30 意識しちゃって
池についたから、若君の手を離すと彼は面白そうに私を見てた。
「なんですか?」
「お前、中身は二十七歳だとか威張ってなかったか?」
「威張ってはないですけど、仰る通りですよ。それが何か?」
「いや……幼いなと」
ふーんだ。
「私が手放しで甘えられるのは、師匠と庭くらいなんですよ」
「どういう意味だ?」
しゃがみ込んで池に手を入れ、パシャパシャと鯉達を呼ぶ。彼らは私に気づくと寄って来て、その身を手の中に滑り込ませてくる。優しく指で撫でてやると、次に順番を譲り、次々と手の中に鯉が滑り込んでくる。
その様子を見てた若君が、少し驚いたように聞いた。
「魚って、こんなに懐くものなのか?」
「……ずーっと、幼い頃から一緒に過ごしたのでね」
そうなんだよな。
始めは、こんなじゃなかったと思う。
「私は物心つく前に両親を亡くしてるので、師匠だけが家族ですけどね。師匠は忙しかったから、一人で留守番することが多くて。子供だったし、池に入って鯉と遊んでたんですよ。池の掃除もよくしてたし、餌もあげてました。一日の半分くらい、鯉と過ごしてた時期もあります」
若君はじーっと静かに私の話を聞いてた。
「草木もそうですけど、ここの鯉達は……家族のようなものなんです」
池の中で錦を揺らし、私の腕に絡まっては離れてゆく鯉達。
すごく懐かしく、愛しいもの達なんだ。
「なるほどな」
若君は目を細めて池の鯉達を眺めると、自分も池に手を入れた。少し警戒していた鯉達も、ゆっくり、ゆっくり、若君の手に近づいて突っついたり、身を当てたりしながら警戒を解いていく。
「はは、けっこう、くすぐったいもんだな」
「挨拶ですよ。若君も友達になれるかましれませんね」
私は立ち上がって手を拭いて、懐から胡蝶を出した。
「では、魚を踊らせましょうか」
何度も、何度も吹いてきた——水琴。
雨が降って、幾重にも池に広がる水の輪のように。
落ちた雨粒の音を追いかけるように。
音を重ねるように吹いてゆく。
空気が震え、振動は池の中にも響いてく。
応えるように錦の鯉が身を跳ね上げる。
キラキラと日差しに身を揺らして、池に落ちて水音を立てる。
笛と水音の合奏こそ、水琴を吹く楽しみかもしれない。
若君が立ち上がって轟を取り出し、私の音を追いかけるように笛を吹く。
さすがだよな。一回聞いただけの曲を、ゆっくりとでも奏でることができるんだから。
若君の笛が混ざると、鯉達の動きも活発になって、水音が賑やかになってく。
私が曲を吹き終わっても、若君の笛に合わせて鯉達が踊ってる。
——楽しそうだ。
なんだろう、すごく不思議な気分になった。
良かったなぁって——胸がじわっと暖かくなる。
奏で終わった若君が、池を見て微笑んだ。
「面白いもんだな」
「鯉と遊ぶのがですか?」
「ああ……。知ってたら、俺も庭に池を作ったのにな」
「今からでも——」
若君がゆっくり首を振る。
「お前が投じた時間や気持ちは、今から作った池では再現できない。俺も忙しくなってしまうしな」
「ああ、そう……ですかね」
「だから、たまに、お前と一緒にここへ来るよ」
「はは、良いですね」
私はしみじみ思う。
この人の、こういう所はとても好ましい。
——好きだなって。
ピタッと。
自分の動きが止まる。
——ん?
私は、今、何を…?
「そろそろ、戻ろうか」
若君が轟をしまいながら言うので、無言で頷く。
彼はしゃがんで池の表面を軽く叩いた。
「またな」
その横顔が優し気に見えて。
心臓がギュッとする。
なんだ、これ。
「……おい?」
「へ?」
「大丈夫か、お前」
「なにが?」
若君が不思議そうに手を伸ばして来たので、思わず逃げるように数歩下がってしまった。
「……あれ?」
自分で自分の行動に戸惑う。
なんという事なのか。
「も、戻りましょう」
パッと踵を返した私は、心拍数が上がってることに戸惑う。
脳裏には、さっき、優しげに池を眺めていた若君の横顔が浮かんでくる。
な、なんだ、これ?
「おい。どうかしたのか?」
背後から追いかけてくる若君の気配に、なんというか——。
私の腕を掴んだ若君が、少し拗ねたような声で私を呼ぶ。
「おい、待てって」
引っ張られて、振り返った私の顔を見て、若君が手を離した。
「え? あ……?」
ギョッとした顔して、それから困惑して、困ったように眉を下げる。
「どうかしたのか?」
それは、そうなるのかもしれない。
だって、顔が熱い。
心臓がバクバクいってる。
きっと——私は真っ赤になってる。
「……どうもしません。何でもありません」
「けど——」
「大丈夫です。気の迷いです」
「は?」
そうだよ。
気の迷いだよ。
実年齢にして、十三歳も下の少年に——トキめいたなんて言えるか。
「……風が冷たくなってきたので」
「え? あ、ああ。寒いのか?」
若君は躊躇なく自分の羽織を脱いで、私をすっぽり包む。
「……ありがとう御座います」
「風邪でもひいて熱が出たら困るしな。お前、すでに顔が赤い。風に火照ったのか?」
だから——。
ああ、もう。
「そうみたいです」
「うん。戻ろうか」
手を掴まれる前に私は歩き出す。
若君はなんだか、困った顔で後ろをついてくる。
あー。
これ、ダメなヤツだ。




