第3話 ずぶ濡れの白兎さん
「あ~、雨強くなってきちゃいましたね」
キャスト控室のドアを少しだけ開いて、突き出した手の濡れ具合を確認しつつ、俺は控室にいる有希お姉さんに振り返りながら報告した。
なお、キャスト控室は何の変哲もない生垣の間に人一人がギリギリ通れる隙間を通ると辿り着く、まるでロールプレイングゲームの隠し部屋のような場所にある。
夢の世界であるラビットマウンテンでは、決してこういう生活感にあふれた物をお客様にお見せする訳にはいかないのだ。
「この強さの雨だと、屋外公演の方は中止だね。せっかくの日曜日なのにね……」
有希お姉さんもションボリしている。
屋外公演は、予約チケット競争にあぶれたお客様たちへの救済策でもあるので、ラピッドやバニィちゃんと一緒に踊るのを楽しみにしていた子供たちの事を思うと胸が痛い。
そうこうしている内に、お昼の屋外公演は中止であることがマネジャー職の社員さんから通達された。
ただ、午後は小雨になる予報なので、午後の公演に向けて、演者や裏方スタッフたちは待機するようにとのことだった。
「そうすると14時くらいまではヒマになっちゃいましたね」
「陽くんはどうするの?」
「うーん、折角なので園内を巡ってきます」
「雨なのにホント好きだね~」
笑っている有希お姉さんに見送られながら、俺はキャップを被ってキャスト用のレインポンチョを羽織ると、園内に繰り出した。
あいにくの雨だけど、日曜日という事もあり、ラビットマウンテンにはそこそこの数の来園者が遊びに来ている。
「あ、陽君。雨の中お散歩?」
「お疲れ様です。ポップコーンの列、今日は短いですね」
「陽君がこの時間に園内にいるってことは、屋外の公演は中止なんだ」
「天候の回復を見て、午後はやるかもです」
「陽君、アイス食ってかない? 今日はこの雨じゃ売れそうにないや」
「いただきま~す」
休憩時間とは言え勤務時間中にキャストがアトラクションに乗るのは駄目なので、俺はプラプラと園内を散策しつつ、トイレを探しているお客様を案内するなどしていた。
知り合いのキャストの人たちに声をかけつつ園内を散策するだけで、ラビットマウンテンの世界に浸れる。
無料どころか、お給金を貰いつつ大好きなラビットマウンテンを堪能できるなんて、本当にこの仕事は最高だ。
さて、今はお昼ごはんの時間か。
そうすると、多少グッズストアが空いているはずだから、新作のグッズの品定めに行こうかな。
「ん? あれは……」
そんな事を考えながら園のメインストリートに向かっていると、ふと気になるものが俺の視界に入った。
ベンチに座っている人がいたのだ。
今は雨が降っていて、特に屋根もない位置にあるベンチを使う人はまずいない。
それなのに、雨具も着用せずに屋外のベンチに座っている女性がいたのだ。
「あれって……白兎さんだよな」
雨に濡れるのも構わずベンチに座っている女性は、私服姿だがその特徴的な薄紫色の髪色からすぐに、クラスで集団無視をされている白兎さんだと俺は気付いた。
この時、俺はわずかに彼女に声を掛けるのを逡巡して、他のキャストが周囲にいないかキョロキョロと視線を巡らせた。
だが、特にアトラクションが近くにある辺りではないため、他のキャストはいなかった。
(って、俺はなにをためらってるんだ? ここは学校なんかじゃない。ここは夢の世界のラビットマウンテンで、俺はそのキャストだろ)
俺は、相手が白兎さんだからと僅かでも声掛けに尻込みしたことを恥じ入った。
困っているお客様へ、キャストから積極的に声掛けをするなんて基本中の基本だっていうのに。
今はキャップにレインポンチョのフードを被っているし、これならバレないだろうと、俺は意を決して白兎さんへ近づいた。
「お客様。どうされましたか?」
意識的に営業用の声のトーンにして、俺はずぶ濡れで佇んでいる白兎さんへ声を掛けた。
髪までずぶ濡れになって俯いていた白兎さんが、ビクッと肩を震わせて俺の方を見上げる。
「あ……別に……ただ雨に打たれたい気分なだけですから」
急にキャストに声を掛けられたのに一瞬驚いた白兎さんだったが、目を逸らしながら放っておいてくれと言わんばかりの返答をしてきた。
だが、近づいて気付いたのだが、彼女の足元には壊れた折り畳み傘が転がっていた。
園内はスポットによっては風が強く吹く所もあるので、おそらく突発的な強風に煽られて、強度の低い折り畳み傘では耐えられなかったのだろう。
「じゃあ、私も隣でご一緒させていただきますね」
「え?」
白兎さんの同意は求めずに、俺は隣のベンチに寝転がった。
「うん。空を見上げながら雨を見るのって初体験です」
雨具のことを指摘することは簡単だけれど、それは白兎さんの雨に打たれたい気分だという気持ちを無視してしまうものだ。
まずは、ゲストの気持ちに寄り添うことが大切なんだと、俺はキャストの仕事を始める際の研修で学んだことを想い出していた。
「あ、あの……」
「けど帽子があると空がよく見えませんね。あ、これ良ければ使ってください」
「ど、どうも」
キャストの予想外の行動に面食らったのか、白兎さんは大人しく俺が脱いだ帽子を被ってくれた。
どうやら、こちらのペースに引き込めたようだ。
「お客様も寝そべってみます?」
「い、いえ! 私は結構です」
白兎さんが顔を赤らめて拒否するが、俺は追撃の手を緩めない。
「何事も経験してみるものですよ」
「も、もう充分、雨に打たれたので大丈夫です!」
よし、上手く白兎さんから、雨に打たれたいタイムは終了の言質が取れたぞ。
そして、お天道様も空気を読んでくれたのか、雨が小降りになってくれた。
「そうですか。それではお客様、ちょっとだけお待ちください。すぐに戻りますから」
「は、はぁ……」
困惑しっぱなしの白兎さんにそう言い残すと、俺はサササッと最寄りのグッズショップへと向かった。
簡易な既製品のカッパとラビットマウンテン公式のキャラロゴがデザインされたレインポンチョとどちらにしようか、主にお値段面で迷ったが、やっぱり夢の世界では可愛い物を身につけた方がワクワクするだろうと、公式のレインポンチョを選んだ。
「あら、陽くん。スタッフのポンチョ着てるのに雨衣買うの?」
「う、うん。ちょっとね。あ、すぐ使うから値札は外してください」
「はいはい」
馴染みのショップ店員のおばちゃんとの会話もそこそこに、俺は白兎さんの元へ急いだ。
ひょっとしたら、謎テンションで絡んでくるキャストを薄気味わるがって、俺が場を離れた隙に白兎さんが場所を移動してしまっているかもしれないなと思いつつ、ベンチへ向かうと白兎さんはまだ大人しく俺の戻りを待ってくれていた。
「お待たせしました。こちらどうぞ」
急ぎ歩きで少し息を上げながら、俺はレインポンチョを差し出した。
「え、これって……」
「傘、壊れてしまっていますよね? ラビットマウンテンって海に近いので風が強いんですよね。次回ご来場でまたしても雨だった時には、こういうポンチョがお薦めですよ」
「あの、これお幾ら……」
「あ、これはキャストにあらかじめ配分されている分の残りなのでお代は結構です」
ポンチョの代金を気にする白兎さんの声にあえて被せて、お代は要らない旨を断言調で伝える。
無論、キャストに割り当てられた云々はウソだ。
キャスト割引で購入したが、それでもこのレインポンチョはそこそこのお値段がするので、ダンスのお兄さんとしてのバイト収入がある俺でも、少々痛い出費だった。
このウソは正直に言って、白兎さんを集団シカトするイジメに加担してしまっている罪悪感からだった。
所詮は俺のただの自己満足で贖罪にもなっていない。
けれど、せめてこの夢の世界にいる今の間だけでも、彼女に辛い現実を忘れさせてあげたかった。
「ありがとうございます」
俺の圧に押されてか、怪訝そうにしながらも白兎さんはポンチョを受け取ってくれた。
「ほら、ちゃんと今着てください。濡れた衣服で風を受けると、体温がグングン下がっちゃいますから」
この公式レインポンチョは保温性能も高いので、濡れてしまった後での着用でも、かなり身体への負担を減らせる。
ラピッドくん期間限定ぬいぐるみLサイズとほぼ同額のお値段をしているだけの事はあるのだ。
「は、はい。ちゃんと着ました。それで……あ、あれ?」
これでキャストとしての役目は十二分に果たした。
これ以上、会話をしていると俺の正体がバレかねないので、白兎さんがレインポンチョを被るのを見届けると、俺は迅速にその場を後にした。
「あれ? あれ?」
キョロキョロと周りを見回す白兎さんを建物の物陰からコッソリ眺める。
「それでは夢の世界で良い1日を」
俺は、何だか困難なミッションをこなして、キャストとしてまた一皮むけたなと自画自賛しつつ、ご機嫌でキャスト控室へ向かった。
「あの……帽子……」
その後、白兎さんが帽子を持ってしばらくその場で考え込んでいた事を、この時、自己満足に浸っていた俺は、当然知る由も無かった。