8 師匠
ションと耳を寝かせた灰色さんが、師匠に会いに行く私達を見送りに来た。
「本当に俺は付いて行かなくていいのか?」
「大丈夫。若君がいるし、守谷さんもいる」
灰色さんは嫌がる私を押さえ込んだ事を気にしているようで、耳は寝たままだし、尻尾も心持ち下がっている。
「それより、火傷は平気?」
「あんなのはかすり傷だ」
耳を寝かせたままの灰色さんを見て、守谷さんが取りなすように笑って言う。
「灰色さん。こう見えて僕も兵部の一員ですよ。それなりに刀が使えると自負してます。嵐龍様も若くはありますが、相当の腕を持ってます。楓ちゃんはシッカリ守ります」
若君も軽く頷く。
「コイツを守れというのは、帝の命でもある。杜若の宮を頼む。……濃紫は平気か?」
「書庫に籠って前例を探してますよ。まあ、主人は打たれ強い人だ。心配ない」
灰色さんがキューンと鼻を鳴らしそうで困る。
私は濃紫を虐めてるわけじゃない。
——許せないんだ。
そこのところは分かって欲しいもんだな。
「月翠庵は、そこまで離れてない。夕方には戻れるはずだ。留守を頼む」
「おまかせ下さい」
私を前に乗せた若君の馬と守谷さんの馬が連れ立って歩き出すのを、灰色さんが一人ポツンと見送ってくれた。私たちは師匠の待つ月翠庵へと向かう。
月翠庵というのは、師匠が筆頭魔法使いを引退したあとの住処だ。師匠は趣味と実益を兼ねて、魔力の流れる子供の為に私塾を経営している。宮のある黒藤京から少し離れた山の中腹だ。京から離してあるのには理由がある。
魔力コントロールが苦手な子供は、物を破壊するからねー。私だって、どれだけの家屋、岩、木々を被害に合わせたことか。
でも、そうして少しづつ自分の力を知り、うまく調整できるようになっていくんだ。
私は童の衣装に薄ごろもを被せられてる。身分の高い子供に見えるんだろうな。連れてるのが若君だし。侍従の守谷さんもいるしね。
「お前、宮の外に出るのは久しぶりだろ」
「はい。ずいぶん、緑が濃くなりましたね」
「そうだな。もう五月だ」
そうか。
五月か——もう、風薫る季節なんだな。
私が天水玉に触れて寝込んだのは、まだ霜が降りるような季節だった。
早いものだなぁ。
月緑庵につくと、年かさの塾生が案内してくれた。通いの子もいるし、親元を離れて、ここに住んでる子もいるという。この子は親元を離れているのかもしれないな。年の頃なら若君と同じくらいか。少し痩せ型の少年は、緊張した表情をしてる。
「馬はそこの木につないで下さい。水と飼葉を用意します」
「ああ、頼む」
彼の緊張がほぐれると良いなと、私はできるだけ子供らしく笑ってみせる。
「師匠……月光宗元様は元気ですか?」
「はい。あ、あの。あなたが、楓さんですか?」
「そーですよ」
「握手して下さい」
——はい?
請われるままに握手したら、少年は嬉しそうに笑った。
「楓さんは師匠の話によく出て来ます。朧貝の化け物を焼いて食べたとか、海馬を捕まえて飼っていたとか」
「はははは。懐かしいなぁ」
「僕も精進して、良い魔法使いになりたいです」
「頑張って下さい」
彼の肩から力が抜けて、緊張がほぐれたようで良かった。
「お師匠様。お客様をお連れしました」
連れて来られた離れには、座布団の上に座って日向ぼっこしてるお師匠様がいた。ああ、久しぶりに師匠とお会いできた。
「師匠ー!!」
「楓。よく来たね」
走って行って飛びつくと、師匠の匂いがした。
お日様を集めたような香ばしい香り。
ああ、師匠ってば変わらないなぁ。
出会った時から師匠は小さい。
シワシワで、白髪で、目なんかシワに埋まってよく見えない。
年齢もよく知らない。
私が物心ついてから、師匠はずーと老人だ。
「若君もお付きの人もよくいらした。お座りなさい。君、お茶を頼めるかな」
案内の少年がにこやかに頷いて立ち去った。
不思議なんだよね。
師匠は老人で小さいのに、とてもよく通る声なんだ。
師匠に促され、若君と守谷さんが離れの縁台に座る。
「お忙しい所、時間をとって頂いてすみません」
「なに。可愛い養い子の為だ」
私に灰色さんみたいな尻尾があったら、ブンブンと振ってるんだろうな。
「……それに」
師匠が隣に座った私を見て、糸のような目の目尻を下げた。
「時間はかからんよ。探査魔法なんぞ必要ないねぇ。楓は神気を纏った。天水玉の呪いは神気に縛られ、弱くなっとる。まあ、まだ、楓の身から外せはしないがね。暴走なんぞしないだろう」
若君が呆然と師匠を見つめる。
「……分かるんですか?」
「楓の変化は一目で分かるくらい激しい。帝や若君に比べれば、微々たる神気じゃがのう。濃紫に分からんという事の方が分からんな」
師匠がコクっと首を傾げた。
そこへ七歳くらいの可愛い女の子がお茶を運んで来てくれる。
「お茶、お持ちしました」
「すまないね。綾」
彼女は少し照れた様子で私たちにお茶を配ってくれた。
可愛い。
「綾ちゃんっていうの? 私は楓だよ」
「楓ちゃん? あー、知ってる。師匠に聞いたよ。一番の弟子だって、よく自慢してる!」
「ふふふふ。嬉しいなぁ」
「けど、楓ちゃんはさ——」
そこで綾ちゃんが慌てて両手で口を塞いだ。
しまったという顔で目を瞬かせる。
あー、これは。
「そう。私は魔法が使えなくなっちゃったんだ」
「……ごめんなさい。でも、その代わり、すっごく大きな呪いを、皆の為に封じてくれたんだって聞いたよ。だからね。えーと。ありがとう」
彼女は小さな頭をペコっと下げた。
こんな風に言われると、胸がジンっと熱くなっちゃうよ。
守谷さんが不思議そうに首を捻る。
「私は濃紫様が楓ちゃんの兄弟子と聞きましたが、楓ちゃんが一番弟子ですか?」
「そうじゃな。師事させろと言ったのは濃紫が先だ。だが、名を与え、魔法を教えたのは楓が先じゃよ。楓が譲ったから、あれが兄弟子なのさ」
私は師匠の隣で湯呑みを持った。
「いいんです。私は師匠の娘なんだし!」
「儂の一人きりの家族じゃな」
そう。
それだけで、私には十分だよ。
若君が意を決したように師匠に問う。
「月光様。コイツから天水玉を外してやる方法はありますか?」
師匠の細い目に小さく光が宿った気がする。
気がするだけだけど。
「天水玉の呪いは、決して小さくはありません。楓の魔力全てと身体が重ねた月日まで奪って、その身のうちで、やっと納まっておる。しかし、今回、黒龍神の加護を受けた楓を見て確信しました。他の神の加護を幾つか受けることができれば、あるいは——外せるやもしれぬと」
——え?
他の神の加護?
「ただのう、若君。神の加護は望んで受けられるモノではないですからな。今回は稀なことじゃった。それにのう」
師匠は私を見て、皺深い手を伸ばして頭を撫でる。
「神気は魔力を弾いてしまう。残念じゃが、お前はもう魔法使いには戻れんな」
「………やっぱり、そうですか」
そんな気はしてた。
でも、まあ、天水玉が嵌った時点で、納得はできなくとも一応の覚悟はしてたからな。若君の方がショックを受けたようで、あー、とか、それはっ、とか言ってる。
「それよりも、師匠。私は自分が死んだ後の方が心配です。天水玉の呪いが放たれるのは阻止しないと」
「そうじゃなぁ。それには、後、二神からは加護を受けんとならんな」
「封じ直しはできませんか?」
師匠は湯呑みを持って小さく頷く。
「濃紫が天水玉を楓の身に封じたのは、それ以外に手立てが無かったからじゃ。今までは天水玉の魔力を使って、呪いを封じ直しておった。が、のー。千年の時は短くはない。天水玉自体の魔力が少なくなっておる。楓の魔力で補って、身体を入れ物にしなければ封じれんかったのじゃ」
それは想像がついてた。
ついてはいたが、それなら説明して欲しかったと思う。
私は騙すような方法を取った、濃紫のやり方が許せないだけだ。
守谷さんが軽く眉を寄せる。
「濃紫先生も魔力量は多いと伺っていますが——」
師匠が細い目をシパシパと瞬いた。
「確かに多いのう。しかし、奴は火炎の魔法使いだ。天水玉の魔力とは相性が悪すぎるのじゃ。抑え込むには、ちっと力不足じゃった。まあ、逆に考えれば、呪いの効果も昔ほどではない。それでも、国を一つくらい災いに叩き込むめるじゃろうがな」
ふぅむ。
神の加護を、あと二つ……かぁ。