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第34話 ヒューズが切れた人間

「沼間……」


 いきなり屋上に出てきた者の顔を認識して、俺はすぐさまレジャーシートから立ち上がり、白兎さんの手を引いて背後に庇った。


 隣では、同じく清武君が不安そうな顔をした喜多さんを背中に庇っている。


「何をしに来た沼間! お前は生徒指導室で缶詰めにされてるはずだろ。そして、俺と喜多さんとは接触禁止が言い渡されている。即刻ここから出ていけ!」



 清武君が、少々興奮した様に顔を紅潮させながら、沼間に強く言葉をぶつける。


 ついこの前までの沼間であれば、クラスの1軍リーダーの自分にそんな敵対的な態度と言動をした清武君に、即時に殴りかかっていただろう。


 だが、今の沼間はどうか。


 無感情というか、どこか心ここにあらずという感じで、清武君の拒絶の言葉が耳には入っていても、内容の理解や言動から相手の考えている事を読み取るという事がまるで出来ていないような様子だ。


 まるで、精神的なショックを受けすぎて、ヒューズを飛ばしたような無気力さとでも言えばいいのか。


「おい、聞いているのか? すぐに立ち去れ!」


 そんな沼間の異様な様子を清武君も感じ取ったのか、戸惑った様子を見せつつも、再度沼間に立ち去るように勧告する。


 まるで敵意や暴力性は感じないが、それでも沼間はこちらの方にフラフラと近づいて来る。


 ここで、また昨日の暴力事件の再現はまずい。


 清武君の鼻だって、まだまるで骨はくっついちゃいないのだ。

 また負傷でもしたらマズいし、ケンカになれば顔面が大きすぎるウィークポイントになる。


 ここは俺が行くしかない。


 俺は、コソッと背後にいる白兎さんに一声かけると、前に歩み出て、沼間に相対する。


「よう、沼間君。どうした? いつも太陽みたいに明るい君が、まるで土砂降りの雨に降られたみたいじゃないか」


 俺は、まずは様子見の言葉をかける。


 事実、目の前の沼間は、もうすぐ秋の気配がする季節にも関わらず、玉のような汗を額にかき、制服のシャツも汗のためか張り付いて少し透けていたのだ。


「ああ……本牧か。いや、何。紫野に用があって来たんだ」


「ヒッ……」


 沼間の言葉を聞いて、背後から短く白兎さんの悲鳴が上がる。


 さっき、俺が白兎さんの下の名前呼びをしない云々の話をしていたのに、言われたくもない相手に下の名前で呼ばれた生理的嫌悪の感情が噴き出たのだろう。


 トトトッと俺の方に駆け寄ると、俺の背中にしがみついて顔を埋める。


「おい……何だよそれ……何でお前なんかと紫野が……」


 沼間は、白兎さんの様子を見て、無気力顔から驚愕顔に変わる。

 だが、普段とは比べ物にならないくらい覇気がない沼間は、別に俺に殴りかかるでもなくヨロヨロと後ずさる。


「白兎さんは君に用はないようだよ」


 こいつは、白兎さんに好意を抱いていて、告白したのに白兎さんに振られたから、クラスに白兎さんを無視するよう働きかけた。


 逆恨みも甚だしいが、それなら沼間にとって白兎さんは憎むべき対象のはずだ。


 なのに、何故、この様を見て沼間が強いショックを受けているのだろうか。


「なんで……俺が……好きって言って……」


「……? だって、君は白兎さんを無視するようにクラスに命を下したんだろ? そんなの、彼女は君を嫌って当然じゃないか」


 本当に何を言ってるんだ?


 好きな女の子にイタズラしちゃうなんてのは、小学生低学年のガキが行う行為だし、そういう男子は大概の場合、意中の女子からは嫌われる。


 そもそもクラス中に無視をさせるなんて、イタズラの度をはるかに超えている。


「だって、竜司が……こういうのは一度離れてみた方がいいって……クラス内での権勢を誇示して力を示せば、彼女も反省して戻ってくるって……」


 背後で白兎さんがビクビクと身体を震わせ、俺の背中を掴む指に力が込められる。

 沼間の話を聞いていておぞを感じて、耐え切れないのだろう。


 まるで、親が、先生がそう言ったんだもん! というガキのような調子の沼間の物言いに、俺もちょっと気持ちが悪くなった。


 これが、今まで恐れてビクビク顔色を伺っていた男の真実の姿なのか?

 ここで、俺は事前に用意していた言葉を返す。


「それは滝本君に担がれたね。結果がこうなっている以上、大失敗でしょ」


 背中に庇っている白兎さんの震える手を、沼間に見せつけるように握る。


「わ……私は!」


 俺に手を握られた安心感からなのか、背後にいる白兎さんが勇気を振り絞る。


「嫌いです! 力をただ無闇に振るう人の強さなんて……私が欲しかたったのは、本牧くんみたいな、真っすぐな強さです! だから彼に惹かれたんです! これ以上、私の邪魔をしないでください!」


 俺の背中越しだけれど、はっきりと、自分の意志を白兎さんが、自分の言葉で沼間に叩きつける。


 それが、何より沼間には効いたようだ。


「あ……あ……」


 元々、この屋上に辿り着いた時点で、沼間は精神のヒューズを飛ばしてしまった状態だった。


 そもそもヒューズとは、電子回路に異常な過負荷が掛かった時に、自身が焼き切れることで主要回路を守るためにある安全装置だ。


 しかし、人の精神は……脳は機械とは違う。


 完全に機能を停止するわけにはいかないので、働きが平常時より著しく鈍くなっているとは言え、必ず動いている回路がある。


 その生きている僅かな回路に、更なる精神的苦痛が注ぎ込まれる。


 故に、人の精神というのは壊れる。

 機械とは違って大事な主要部分まで。


 自身の心のヒューズが焼き切れても、メンテナンスをしてくれる人も、回路を設計し直してくれる人もいないのだから。


「おい……」


 俺が思わず沼間をおもんばかるような声を掛けたのは、クルリと踵を返してフラフラと屋上出口に向かう背中が、酷く憔悴しきっていたからだった。


 しかし、俺の声が聞こえていないのか、沼間は何の反応も示さない。


 沼間の背中はぐっしょりと汗で濡れていて、制服のシャツを透けさせていた。


 沼間が、シャツのインナーとして着用していたのは、文化祭のクラスTシャツだった。


 彼が、デザインした自分の名前、一陽にちなんだ太陽のイラストだけが、この場の本人の気分に激しくそぐわない快晴を示しているのを見ると、俺は哀れさすら感じてしまっていた。


そんな事を思いながら後姿を見送っていると、沼間が向かう屋上の出口の扉が開く。



「ここにいたのか」



 入って来たのは滝本君だった。


 1軍リーダーの補佐をしていた男の目は、まるで害虫を見るように冷たく、鈍い鋭さを持っていた。


 その滝本君の沼間への蔑みの視線を見ただけで、今朝、クラスで何が起こったのか察することが出来た。


 おそらく沼間にとっては、たった一夜でまるで足元から世界が崩壊してしまったかのような衝撃の大きさであり、その傷がまるで癒えぬままに、この屋上に来てしまったのだろう。


「りゅう……じ……」


 すでに壊れかけていた沼間の精神だが、ここに来て、奇跡的に正常に近い状態にまで急回復した。


 こちらからは後姿しか見えていないが、先ほどまではガックリと肩を落として丸まっていた背骨に、再び芯が刺さったように起き上がる。


 芯となったのは、怒りの感情。


 全ては、こいつのせいだ! という激流のような感情が、沼間の背中に怒りの炎を纏わせ、身体を動かす原動力となる。



「うがぁぁぁぁああああ‼」


 思考の状態は最悪の状態なままなので、もはや人語なのかも怪しい雄たけびを上げながら、沼間が滝本君に突っ込んでいく。


「まずい!」


 俺の脳裏に、先日の清武君が沼間に胸倉を掴まれ頭突きを喰らう映像がフラッシュバックする。


 が、正面から沼間を見据えていた滝本君は落ち着いていた。


 突進しながら掴みかかろうと伸ばす沼間の手を払う。

 が、沼間の手は滝本君の顔の横を掠め、滝本君のメタルフレームのメガネを弾き飛ばす。


 まずい、視界を奪われたら不利……


 と俺が冷や汗をかいた一瞬、滝本君が沼間の腕を掴み、突進の勢いを利用して、綺麗に一本背負いを決める。


「が……は……」


 柔らかい畳の上ではなく、屋上の床面に背中を叩きつけられた沼間は、呼吸が出来ず苦悶の声を上げて喘ぐ。


「一発もらってからと思ったけど、不要だったかな」


 そう言って、滝本君が転がっている沼間に一瞥をくれて、悠々とレンズにヒビが入ったメガネを拾い上げると、間もなく屋上の入口からドヤドヤと担任の久木と生徒指導の先生たちが屋上に入って来た。


「なにしてる沼間ぁ!」


 引っ立てられた沼間が嗚咽を漏らしながら、両脇を男性教諭にガッチリ抱えられて連行されていくのを、俺たちは黙って見送った。


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