ルルヴァ・パム 一
昔の話である。
圧制を強いた王が一人の騎士によって討たれた。
苦渋の生活を強いられることから解放された民衆は喜びに沸き、騎士へ感謝を捧げた。
善良な貴族の中から新たな王が生まれ、新しい国が出来た。
その中に騎士の姿は無かった。
人知れず姿を消した騎士を、人々は忘れまいと誓った。
王の血、貴き者の血を『青い血』という事になぞらえて。
王の血を浴びた反逆の義士、『青騎士』の物語は今の時代も語り継がれている。
* * *
深く果ての無い蒼穹と流れゆく群雲。
頂に雪を被った山々、その稜線の彼方には町を乗せた島が浮かぶ。澄み渡った青空から吹く風に小さな鳥の群れが戯れ、鳥達の遥か高みを飛ぶ竜の姿もあった。
竜の影の過ぎた大きな石畳の道を、有角の巨大な四頭の馬に引かれて、『旅客馬車』が走っていく。
八輪二階建ての車内には多くの者達が乗り、変わらぬ景色を窓から眺めたり、仲間内で談笑したり、或いは賭けをしたりと、思い思いに長い旅の時間を過ごしていた。
「へえ、あんた王都から来たの」
「はい」
二階の隅の一角に座る森人の女は暇つぶしにと、対面に座る青い外套を纏いフードで顔を隠した、旅姿の少年に話し掛ける。
「私も昔は王都に住んでたことがあってね。開拓者としてイケイケだったけど、結婚して引退。で、こっちに越してきたのよ」
「そうなんですか」
客車の窓の外では時々、結界が魔獣を弾いた時に生じる火花が瞬くのが見えた。
「ここら辺は魔獣が多いからねえ。結界のある馬車じゃないと、まともに走るなんてできないのよ」
淡く輝く結界、その向こうに見える雄大で底の見えない谷間、対岸に広がる大森林。
雲まで届く巨木が連なり、その下を黒い霧が絶えることなく流れている。
「あそこがこの地方最大の魔境として有名な『黒霧森』。中の魔獣がこっちに来ることはめったにないけど、一攫千金狙い達が奥にいって帰って来ないのは日常茶飯事。ま、稼ぐための狩なら、外縁で済ませましょうねって場所」
「確か森の奥に生息するリクシロカクガイから、黒虹真珠が採れる場所でしたよね」
「そうよ。ちっと前までならC級開拓者なら生息地まで行けたけど、今はもう無理ね」
女はバックからパイプを取り出して、葉を詰める。
「二ヶ月前に異変が起きて、魔獣は軒並み凶悪化。この前調査兼討伐に行った王都の騎士さん達も、殆どが魔獣の餌になっちゃったわ」
手慣れた仕草で火を付けて、紫煙を吐き出した。
「そういう訳で。もし君が黒虹真珠を目当てで来たというのならやめときなさい。そんな切羽詰まった様子じゃないようだし、態々死にに行く理由は無い人でしょ?」
女は少年が抱える得物を見ながら、そう忠告した。
青い燕の舞う姿を描いた見事な鞘。
弓なりになった剣身の形から、森の民が好む『刀』であろうと分かる。
柔剛断つ刃の冴えと澄んだ鋼の美しさは、好事家ならずとも、剣に携わる者の琴線を掻き鳴らす。
―― 刀一つで国一つ。
今よりも昔、ある国の王が旅の剣士の持つ刀に一目惚れし、是非譲って欲しいと願い出た。
渋る剣士は最後には首を縦に振り、対価として王の治める国を要求した。
剣士に国を譲って刀を手にした王は喜び、一人旅立っていったという。
そんな嘘のような実話もある。
(駆け出しの坊やが持つには不相応に過ぎる逸品)
けど、年齢と見た目が釣り合っていない人類種もいる。
見た目は子供、心は大人、体に秘めるは一流の戦士の血肉。ということも有り得ない話ではない。
―― 例えば、
(私のようなエルフとか)
彼女の目には少年はただの子供としか見えない。
ああ、土台裏方専門だった自分には、戦士の目利きなどできないのだったと、女は溜息ついでに紫煙を吐き出した。
(家の業物を持ち出して、独り渡世の武者修行。果ては挫折か栄光か。さてさて皆さん御覧じろ)
なんてね。
* * *
旅客馬車はやがて『デニメ』の町に着いた。
街壁の中には石や木を用いた家屋が立ち並び、通りを何台もの馬車が走り、すれ違っていく。
様々な人種や装いの人々の往来があり、町中に賑わいがある。
デニメは辺境に位置してはいたが、古くから木材の産地として知られており、また、東方へ続く交易路も近くにあった。
旅客馬車が新しい木造の駅舎の中で止まった。
エルフの女は他の乗客が降りるのを待ち、ゆっくりと一人、外へ出た。
「う~ん!」
背伸びをして目的地へと足を向ける。
この町の住民なので、他の客達のような手続きは必要ない。
人類種最悪の災いである『魔王戦争』が終わっても、『~救済教会』や『~義勇軍』などの物騒は絶えず、デニメのような町でさえ、余所者に少し厳しくなった。
「あら、あなたもこっち?」
「はい」
何となく振り返ったら、馬車で一緒だった少年がいた。
特に話す事も無く、同じ道を進んで行く。
この先にあるのはこの町の『開拓者協会』で、だから女も納得し、少年に何も聞こうとはしなかった。
ドン!!
「!?」
協会の二階の窓が吹き飛んで、中から若い男の怒鳴り声が鳴り響いた。
協会へ走る者、呆然と立ち尽くす者、興味を覚えて近寄る者、怯える者。
女の視界の端に、跳躍する少年の姿が映った。
「ちょっと、君!」
女は慌てて飛行魔法を使い、少年の後を追った。
* * *
二人の異邦の開拓者が、この町の協会支部長へと詰め寄る。
「ふざけるなよ! 何で黒霧森が封鎖になってんだ! 俺達は態々スス同盟国から来てやったんだぞ! お前等の所の貴族様からの直々の依頼でな!!」
「い、え。あ、あの、大変申し訳ないのですが……」
「これがアブルッツィ伯爵からの依頼契約を記した書面になります。確認願います。特にこの、協会本部長のサインの所を」
「で、ですが。今黒霧森は」
「先ほど受付で伺いました。異変が起きたのでしょう? 大型魔獣が現れたか、中心にある冥宮が成熟して中の災禍を溢れさせたか。いずれにせよ問題ありません」
「そうとも、見な」
男の掲げた紋章には火の聖印とAの等級、そして金の星が刻まれていた。
「ご存知の通り、私達はA級開拓者です。しかもスス同盟国では特別戦力としての登録も受けているのです」
「逆にこの幸運に涙して、とっとと森へ入る許可を出せよ。国が封鎖している場所を、現地の協会の意向を無視して入ったとあっちゃ、幾ら俺達でもペナルティーを課されるからな」
「その程度なら今の黒霧森に入っても死ぬだけですよ。今あの森を支配しているのは劫亢の座へと至った魔獣なのですから」
「何だお前?」
窓のあった場所に一人、フードで顔を隠した少年が立っていた。
「ベルパスパ王国パスパグロン東区支部に所属している開拓者です」
「駆け出し、の気配ではありませんね……」
「なら解かるだろ。俺達は交渉をしてんだよ。引っ込んでろ」
「ご存知かと思いますが、二週間前に二千人の精鋭より編成された討伐軍が派遣され、壊滅しました。失礼ですがあなた方に森に入られると刺激された魔獣が暴れて、周辺に被害を生じさせる恐れがあります」
「っ、テメエ!!」
「……ここまで虚仮にされては黙っていられませんね。少年、今ならば謝罪を受けいれます。頭を床に擦り付けなさい」
「その半端に鞘から出した剣を抜き切ってください。それで答えが出ます」
「ガキがっ!!」
少年が鞘に刀を納めた。
「峰打ちです。しばらくの間お休みください」
襲い掛かったはずの相手の声が背後から聞こえる。
その言葉でやっと、二人は勝敗が決したのを認識した。
「ばかな……」
「あ、ありえない」
二人の開拓者は呆然と呟き、意識を失って床の上に崩れ落ちた。
「あ、あなたは?」
「魔獣対策法三条により、王位継承候補【パーナク・ベルパスパ】殿下からの特別依頼で参じました【青燕剣 ルルヴァ・パム】と申します。黒霧森の件、僕が預からせていただいてよろしいですか?」
「は、はい」
支部長のサインを受けた書類が亜空間の蔵庫に仕舞われたタイミングで、エルフの女が到着した。
「あ、あんた。これは一体」
少年は踵を返し、支部長に駆け寄る女と入れ違うように壁の穴へと向かう。
朱い魔力洸が少年から溢れ出し、青い外套が鎧へと姿を変えていく。
その数秒の間に、フードに隠れていた少年の容貌が露わとなった。
結わえられた瑠璃色の髪。
非常に整った少女のような顔立ちは、まるでこの世ならざる人形のよう。
朱の瞳は強い意志の輝きを灯す。
その調和が成すあまりの可憐さに、女は息をするのも忘れて見入ってしまった。
「き、君は何者だい?」
「僕はS級開拓者です」
男の問いに少年はそれだけを返す。
決して大きくは無かった声は、静まったこの場には良く響いた。
青い全身鎧に身を包んだ少年は朱い炎の翼を広げて朱の風を纏い、黒霧森へと飛んでいった。
* * *
死の魔境と化した黒霧森の中を青い全身鎧を纏った少年、ルルヴァが駆ける。
雲の先まで突き立つ巨木の枝葉に陽射しは遮られ、地上は黒き霧が途切れることなく、ゆっくりと流れている。
そこには数多の魔獣が潜んでおり、踏み込んで来た弱者を貪ろうと、待ち構えている。
『シャアアア!』
巨大な蜘蛛が地面を割って現れた。
木の洞から無数の毒百足が音も無く飛び出した。
「はっ」
ルルヴァの握る精霊刀【飛燕王】が蜘蛛を両断し、全身に纏う朱色の風が毒百足達を粉微塵にして吹き飛ばした。
息つく暇も無く、頭上から牛さえ呑み込めそうな大口を広げ、大鼠の群れが降って来る。
「【震雷烏】」
ルルヴァの風が三百の雷の烏へと変わり、大鼠達を紫電の嘴で貫いた。
「っ!」
正面から襲い来た不可視の何かを左手に生み出した氷の槍で貫き、振り向きざま飛燕王を斬り上げる。
氷の槍に貫かれて絶命した大蜥蜴が姿を現し、ルルヴァの四倍近い巨体の鉄熊《《てつくま》》が翡翠色の刃に両断されて転がった。
「らあっ!!」
両手、振り上げた飛燕王が猛火を断ち切り、襲い来た鎧竜の爪牙と血肉を返す刃で斬り裂いた。
「まだ……」
疾風を超える速さで駆け続けても木々の連なりは途切れず、無尽蔵に強力な魔獣が次々と現れては襲い掛かって来る。
しかし三つ川を越えた時に木々の中に古い石垣が混じり出し、五つ川を越えた時には森に埋もれた古代都市の遺跡が姿を現した。
『『キャキャキャ』』
枝葉の上で、朽ちた建物の影で、灰色の猿達が嗤い声を上げた。
餌食となった者達から奪ったであろう武器を持ち、鎧を付け、濁った魔力洸がその体から発せられている。
ぽつりぽつりと雨が降り出す。
そしてすぐに雨粒は五月蝿い程になった。
ルルヴァは右手に飛燕王を握り、左手に朱色の魔力を集中させる。
『『キャキャキャッ!!』』
猿達の魔導鎧が戦闘起動し、魔導武器の錬玉核に洸が灯る。
「【灼璃川蝉】」
ルルヴァの左手から放たれた炎が四百の川蝉の形となり、猿達を襲う。
『『キッキッキッ!!』』
川蝉を避ける猿達が木々の中を縦横無尽に飛び回る。そして内一匹が川蝉を迎撃しようとその手に持つ得物を振り下ろした。
ズドンッ!!
弾けた川蝉は爆炎と爆風を撒き散らし、それは近くにいた猿達も巻き添えにした。
爆発の衝撃波を受けた猿達は態勢を崩し、そのまま追尾してきた川蝉の直撃を受け、朱の炎の中で灰となった。
『『キッ――――!!』』
川蝉から幸運にも逃れた猿達がルルヴァへと殺到する。
『『キッ?』』
一瞬前まで眼前にいたルルヴァの姿を見失い困惑する猿達の耳を、離れた場所から響いた刃の風切音が打った。
鳴き声が途切れる。
斬り落とされた猿達の首が土の上を転がり、残った骸が地面に崩れ落ちた。
『ギシャ――!!』
雷鳴の彼方より、大樹の枝葉の天蓋を震わせる程の咆哮が鳴り響いた。
急速に、圧倒的な魔力を持つ存在が地上へと降りて来る。
飛燕王を中段に構えるルルヴァの目の前に、三mを超える巨躯の黒猿が静かに着地を決めた。
(強い)
―― その殺気の圧だけで、圧し潰されそうだと感じてしまう。
『グアッ!』
鋭い牙の生えた黒猿の口腔から砲弾の如き衝撃波が放たれ、ルルヴァが飛燕王で迎え撃つ。
「くっ!?」
飛燕王を持つ両手が軋む。
想像以上の負荷に柄から手が離れそうになるが、逆に渾身の力を込めて、ルルヴァは飛燕王を振り抜いた。
斬り裂かれた衝撃波は暴風となって散り、それを受けた巨木が幾つも倒れ、地面が波打つように揺れる。
『ギシャッ!』
黒猿が跳び、神速の右拳がルルヴァへと振り下ろされる。
全力で後ろへと飛んだルルヴァの目の前で大地が巨大なクレーターへと変わった。
天まで届いた土砂が雨と一緒に森へと降って来る。
『ギシャアア!!』
水と土の豪雨を吹き飛ばした黒猿の左拳が迫る。
「つぁっ」
ルルヴァの飛燕王が弧を描いた。
斬り裂いた黒猿の左手から褐色に輝く血飛沫が上がった。
『ギィイイイ!!』
ルルヴァは黒猿の懐に飛び込み、左手から詠唱破棄で構成させた戦術級上級魔法を発動させる。
「【雨槍散閃】」
音速を超える水の槍の散弾が連続。
黒猿の血肉を穿つには至らないが、それでも浅くない傷を幾つも体に刻んでいく。
『ギィアッ!』
黒猿の口から放たれた衝撃波にルルヴァの魔法が吹き飛ばされた。
右足を踏み込み、右手一つで放った飛燕王の突きが空を切る。
後ろへと大きく跳躍して逃れた黒猿が大樹の枝の一つに着地した。
『ゴォ、ゴォ、ゴォ』
黒猿は憤怒の息を吐きながら、獣の瞳を睨ませてくる。
(千年を超えて生きる、この森の王たる我が……)
黒猿は常に勝ち続けて来た。
敗北などした事がなかった。
(百の国を滅ぼした……)
気の向くままに生きてきた。
千を超え、万を超える命を蹂躙した。
(多くの竜や化け物、英雄共を喰らってきた……)
そしてついに冥宮の核を喰らい、定命の頸木から解き放たれた。
(その、我が……)
傷は全て再生を終えた。
しかしその痛み以上の灼熱が、黒猿の全身を焦がす程に荒れ狂っていた。
(あのような……小さき者に)
両手の拳を握る。
歯が、牙が軋みを上げる。
(屈辱!!)
『グオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
天地が震えた。
黒猿から立ち昇る魔力の波動によって、空で暴風と雷が地平の果てまで暴れ回り、大地が狂ったように揺れ動く。
『オノレ――――――――――――――――――――!!』
莫大な殺意の噴出と共に放たれた黒猿の咆哮。
直径十kmにあった木々はその葉の色を失って朽ち、魔獣に至ることのできない虫や鳥や獣が地に落ちて、倒れていった。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――――――――――――――ッ!!』
黒猿から黒い魔力洸が噴き上がる。
背中には漆黒の竜の翼が生え、尾は黒い毒蛇の姿へと変わる。
体は更に巨大となり、手足の爪は鋼の輝きを帯びる。
牙の伸びた口からは炎の息吹が漏れ、瞳は凶星の如き赤い輝きを宿した。
「フゥ」
荒れ暴れる大河の濁流のような黒猿の殺気を受けながら、しかしルルヴァは飛燕王をただ自然に、中段へと構えた。
―― 剣の基礎たる中段の構えは攻防の全てに応じる。
黎明の優しい光のような、ルルヴァの魔力洸が高まっていく。
濃く、深く、より朱く。
夜を裂き、闇を退け、より朱く。
太陽のように静かに、無慈悲に、暗黒を貫いていく。
光を受けた暁の澄んだ海に、広大な世界が現れるように。
研ぎ澄まされた朱い魔力洸の奥に、ベルパスパ王国最強の開拓者と謳われるルルヴァの、その真の姿が露わとなる。
「僕の名前はルルヴァ。ベルパスパ王国S級開拓者【青燕剣 ルルヴァ・パム】」
ルルヴァの青い鎧が姿を変える。
そして兜の額の部分が新たに開き、そこに朱の瞳の輝きが灯る。
『我ガ名ハ【オルギュニースタ】。コノ名ニカケテ、オ前ヲ殺ス』
誰も知る者のいない黒猿の本名が、獣の発音で語られた。
覇気と闘気、そして莫大なる殺気が交差する。
暴風の隙間を柔らかな風が吹いた時。
ルルヴァが必殺へと飛び、黒猿が蹂躙へと跳び出した。
「ツアッ!!」
『ガアッ!!』
空中で朱色に輝く飛燕王の斬撃と爪刃の斬撃が激突する。
一秒に百以上がぶつかり、それによって生まれた衝撃波が地面を消し飛ばし、巨木と雨雲を抉り砕いていく。
一撃の威力は真玉の翡翠鋼より生み出された精霊武器の傑作たるルルヴァの飛燕王が勝り、手数は魔獣の究極へと至ったオルギュニースタの手足に生み出されし伝説の武器に勝るとも劣らない爪刃が上回る。
飛燕王で左手の爪刃を斬り飛ばし、右手の爪刃を左手に生み出した氷の小太刀で受け流そうとするも、爪刃が纏う魔力に触れた瞬間、小太刀が蒸発。
飛燕王を防御に回すが、刀身越しに伝わる爪刃の威力を受けて、ルルヴァは態勢を崩してしまう。
そこへ再生した左の爪刃が襲い来るが、ルルヴァは炎を纏った右足で蹴り上げる。
更に背後から来た牙を剥く尾の毒蛇を振り向きざまに斬り飛ばし、そのまま回転して右の爪刃をも斬り飛ばした。
『ガアアッ!!』
「ふうっ!!」
迫り来た牙を、ルルヴァは劫火の息吹で迎え撃つ。
しかしその炎を割って打ち込まれた左拳が顔に直撃した。
「ぐあ!?」
音を遥か上回る速度で殴り飛ばされ、巨木の幹を何本も貫通し、叩き付けられた湖を爆散させてようやくルルヴァは止まる事が出来た。
「っ、」
つい一秒前まで湖だったクレーターの底で土を踏み、立ち上がる。
凄まじい速度で近付いて来る絶大なオルギュニースタの気配に、―― 畏怖 ――、肌が泡立つのを感じる。
「流石は『劫亢の座』に至りし怪物、といったところですか」
オルギュニースタには『武』があった。
それは人が長き年月を積み重ね、研鑽の果てに実らせた技であり、体であり、心の在り様であった。
本能に支配された猛獣ではなく、知恵に溺れた賢者ではなく。
―― 完成に至った武人。
だからこそ、最大の亡者であり天の定めにまつろわぬ最悪の力の結晶である冥宮を喰らい、消化し、自らの力とすることができたのだろうと、ルルヴァは理解する。
体中に響く激痛を無視して飛燕王を構える。
だから。
「幽幻の海にして凍神の青火 狭間に満ちる世界たる存在」
ルルヴァの口から歌うように言葉が紡がれる。
それは神羅万象の神秘を構成し、力として形を与える為の言葉たる『呪文』。
「たゆたう力にして無形の皇 理の現身よ」
呪文の詠唱が重なる度にルルヴァから莫大な朱い魔力が放出され、それに耐えかねるように世界が悲鳴を上げて、揺れ動く。
「嘆きを聞かず 憐憫を覚えず 慈悲を消し 冷たい怒りを与えよ」
それは古き時代には秘奥と呼ばれていた。
それは超常の存在の姿をこの世界に顕し、世の理さえも変える絶威の力を解き放つものであった。
「来たれ虚戒の哭壬 絶息の終焉」
―― ただ一人が千万の軍を蹂躙し、数多の国々を滅ぼしたと伝説は語る。
―― その名は、
『ガアアアアアアアアアア!!』
巨大な黒き翼を広げ、膨大な黒き魔力を纏い、炎獄の炎を宿した爪刃を構えて、オルギュニースタが来る。
―― 『天顕魔法』!!
「【青焔の皇 コルデバルク】」
青の色彩が空気を塗り潰した。
ルルヴァの朱い魔力から青い焔が生まれ、天の果てまで満ちる熱を喰らい尽し、積乱雲の如き巨大な怪魚の姿へと変わる。
『ルォォ』
全ての命を青い焔で奪い、絶対の虚無の零へと落とす、終焉の化身たる青き皇の朱の瞳が開く。
飛燕王の切先がオルギュニースタを指すと同時、コルデバルクが驀進した。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
灼熱の極炎と虚無の凍焔が激突する。
黒い炎が青い焔に喰われていく。
『我ハ、我ハ!!』
オルギュニースタの翼が砕け、尾が砕け、左手が砕け、顔が砕ける。
「仕手猿飛流、」
だがオルギュニースタの右爪刃が青焔を貫いた!
『王ダ!!』
―― 封義【心通剣】。
疾風が去った。
『ッ』
飛燕王の刀身の嵐が鎮まり、刃から青焔が消える。
突きの終わりの着地、振り返り残心を取るルルヴァの前で、オルギュニースタの巨体が凍土の上に倒れた。
凍て付いた黒霧森を斜陽の陽射しが照らし、彼方に白い月が姿を見せる。
くすんだ朱色の空へ、風が翔けていった。
* * *
七つの街壁の上で、『剣と盾を持つ白鎧の騎士』を描いた旗がはためいている。
常白の山峰が連なる『パスパ山脈』を東に、数千の支流を持ち水平の彼方まで広がる川幅を持つ『パスパ川』を西に、大交易路である『ドド帝街道』のハブとして、ベルパスパ王国の王都『パスパグロン』はあった。
オルギュニースタとの死闘から五日後。第七街壁の東に作られた煉瓦造の白い駅舎に、ルルヴァの乗る旅客馬車が到着した。
旅姿の人々が共に広い駅の中を進む。
路面電車乗り場や大通りへ向かう者達と離れ、ルルヴァは一人、駅舎裏の路地の方へと歩いていった。
路地には表の活況とは異なる穏やかな賑わいが流れており、それを挟むようにしてベルパスパ王国の古い様式の建物と、異国の様式の建物が混在して建ち並んでる。
ルルヴァは顔見知りに挨拶をしながら進み、『パスパグロン開拓者協会東区支部』と達筆で描かれた看板を掲げる、古い館の中へと入っていった。
老若男女、エルフから獣人まで様々な人種がホールの中にひしめいている。
黒樫のカウンターで名前を呼ばれた者が依頼の契約を案内され、または報酬を受け取り、それぞれの窓口もしくは併設されたカフェへと足を向けていた。
ルルヴァは少しそれを眺め、自分もまたカフェの中へと入る。
昼に近いためカウンターやテーブルは全て埋まっていた。
少し眺めていたくて、意識して気配を消したルルヴァに誰も気付かず、飲食の音とそれに混じる雑談の声が室内を行き交っていた。
「ん?」
「あ、ルルヴァ様!」
隅のテーブルから割烹着姿の少女が歩み寄って来る。
「ゼブさん」
「よくぞご無事で! 黒霧森に生まれた劫亢の座を単独で討伐に行かれたと聞いたときには、もう本当に肝が冷えました!!」
満面の笑みでゼブはルルヴァの帰還を喜ぶ。優雅にカップを傾けてコーヒー、ではなくほうじ茶を飲んでいた近衛騎士の制服姿の青年が立ち上がり、ゼブを押し退けて、ルルヴァの目の前に立った。
「ちっ、生きて帰ったか」
「ただいま戻りました兄上」
黒髪蒼眼の青年【パーナク・ベルパスパ】は眉をしかめて、不機嫌そうに言葉を吐き捨てた。
「私を兄と呼ぶな。忌々しい平民が」
「もうっ、主様!」
「ああそれと。S級に昇格後、すぐさま死地へ行かされた気分はどうだ?」
「とても疲れました。死ぬかなと思う場面も少しありましたが、まあその程度です」
「劫亢の座を相手にして随分余裕な物言いだな。流石は、と誉めてやろうか?」
「ありがとうございます。まあ何より」
笑みを浮かべて、ルルヴァは答えた。
「僕には飛燕王がありますから」
ベルパスパ王国にあると知られる、九本目の精霊武器。
作者を伝えるものはないが、しかし翡翠鋼の真玉を使い、他を遥か超越した技量でもって作り出された、その次元の違う完成度の高さから、伝説の【雲水自然】の作であるとするのが通説となっている。
「ふん」
「主様が本当に申し訳ありませんルルヴァ様」
「いえ、ゼブさんが謝ることでは」
「いえいえいえ! もう子供っぽくて、本当にお恥ずかしい限りです~」
平身低頭で謝るゼブをよそに、当のパーナクはそっぽを向いて、やたら猛々しく彫られた虎猫の置物へと視線を向けていた。
「ペローネの調子はどうですか?」
「学年首席の常連で教員連中がやたらと褒めていた。交友関係も良好で、あいつを慕う者も多いと聞いた」
ゼブが裾を引くも、フンッと鼻を鳴らす。
「つい先日には生徒会から役員の打診がされたという話だ。ま、いつ化けの皮が剥がれるか見物だがな」
見下すような笑みを浮かべるパーナクに、ルルヴァは心の底からの礼を口にした。
「ありがとうございます兄上。これも兄上が後見を務めて下さったお陰です」
「……平民が」
けっぷ。
「兄上?」
「行くぞゼブ!!」
「もう、飲み過ぎですよ主様……」
肩を怒らせて、周囲の呆れた視線を浴びながら、パーナクは去っていった。
そして入替るように係の者がルルヴァを呼びに現れ、彼女に案内されて応接室の扉を潜ると、記録官の男が待っていた。
「これが討伐の記録と魔獣の宝珠です」
ルルヴァは記録方石と透明な結晶体を彼へと渡す。
「お預かりします」
記録官の男は傍らに用意された箱型の機械に宝珠を置き、スイッチを押した。
計測用の針が狂ったように回転し、中右の画面では0から9の数字が飛び回る。
「魔力波動の固有性、その他諸々が黒霧森の主と一致しています」
記録官は十数枚の書類に手早くペンを走らせ、その最後の一枚を両手で丁寧に持ち、ルルヴァへと渡した。
「S級開拓者【青燕剣 ルルヴァ・パム】様。S級限定指定依頼の完了を記録官【砂礫のジガシャ】が確認しました。お疲れ様でした」
そして最後、ルルヴァはジガシャからある言伝を聞いた。
* * *
王都南区の広場にルルヴァはやって来た。
「手の込んだ事を。まあそれだけ……」
―― 時報の鐘が鳴る。
何もない空間から軍服の兵士達が現れ、ルルヴァは彼らから魔導剣の切先を突き付けられた。
「あら、抵抗しないのですか?」
大佐の階級章を付けた少女が首を傾げる。
「多勢に無勢だからね」
「潔い事。でもそれであなたに与えられるのは屈辱ですよ?」
兵士達が縄を持って迫って来るがルルヴァは抵抗しない。
そしてグルグル巻きの蓑虫状態にされたルルヴァは、地面に転がされてしまった。
「まあ何という事でしょう。我が国の若き英雄【青燕剣】が唯一人死地へ行かされ、群がる魔獣の相手をさせられた。どうして担当監督官たる私はそれを知らなかったのでしょうか? ねえ、S級開拓者殿?」
「えっと、その……」
「うん?」
「ごめんなさい」
ルルヴァの下唇を少女の右手の人差し指がなぞる。
目と鼻の先で自分を睨む少女の迫力に負け、ルルヴァは思わず顔を逸らしてしまった。
「反省が足りないようですね」
少女の魔法でルルヴァは宙に浮かび上がった。
「いらっしゃい。その可愛い顔が歪むのを見ててあげる」
* * *
「ハァハァ、凄かったわ」
裸身の少女が覆い被さるように倒れてきた。
頬を朱に染めながら、なお少女は長い金色の髪を振り、その唇でルルヴァを貪ってくる。
艶のある高揚した息使いが水音を響かせる。そして手繰り寄せた短剣が振られた瞬間、ルルヴァを縛る絹縄を断ち切られ、両手が自由を取り戻した。
両手で白磁のような肌を優しく抱き締める。
ぞっとするほどの美貌を持った少女、市民議会軍大佐【蛇王角 リクス・リーシェルト】が胸に鋭い犬歯を当ててきた。
「相変わらずSっぽいね」
右手でリクスの豊かな金の髪を梳くと、少女はその切れ長の紫眼で睨み付けてきた。
「あら、まだ生意気を言える元気があったの?」
ルルヴァは笑い、両手でリクスを撫で続ける。
それに頬を膨らませ、リクスはその身をさらに委ねて来た。
「黒霧森の劫亢の座討伐で、派閥の趨勢はエトパシアの側に傾くでしょう。馬鹿オヤジやストーカーとの最終決戦はあるけど、現状はパーナクのボケもやっと肩を並べられた、といった所でしょうね」
細く、しかし鍛えられてなお女を感じさせる右手に顎を掴まれた。
「喧しく囀る愚物どもを斬り裂くだけなら簡単なんだけど。政治、派閥、そして立場。ああ何と煩わしい事かしら」
両手を止めて、紫の瞳を見詰める。
「神殿を黙らせる条件は揃い、政治の盤面が整うまで後少し」
リクスに強く唇を塞がれた。
「これでやっとルルヴァの故郷を取り戻せるわ」
「リクス」
「ん?」
「ありがと」
「うん」
ルルヴァは瞼を閉じる。
脳裡に在りし日の故郷の姿が浮かぶ。
幸せだった日々、何も知らなくても許された時間。
鮮明に思い出せる街並みと、親しかった者達の顔。
だが故郷は、彼らは、二年前に起きた狂信者の襲撃によって炎の中に消えていった。
……。
……。