1 はじめ
松に檜葉、紅葉に熊笹。
菖蒲に杜若、立葵に都忘れ。
宮の庭は草花に溢れている。
ここは帝の一人息子、皇太子が暮らす宮だ。宮中の中で杜若の宮と呼ばれる。私が住んでいた所から比べればお屋敷だが、宮の中では小ぢんまりしている方だそうだ。私が杜若の宮に来て、そろそろ二ヶ月になるだろうか。
裸足に草履を引っ掛けて、早朝の仕事は水汲みから始まる。
「春っていっても、まだ寒いなぁ」
お仕着せの、浅葱の着物に灰色の袴をつけた私は、冷んやりした空気に身を縮めた。
台所の水甕に水を補充しながら、立働くオッさんの後ろ姿を見る。濃紺の併せにたすき掛け、黒い角帯を結んだ守谷源次郎様が、トントンと小気味好く分葱を刻んでいる。
「守谷様。水汲みが終わりましたよ」
「ああ、すみませんねぇ。楓ちゃん。私の名に様なんかつけないで下さい。ええと、次はナスを洗って下さい。まだ小ぶりで、柔らかそうなので塩もみが良いですかね」
この人は皇太子殿下が幼い頃から側近で使えるお方らしい。兵部勤が本来らしいが、位は高いと聞いている。
三十歳を少し過ぎたくらいだろうか、背も高く筋骨も逞しく、渋いオッさんである。その守谷さんが、飯の支度から宮の掃除、庭の手入れから若君の侍従までこなしてる。忙しすぎではなかろうか。
「守谷さん。いい加減に女官を増やしませんか?」
早朝から起きて、宮の食事を作るのが皇太子の侍従ってどうなの?
「はは……それが、なかなか。楓ちゃん、塩もみが終わったら、大葉を刻んでくれませんか?」
「はいはい。まあ、私は守谷さんのご飯は好きなので、良いんですけどね」
「それは、有難うございます」
渋いオッさんはニコニコっと笑う。
「新たな女官を入れても続きませんよ。楓ちゃんが来てくれただけで大助かりです」
——続かない。
そうなんだろうな。
私が暮らす黒国というのは、黒の他に、赤、黄、白、青の旗を掲げる五国の中心だ。国色にちなんで五色帝国と呼ばれるが、黒国は唯一、帝の存在する国である。
帝とは、黒龍神の血筋、神と人の混ざった存在で、神気を纏う。人離れした存在——と、されている。もちろん、息子である若君にも龍の血が混ざっているわけで、圧迫感というか、迫力があるんだよね。
気の弱い人は睨まれただけで気絶するらしい。
おまけに若君、女性嫌いだと言われてる。
なので、この杜若の宮には女官が居着かない。
怯えて辞めてしまうんだそうだ。
「私の手助けなんか、微々たるものですよ。守谷さん、忙しすぎるでしょう。女性がダメなら、小姓とか」
「あの若君が側に置くと思いますか?」
「どうでしょう。私が容認されてるんだから、大丈夫じゃないですか?」
彼は手際よく味噌汁を椀によそい、粥と、塩もみナス、鰯の塩焼きを並べ。四つの膳を完成させてゆく。
「あなた、だから側に置いているんですよ。若君に睨まれようが、怒鳴られようが、平然としている。あの人に小言を言う女の子なんか、初めて見ました」
「当然です。見た目はこんなですが、私の方がずっと年上なんですから」
守谷さんが面白そうに眉を下げる。
ええ、ええ。
どうせ、今の私は十歳くらいにしか見えませんよ。
魔法使いだった私は、兄弟子のせいで魔力が枯渇して魔法が使えなくなった。
しかも、体まで幼くなってしまってる。
「なんにしろ、若君には貴重な側付きが増え、私の仕事も減りました。楓ちゃんには感謝してます。さ、膳を運ぶのを手伝って下さい」
「……はぁい」
私は溜息混じりに膳を持ち上げる。
助かると言われても、私は宮中に努めるような人間ではないのになぁ——。
元の私というのは、魔法使いとして名高い月光宗元様のお弟子だった。年齢にして二十七歳。三十路目前の女性魔法使いだったんだ。物心がついた頃には宗元様の元で暮らしていた。
宗元様は、自分が手がけた化け物退治で両親を失った私を、手元に引き取って育ててくれた。恩人であり恩師である。
魔力があったのも引き取った理由だと聞かされた。よく励めば、きっと立派な魔法使いになれるよ、と、宗元様は優しく仰った。
そうなのだ。
私は恩師であり、育ての親でもある宗元様の後を継ぎ、立派な魔法使いになると決めていた。修行につぐ修行の毎日は、婚期を遠ざけてしまったようだが、このまま行かず後家になっても我が人生に悔いなし!!
——そう思って魔法修行に精進していたのに。
「おはようー。わぁ、今日のご飯も美味しそうだねぇ」
八畳ほどの和室に四つの膳を並べ終わる頃、のほほんと顔を出した男、濃紫こいつだけは許さない。
「濃紫先生は良いご身分でございますね」
「まぁね。僕はお客だから」
しゃぁしゃぁと——。
濃紫宗元こいつは魔法使いだ。しかも、私の兄弟子で、引退した宗元様の名と身分を継いだ。それは、まあ、仕方のないことだ。兄弟子だったし、コイツの魔力量は尋常ではなく、使える魔法の種類も私の比ではなかったから……。
だけどね。
私が十歳前後の見た目になったのも、魔力が枯渇して魔法使いの道を断念しなければならなかったのも、ぜーんぶ、コイツのせいだ。
「なに? 朝から、そんな熱い目で見られると、さすがの僕も照れるよ?」
「頭が沸いてんじゃないのか。恨みがましい目と言えよ」
「口が悪いよ、楓ちゃん」
「煩いな。名前を呼ぶな、虫酸が走る」
濃紫は真っ直ぐな黒髪に、名前の由来だろう濃い紫の髪が混ざっている。瞳は薄い紫と黒が混ざり、見た目だけなら宮中の女官全員を卒倒させられるくらい美形だ。
だが、外見の美しさがなんだというのか。
コイツの根性の悪さを私は忘れないぞ。
パシッと後頭部を叩かれ、振り返って睨むと若君が目を細めてた。
「煩い」
彼は一言そういって通り過ぎる。
帝の一人息子、皇太子の嵐龍、十四歳は、涼やかな若草色の併せに銀糸の入った灰色の帯を締めている。上座の膳を前に座ると、グルッと私たちを見て箸を持った。
守谷さん、濃紫、私、若君。
どういう理由か知らないが、使用人の筈の私まで若君と食事を共にする。ただし、若君が口をつけるまではお預けだ。一人で台所で食べたいのだが、私は若君の側付きとして雇われている。彼の命令には従わねばならない。
毒味はすでに守谷さんが済ませているし、そもそも、作ってるのも、運ぶのも、守谷さんの仕事だ。毒の盛りようがないけどね。
「ねえ、楓ちゃん。君は弓舞は踊れるよね」
「濃紫先生。食事中ですよ」
「うん。で、踊れる?」
なんだっていうんだ。
「踊れますけど?」
「だよね。じゃあ、若君に教えて」
「……はい?」
「来月の奉納舞、若君には弓舞を舞ってもらおうって、帝が言うからさ」
「…………踊り手は私の他にもいるでしょう? それに、若君は弓舞を踊れると思いますけど?」
若君が箸を置いて、ハーッと溜息をついた。
「今回、奉納するのは、魔法使いが踊る弓舞だ」
「え? ああ、幻視蒼空弓舞ですか。それなら、濃紫も踊れるでしょう?」
「……お前の舞は見事なんだと、月光宗元様がおっしゃった」
——う。
師匠。
「楓ちゃんは、魔法が使えないんだから。舞くらい教えてあげてよ」
「誰のせいだと思ってるのか……ぶち殺すぞ、濃紫」
「本当に口の悪い。お嫁にいけないよ?」
「大きなお世話だ!」
はぁあ。
と、ため息をついた若君が、呆れた顔で私を見る。
「帝の命だ」
「……くっ。承知しました」
帝——五色帝国、権力の頂。
私はあのオッさんが苦手だ。
暑苦しいんだよ。
あの人に会って文句言われるくらいなら、若君に舞を教えた方がマシだ。
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