。
「でも、おかげでこうして本牧君と出会えました。私がこのレターセットを使ったのは、きっと天国にいる父が私の背中を押してくれたんだと思います」
「ハハッ、お義父さん公認なのか。じゃあ、ちゃんと墓前に挨拶に行かなきゃだね」
「あっ、すいません……折角の夢の国なのに、こんなしんみりさせちゃうような話をして」
「ううん。話してくれて嬉しかった。ありがとう白兎さん」
白兎さんが俺の方を見ると同時に、俺は彼女の細い体を抱きしめた。
「え⁉」
屋上の階段では未遂に終わったが、ようやく白兎さんをこの腕の中に抱きしめることができた。
「白兎さんは頑張り屋さんだからね。我慢もいっぱいしてきたんだと思う。だからこそ、俺の腕の中では本当の白兎紫野のままでいて欲しい」
俺の腕の中で最初は困惑していた彼女の顔が、俺の言葉でクシャリと歪み、留め置けない涙が目から一瞬であふれ出す。
「私……ダメなんです。本牧くんと話すようになって、かえって寂しさに耐える時間が増えたんです……クラスの皆から無視されていた頃よりも、何倍もつらかった……」
「寂しいと死んじゃうウサギさんになっちゃったんだ」
「……篠田先輩から、本牧くんはダンスで忙しい人だし、ラビフェスのお兄さんの仕事で色恋のスキャンダルは御法度だって聞きました……だから、最初はこの想いは胸にしまっておこうと思っていました。けど……けど……」
白兎さんは泣いてしゃっくり上げながら、言葉を一度切る。
「どうしようもなく好きが溢れてしまいました……だから、文化祭のダンスの後に本牧くんに好きって言っちゃって……」
涙ながらに必死にしがみつくようにして、白兎さんが俺を見上げる。
「ご迷惑なのは解っています! それでも私は……」
本当は段取りがあった。
好きな子にラビットマウンテンで告白するんだから。
これは、ラビフェスのダンスのお兄さんになる事と合わせて、俺の子供の頃からの夢だったし。
長年、頭の中で練っていた俺のラビットマウンテンデートコースは完璧だった。
最後は中央広場のお城の前で、夜の花火を背景にして告白するのだ。
けど、そんな事は、白兎さんの泣き顔を見たら、もうどうでもよくなってしまった。
泣いていた白兎さんの頬に手を優しく添えて、そっと口づけをした。
「んむ⁉」
白兎さんが驚いたような声をあげるが、俺も目をつぶっているので白兎さんがどんな表情をしているのか解らない。
けど、口づけ中に俺の背中に腕を回して、より自身の身体を密着させたことから、察せられた。
一体、どれだけ口づけをしていたのか解らないほど、俺と白兎さんは唇を重ねあった。




