6 黒龍神の加護
胸元で守り鈴が鳴った。
——茶の催促か。
私は縫い物の手を止めて台所へ向かう。
灰色さんが来てくれてから、力仕事や掃除の仕事が格段に減った。私の仕事は細かい作業や若君の身の回りに限られてきている。今も守谷さんに頼まれた若君の夜着を修繕していた。
本来、若君の身分になれば衣類の修繕なんか必要ない。着物や袴も次々と新しい物へ替えて行けばいいだけだ。なのに修繕が必要なのは、ひとえに若君の趣味だ。
若君は馴染んだものを好まれるのです——という、守谷さんの言葉で、私がチクチクとお気に入りをなおしてるわけだ。
若君は湯のみも専用の物を使っている。青黒い塗りの少し大きめの湯のみで、十歳になった時に祝いで帝が送った物らしい。洗う時にも、茶を入れるのにも、壊さないように凄く気を使う。
「失礼します」
二人分のお茶を持って、書室を尋ねると若君が一人で暇そうにしていた。
「あれ? 濃紫は居ないんですか」
「帝に呼ばれてる」
「へぇ」
右足首を捻挫した若君は、守谷さんに動くなと厳命されている。神楽祭の時には、布でグルグルと固定されていた足も、今は湿布されてるだけだ。この状態で動き回られては、治るものも治らないものな。
「あそこの棚に碁石がある。茶を飲みながら、付き合ってけ」
私が二人分のお茶を持ってくるのを見越していたようだ。
「碁かぁ。いいですけど、私は滅茶苦茶に弱いですよ?」
「暇つぶしだから構わない」
立派な碁盤と碁石を運び、座布団で楽な姿勢になってる若君の前に置く。
「俺が握る」
「はいはい」
若君が白石を握って碁盤に手を乗せたから、私は黒石を一つ選ぶ。若君の握った白石は八個だった。
「先手だ」
「どうぞー」
白石が奇数なら私の先手だったわけだが、どっちでも勝てる気がしない。
「足の具合はどうなんです?」
「腫れはだいぶ引いたんだけどな。守屋が動かすなって煩い」
「大人しくしてた方がいいですね。捻り癖がついたら困りますから」
「けど、暇すぎる」
パチッ。パチッと交互に石を打ちながら、若君の愚痴を聞く。
「だいたい、守谷は少し慎重過ぎるんだよ。見ろ、あそこ。尿瓶まで置いてあるんだぞ? 厠くらい片足でも行けるっての」
「またぁ。何かで転びそうになって右足ついたら腫れが戻ります。尿瓶を使えとは言わないですけど、厠へ行くときは誰か呼んだ方がいいですよ」
「誰かって、守谷しかいないだろ」
「灰色さんなら抱っこで連れてってくれます」
若君が嫌そうに顔を顰める。
「お前くらいの子供ならまだしも、俺は来年で元服だが?」
「歳の問題じゃないですね。大きさです」
「俺はお前よりずっと大きいだろ」
「そりゃね。でも、灰色さんは若君の何倍も大きいでしょ? 獣人なんだし、力持ちですよ」
「煩いっての。お前、本当に考えて石を打ってるのか?」
「……考えてますよ」
だから、碁は苦手なんだってば。
私がパチッと石を打ったら、若君が呆れたように私の石を動かした。
「そこに打ったらお前の列が切れる。こっちに打って、次の、次の手を考えろ」
「あー! そういうの無し!」
「なんだよ、無しって」
「私だって考えてんです」
「考えてそれかよ」
石を戻すと、若君が呆れたように私の石の列を切った。
「で? 次は?」
「……神楽舞の時に現れた大きな男性は誰ですか?」
「黒龍神だ」
「…………え? ええ?」
「囲ったぞ。どうすんだ?」
「ああー。そっか。だから、若君に我が末って言ったのか」
私がパチッ石を打つと、若君が溜息をついた。
「お前な。そこに打ったら手が無くなるだろ。終局だ」
「え? あれ?」
「弱いとか、弱くないとかの問題じゃないぞ?」
「若君はどうして私の前に来たんですか?」
石を拾いながら、若君は言いたくなさそうに口を曲げる。
「……俺は三十六目」
「私は十二目です」
バラっと手から石を離した若君が、唐突に言う。
「お前が名を聞かれたからだ」
「えっと、名前?」
「黒龍神とお前の間に入ったのは名乗らせない為だ。名乗っていたら、黒龍神に連れてかれてた」
「……連れて? 天界にですか?」
「神っていうのは、時々、そういう事をする。次はお前が先手な」
まだ続けるのかい。
まあ、暇すぎるって言ってたしな。
天界に連れて行かれるって——。
「ああ、神隠し!」
「そういう事。ほら、始めるぞ。次は俺の意見も聞いて打て」
「ええー。それ、対局になります?」
「指導ってヤツだ。それでも、十分に俺が勝てる」
「……そりゃ、そうでしょうけど。なんか、ムカつきますね」
「なら、少しは上達しろよ」
なるほどな。
黒龍神様は私の舞を気に入ったって言ったし。
え……ということは、連れて行かれてたら、ひたすらに踊らされたのか?
「えーと。有難うございました」
「……何が?」
「天界で舞うのは、流石に身に余るというか」
「連れて行かれた方が、良かったかもしれないぞ」
若君は石を打ちながら、サラッと言った。
「天界なら、天水玉の呪いは関係なくなる。黒龍神なら、お前の身体も元に戻せたかもしれない。匿われることもないし、狙われることもない。魔力だって戻せたかもしれない」
——天界って、そんなに良い所なの?
「若君、ここに打ったら目が出来ませんか?」
「出来ない。それなら、三目横にズラして置く方がいい」
「そんなに離して置くんですか?」
「離して置けば、対応できるだろ? 俺がここへ置いても、そっちに置いても、間に石が置ける」
「あー。なるほどぉ。では、私が若君の玉とは、どういう意味ですか?」
ピタッと動きを止めた若君は、しばらく碁盤を見つめてた。
「……天水玉のことだ」
「ああ、これの事かぁ」
私が右手の甲を碁盤の上に出すと、若君がガシッと手首を掴んだ。
「なんだ、コレ?」
「は? 若君?」
「お前……」
「はい?」
彼は赤みの強い黒い目でじーっと私を見てから、天水玉に視線を戻す。
「どういう事だ?」
「何がです?」
「玉にも目にも、黒い線が入ってる」
「え? あ、本当だ!」
手に嵌った玉の中央に、真っ直ぐ黒い線が走っていた。
目は確認出来ないけども、若君の様子から何か起こっているんだろう。
「……加護を受けたのか」
「何ですか?」
若君はハーっと息を吐いた。
「お前は黒龍神の加護を受けたみたいだ」
「……加護、ですか? えっと、どういう事ですか?」
「分からん。俺も初めて見た」
——ああ。
その珍獣を見る目は止め欲しいなぁ。