44 秘技、神頼み
尾根沿いを移動すると聞いてはいたが——。
魔法使いの駐在所から一番近かったのが、さっき笛を吹いた陰気の吹き溜まりだ。
次に行くのは一番大きな陰気の凝りだという。
ほぼ崖っぷち。
横を見れば奈落のような谷底だ。
「なかなかスリリングな光景だな」
「ここを通る人間は、ほぼ居ない。獣でも避けるかな。でも、最短距離なんだよ」
「凝りは谷か?」
「ご明察。数歩あるけば白国という際にある……転がり落ちるのが一番早いんだけど、流石に命が惜しいからねぇ」
私はパックリ口を開いた奈落のような谷を覗き込み、今回は濃紫に全面同意する。落ちたら絶対に死ぬだろ。
それにしても、白国の情勢には頭が痛いことだな。
こうして陽気を放って陰気を巡らせても、人死が増えれば、また凝る。
「第二王子を捕まえられないのかね。別に殺せとまで言わないが、軟禁するくらいできるだろ?」
「あそこは、ほら。第一王子の正当性で揉めてるから。第二王子を捉えたりしたら、謀反が起こるしね。根回ししてるんじゃないかな」
「時間かけ過ぎだろ……そんなの。こっちでこの有様なら、白国側はもっと酷いだろ? 民が疲弊するじゃないか」
「化け物の数が多過ぎて、山間部の民は避難させてるはずだよ」
「……手が回ってないんじゃ、避難させても同じだろうに。面倒だなぁ」
私が魔法使いだった頃から、白国の王太子問題というのはあった。
第一王子を生んだのが、正妻ではなかったからなんだが。
国王の寵愛を受けた白拍子が、貴族に養女に入って愛妾になった。正妃は国の有力者の娘で、大臣クラスの血筋だったらしいんだが、先に身ごもって男子を生んだのが愛妾の方だったんだよね。
国王は、愛妾に王子が生まれると、すぐに彼を王太子と決めた。
そうすることで、愛妾と王子を守ろうとしたんだろうが——。
そうなると、白拍子を養女に迎えた貴族の発言権が増す。確か、民部の卿あたりの人だったはずだが。身分を引き上げられ、納言にまで登ったはずだ。
そうなれば、正妃の親は面白くない。
それでも子が生まれなければ、文句のつけようもなかったのだが——。
第一王子が生まれて、三年後には第二王子が生まれた。
正妃の生んだ男子だ。そりゃ、派閥の者は第二王子の正当性を押すよな。
だが、妃が誰でも王の子は王の子。
白獅子神の血を引いている事に変わりない。
その上、聞きおよぶ話では第一王子の方が主神の覚えが良いという。
神の太鼓判がある以上は、第二王子は宰相止まりになるだろう。
だからこそ、こんなヤケ糞な方法に出るんだろうけど。
「どんだけ王位に就きたくても、このやり方は悪手だろうにな」
人民の評判は下がりまくるだろうし、第一王子が生きている限り、白獅子神が認めないだろう。王というのは、血筋のみで決まるわけではない。人民の賛意と主神の後見なくして王位は継げない。
赤鳥神様が一存で北斗くんを王に立てたようにさ。
臣民の意向はさして重要じゃないんだよね。
「……だからさ。不穏なんだよ。生まれた時から、第一王子は命を狙われて来た。今も第二王子派は暗殺を諦めてない。しかもさぁ」
「なんだよ、まだ何かあんのか?」
「寵愛を受けてる蘭華様が、身ごもってるらしい」
——おお?
「ええと。蘭華様って、愛妾の方だよな? 新しい側女とかじゃないよな?」
「むろんだよ。国王は彼女を溺愛してるからね」
「子を成す年齢だったか?」
「愛妾にした時点で、国王と十二歳離れてたんだよ」
なんとな。
白国の王は幼女趣味があったのかよ。
「蘭華様一筋なもんだから、悪い噂は立たないけどね。正妃である孔雀妃は——やりきれないかもな」
「ふぅん。なら、蘭華様の身も危ないな」
「それは、もう、ずーっと危ない」
「……大変だなぁ」
少女の内に国王の愛妾になって、ずーっと命を狙われ続けてるとはなぁ。
しかも、我が子も狙われ続けでは、気の休まる時がないだろ。
「これで彼女が第三王子でも生んだら、王位の継承者が増えるからね。第二王子派は、ここが進退をかけての攻防線なんだよ」
「……にしても、やり方が酷すぎる」
なんて話をしながらの移動だったわけだが、北斗くんがピタッと足を止めた。
「化け物」
「……え?」
濃紫が下ろした私を、独楽が走り寄って抱きしめる。
「化け猿……ヤバイ。一体じゃない。団体だ」
氷室が緑の目を発光させて、付近にブリザードを起こした。
私と独楽は風に煽られて手が離れる。
ブリザード起こすなら、起こすって!
先に言っとけよ、氷室!
慌てた独楽が走ろうとして足を縺れさせた。
独楽は元が人形だ。体重が軽いんだよ。
下手したらブリザードに捲き上げられる。
「独楽! いいから伏せて!」
それこそ、私も慌ててしまって——。
立ち上がってブリザードに煽られた。
自分も体重の軽い少女の肉体だって事、すっかり忘れてたよ。
「楓!」
濃紫の叫びも虚しく、よろけた私は谷に真っ逆さま。
手練れを自負してる元魔法使いの末路じゃねーよな。
変な苦笑いが浮かんで来るけど、それどころではない。
いくら、黒国の端とはいえ、呪いを発動させるわけにはいかない。陰気の強い白国の近くで天水玉の呪いが放たれたら、騒乱を呼んで黒国の被害も甚大になるだろ。
——死んでる場合じゃないな。
落下しながら身を捩って、地面と向かい合う形になった。
今の自分に使えるのは、加護の神気のみ。
神頼みしかないだろ。
「助けて、赤鳥神様!!」
私の両目が焼けるように熱くなったかと思ったら、紅蓮の炎が巻き上がり、吹き上げる風を受け、私の背には真っ赤な神気の翼が生えた。
ナイスだ、赤鳥神様!
私は翼を思い切り羽ばたかせる。羽ばたかせ方も知らないから、闇雲に動かしてるだけだけど、体がふっと軽くなり浮いた。
断っておくが、私が受けてるのは加護に過ぎない。北斗くんや有翼人たちとは違うわけで、翼が消えるのも一瞬の出来事だった。
——それでも、谷底に叩きつけられる惨事は免れた。
ヤバかった。
死ぬかと思った。
「……痛ったぁ」
打ち付けた膝をこすりながら、座り込んで一息と思ったんだが。
目の前では息もつけない光景が繰り広げられてた。
陰気の濃密に凝った谷で、化け熊に襲われてる青年がいた。熊の化け物は全身が硬い黒い毛で覆われ、大きく裂けた口には牙がビッシリ。力も強く爪も長く——はっきり言って山では最強の化け物だ。このままなら青年は八つ裂きにされて食われる。
組みされてもがいてる青年は、神気を纏ってるようで化け熊も苦戦しているが——見てる場合じゃないな。
私のできる助太刀は、陰気を弱めるくらいか。
思い立ったら、というわけで、胡蝶を取り出して握りしめる。
笛を握った腕で若君の髪が揺れた。
ああ、そうだね。
若君の力も借りて、黒龍神様の加護を願うなら、あの曲だ。
私が吹き始めたのは、百花繚乱。
陰気に対抗するなら陽気の強い曲だ。
——黒龍神様。
もう、今回は神頼みしまくりだな。
縋るような気持ちで、かの神がおわす黒山を思い出す。
荘厳にして、美しい、故郷の山だ。
笛を吹き出してすぐ、谷の気配が変わり始めた。
私は若君の腕の中にいる気持ちで、軽妙で賑やかな春の祝宴を奏でてく。
彼と一緒なら怖くない。
馴染んだ神気が身を包んでいくようだ。
化け熊が動きを止めて、じっと私を見てる。
青年は戸惑いながら、化け熊を攻撃しようか悩んでるようだ。
——今は辞めとけ。
そんな気持ちを込めて視線を送る。
ほら、化け熊が曲に合わせて首を振り始めた。
拍子を取ってる。
私の腕で若君の毛が解け、風に乗って谷を泳ぐ。
風が吹き始めてる。
気が巡ってる証拠だ。
両目も右手も熱くなってくる。
私の体から陽気が放たれ広がってく。
黒龍神様の気配が谷を覆い始めた。
かの神は強大な神だ。
私の笛に答えるように、空で雷が鳴る。
——ああ。
ありがとう。
黒龍神様。
化け熊の影が薄くなり、霧に覆われるようにして気配を消した。
彼らは山の陰気に晒され続けた熊の果て。
熊は通常なら山の神の部類に入る。
殺さずに済むなら、それに越した事はない。
人のせいで化け熊になってしまったんだからね。
「……浄化させたのか」
呆然とした様子で立ち上がった青年は、白獅子神の気を纏った獣人だった。真っ白な量の大い毛に、金の髪が混ざり、琥珀の瞳に金の瞳孔が走る。
——ええと。
どう見ても王族だな。
「……人なのか?」
——ちょっと失礼な物言いだろ。
私は笛をしまって、ただ頷いて見せる。
「かーえーでー!」
「どこー!」
谷に降りてきたらしい濃紫たちの声が聞こえてきた。
「仲間が私を探しています。貴方様は白国の方とお見受けします。ここは黒国、面倒になる前に国境を越えられるのをお進めます」
ハッとしたように目を開いた青年は、一瞬だけ考えて頷く。
「……そう…だな」
いくら界とはいえ、勝手に国境を越えたら山賊扱いだ。
まあ、見るからに王族だけどな。
青年は近寄って来て、私に頭を下げた。
王族にして礼を知る——か。
これは第二王子じゃなさそうだ。
「命を救われた。礼を言う。娘よ、名はなんというんだ?」
——また、名前を聞かれたなぁ。
しかも女だとバレてるし。
「名乗るほどの者ではありません」
「命の恩人だ。名くらい知りたい」
面倒だなぁ。
ああ、そうだ。
「笛姫と呼ばれています」
「……笛姫」
——嘘じゃないぞ。
黒国の公家達は、私を嵐龍様の笛姫って呼んでるって守谷さんが言ってたし。
青年は自分の髪を縛ってた紐を解いて私の手に握らせた。
「俺は——」
「急いだ方がいいですよ。今から来るのは魔法使いです」
言葉を飲み込んだ青年は、軽く眉を寄せた。獣人族にも色々なタイプがいるわけだが、目の前の青年は耳がなければ人に見えるタイプだ。口元から少し牙がのぞく程度で、濃紫や若君を見慣れた私でも、クラッとする程度には美形だ。さすが王族って感じ。
「その髪紐は礼だ。それを持って白国にくれば、俺が礼を尽くす」
白絹で繊細に編み込まれた飾り紐は、夜香蘭を模しているようだ。紐に見入っていると、彼は指笛で馬を呼んだ。山人に遭遇して退避していたのだろうか、呼び戻されてちゃんと戻るとは、この馬も大変に良い馬だな。
栗毛色の馬にヒラッと跨ると——。
「必ず来い」
そう言って走り去って行った。
いや……白国には行きたくないなぁ。




