境界線 一
『では、避けられないと?』
昼下がりのカフェにラジオが流れる。
港の喧噪から少し離れた場所に在り、地元の者や旅行客達が腰を下ろして、静かに珈琲の香りに浸っていた。
『ええ、残念ながら。それ程に我が国と周辺諸国の緊張は爆発寸前なのです』
『諸々の要因はありますが、それでも敢えて挙げるならば『パム事件』でしょう』
聖典教会とアッパネン王国の突然の侵攻。
パムは滅び赤土の大森林は消え、闇の勇者と将狩りは重傷を負って第一線から退いた。
それから続く三年間はベルパスパ王国にとって激動の時代であった。
『特に最近は黒霧森の件でエルフォシア帝国との関係は最悪でしたからね。魔晶石、そして皇金の鉱脈の発見。軍の武力衝突こそありませんが、国境付近では諍いが絶えないと聞きます』
『そうですね。それに伴ってお互いの国民感情も悪化しているようです。そこの所は如何でしょうか先生?』
『かなり危うい状態、です。ですがつい二十年前は黒霧森はそちらの領土だ、だから管理しろ、魔獣被害の補償をしろ。俺達は知らん。そう言っていたのがエルフォシア帝国でした。いえその時は一部の、強硬派の主張でしたがね』
『ええ、私も父から聞いた事があります』
『鉱脈の発見時もです。A級危険指定の『黒の王』が中心に巣食っている以上、大規模な開発はできない。討伐するにしても多大な犠牲が生じる。更には伝説の劫亢の座になった。もう我が国に押し付けてしまえ! というのが二週間前までの、エルフォシア帝国の態度でした』
『そうですね』
『ですが!!』
ボキッと何かの折れる音が響く。
パイプだろうか?
『【青燕剣】が『黒の王』を討伐した瞬間! エルフォシアは『黒霧森は我が国の領土だ』と! 彼の皇帝は恥知らずにもそう言いました!』
騒めきが聞こえる。
『エルフォシア人どもに私はこう言ってやりたいですね! ねちねち平和だ協調だ言うくせにやってる事はハゲタカだろうが!! って! 『我が国の領土だ』って言うのにお前ら解決に何かしたか? 解決したのはお前らが魔族魔族と言っていた我が国の英雄なんだがな!!』
ドタバタと人が入り乱れる音が続く。
『放せ! 俺は圧力には屈しない! ベルパスパ王国万歳!!』
プツリと音が途切れ、優雅な管弦の音色がラジオから流れ出した。
「戦争か」
誰かの小さな呟きは、しかしカフェの中の誰もが耳にした。
パイプの紫煙が揺れる。
新しい珈琲の湯気が立つ。
馥郁たる香りと暑気の中で、壁掛け時計はチクタクと時を刻んでいった。
* * *
薄暗い室内。
木枠の窓から入る光は弱々しい赤。
清潔であるが幾つも傷のある古い椅子に座り、二人の少女が木箱を挟んで向かい合っていた。
「お、願い!!」
まるで聖霊へと縋るように。
そう言った年上の少女に、スキーラは「はい」と頷き瞼を閉じた。
―― ボコリと、泡の立つ音がスキーラの脳裡に響いた。
瞼の裏の闇は水底の景色に変わり、揺れ動く水草の森と、一匹の魚の姿が映し出された。
魚は探している。
恋する魚を。
少し先の水草の先に魚はいるのに、魚は見付ける事ができない。
あと少し。
その体を動かして泳ぐだけで、魚に辿り着けるのに。
ふと何処からか別の魚が泳いで来た。
それを魚は見付けてしまった。
魚は水の流れに去って行こうとする魚へ、必死に泳いでいった。
魚が魚に気付いた。
そして二匹は出会い、何処かへと泳いでいった。
……。
……。
瞼を開く。
「ど、どうだった、かな?」
「そうですね」
スキーラの頭の青いリボンが揺れる。
「かなり危ない状況です」
幼さの面影を残す白磁の顔から表情を消し、意識して深刻な声音を作り、スキーラは彼女に起こり得る未来の流れを伝える。
「このままでは先輩の想い人は、別の女に取られてしまいます。かなりはっきりと流れが視えたので、確実と言って差し支えない状況でしょう」
「う、ウソ……」
静謐な茶色の瞳には向かい合う少女の姿が映る。
鏡のように無機質な輝きは、逆に何かを耐えるようにも見える。
「嫌よ。ぜ、絶対に、嫌。ずっと、ずっと好きだったの。好きだったのは私なのよ!」
少女は泣き叫び、頭を掻き毟り、震える。
声を響かせて。
「大丈夫ですよ」
優しい声が包み込む。
涙の止まらない目で少女は、スキーラを見た。
―― 十万人に一人という、『運命』の適正属性を持つ存在。
「大丈夫です。運命は変えられます」
優しい声が、涙を止めてくれた。
だから少女は縋った。
「私は、ど、どうしたらいいの?」
スキーラは伝える。
立ち止まり様子を見ている今から、先へと自分で進む必要があると。
可能性は、とても近くに在るのだと。
「でも私、勇気が持てなくて」
少女の小さな言葉。
それが解かるからこそ、スキーラは鞄から取り出した木製の腕輪を少女へと見せた。
「これは?」
「前星の聖女【蛇王角】様の祝福を受けた腕輪です。幸運と勇気の加護があります」
少女は受け取り、抱えるように握り締める。
「ありがとう」
「はい♪」
嬉しそうに、スキーラも笑みを浮かべた。
「それで、えっと」
少女は財布を取り出した。
「幾らかな?」
「まいどありです♪ 一万メルチになります」
* * *
山荘の敷地内に十八時の鐘が鳴る。
それでも運動場からは学生達の喧噪が絶えず、修練所からは絶えず打ち合いの音が響いて来る。
スキーラは一人で木造の廊下を歩いて行く。
親友であり主君であるペローネは、生徒会長に呼ばれてしまった。
特に予定が無かったのでぶらぶらしていたら先輩に捕まり、思わぬ臨時収入を得る事になった。
「ふん♪ふん♪ふん♪」
気分が良いから鼻歌も調子が出る。
階段を下りて、歩いて、扉を開けて。
すれ違う人もいなくなり、喧噪が遠くになって、木々の影が濃くなって。
「キャハハハハッ」
「マジ泣いてるよコイツ」
「出してみろよ眷属ってヤツを」
三人と一人。
「ねえ、何やってるの?」
ビクッと鼠のように震えて、振り返ってスキーラを見て安堵して。
とっても下衆な笑みを浮かべる三人の少年達。
「何だ占い師ちゃんか。びっくりさせんなよ」
リーダーなのだろう、一際大柄な少年がスキーラの前に立つ。
「訓練だよ。これから俺達は冥宮に入ろうってんだ。弱虫がいたら足手まといになるだろ」
「そうなんだ」
傷だらけで蹲るのは、スキーラと同じ、元パムの住人だった少年。
「エルフォシア帝国の訓練って過激なんですね」
「ああそうかもな。弱っちいベルパスパの奴には厳しいようだなぁ。キャハハハ」
「そうだ。折角の合同合宿だしよ、占い師ちゃんも一緒にどうだ?」
少年達の視線がスキーラの体を、嬲るように這い回る。
「俺さ、子爵家の長男な訳よ。占い師ちゃんなら愛人にしてやってもいいけど、どうよ?」
「お断りします♪」
ドン!
「あ―あ」
「な、んだと!?」
スキーラの右手が、少年の渾身の右拳を軽々と止めていた。
「このアマ!」
少年が放った風の散弾へ、スキーラはただ放出しただけの魔力をぶつけた。
それだけで少年の魔法は掻き消された。
「雑ですね。技も魔法も。もしお師匠様だったら罵詈雑言を浴びせて、お尻を蹴り飛ばして滝壺に落としていますよ」
「ば、馬鹿な。おいお前ら!」
少年の叫びと同時に、二人の少年が地面に倒れる音が響いた。
「あ、ありえない、だろ」
「弱っちいベルパスパ人もやる時はやるのです。さてと」
スキーラは右手に生み出した火球を浮かべる。
濃く深い赤色の熱が少年達を照らす。
「訓練、続けますか?」
「あ、アアアアアアア!!」
悲鳴を上げて逃げ去った少年達を見送り、スキーラは倒れていた少年に手を差し伸べた。
ぱん!
「っ」
少年の手がスキーラの手を払い除けた。
「お前、お前らなんかに」
少年は自分で立ち上がり、ふらふらと歩き去って行った。
「難しい、ね」
スキーラの顔に苦い笑みが浮かんだ。
少し休んでから戻ろうと、木の幹に体を預けて、空を見上げた。