帳 一
いつも見ているルルヴァの部屋の天井があった。
少し冷たい空気は朝のもの。
瑞々しい光が雨戸から差し込んでいた。
懐かしさに、涙が零れていく。
飛び起きて寝間着から着替える。
窓を開ける。
東から差す金の太陽の光に、町の建物が輝いている。
眼下にはまばらに歩く人々の姿があり、新聞配達をする友達と目が合って手を振った。
喜びが、―― 何故か―― 溢れてくる。
居ても立ってもいられなくなり、窓枠に足を掛けて、三階から宙へと身を踊らせた。
「風よ」
一瞬でルルヴァの体を風が包み、鳥達と共に、町の中を翔けていく。
住宅街から商店街へ、煙を昇らせる工房街から神殿へ。
大鐘楼を一回りして、暗闇の消えた世界を飛び回る。
街壁に沿って飛んでいると、ラウルとジュリアの兄妹が走っているのが見えた。
一流の開拓者を目指す彼らは、いつもトレーニングに余念がない。
近付いて挨拶をするとラウルは「おう」とぶっきら棒に言い、ジュリアが「ルルヴァ!! おはよう!!」と全力で手を振り返してくれた。
それがとても嬉しくて。
ラウル達と一緒に走る為に風を解いて着地した。
……。
はっきりと目が覚めた。
人工の明かりに照らされた天井が目に映る。
「ここは?」
体を起こしたルルヴァが見たのは、広い天幕の室内、敷かれた絨毯、傍らにおかれた簡易テーブル、その上に置かれた硝子のポットとコップ。
そのどれもが覚えの無いものだった。
「僕は……」
頭の中の記憶がはっきりしない。
パムの町。
大鐘楼。
赤、夕暮れ?
火? 火!
白い巨人!
死、死、死、死、死、死、死、死!
聖銀の剣を持ち「くふふ」と嗤う黒衣の騎士!!
「!! 母さんっ、ペローネ!!」
掛けられていた布団を剥ぎ飛ばし、寝台から降りた瞬間、眩暈を覚えて膝から崩れ落ちた。
「く、この、」
鈍く、重く、体が自由に動かない。
魔力の巡りの異常な悪さも感じる。
(剣は?)
杖になるもの、武器になるものが無い。
顔中から汗が出て、悪寒が止ならなくなる。
(火)
灼熱の風に悍ましい臭いを含んだ煙を嗅いだ。
(爆発)
人が人でなくなった瞬間を見た。
(狼)
唸り声を上げてルルヴァを食おうと肌に牙を突き立てた。
(魔獣)
倒れ伏すルルヴァへと近付いて来る。
(騎士)
絶対的な強者。
(うっ!?)
強い眩暈に襲われ、強烈な不快感に全身を支配される。
腹の奥から、熱い何かがせり上がってくる。
「おぇえええええっ」
吐瀉物が絨毯へぶち撒けられた。
「えっ、えっ、えっ」
寝間着が汚れ、胃の中が空になっても涙は、嗚咽は止まってくれなかった。
* * *
「大丈夫ですか!?」
天幕に入って来た影がルルヴァの背中に手を当てた。
暖かい魔力がルルヴァを包み、癒していく。
―― 不快感が消えた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い呼吸を繰り返すルルヴァ。
その顔から噴き出し続ける汗を、柔らかいハンカチがふき取っていった。
「……っ、ありがとう、ございます」
「お気になさらないでください」
ルルヴァを支えるその少女は、美しい紫の瞳をしていた。
「ルルヴァ様、まだあなたが戦われてから僅かな時間しか経っていないのです。ですから今は安静にして、体を休めてください」
少女の生み出した霧がルルヴァの体と寝間着、そして絨毯を綺麗に洗って消えた。
「お食事をお持ちしました。さあベッドにお戻りになってください」
少女の後に続いて、食事を乗せたトレーを持つ木のゴーレムが入ってきた。
少女はルルヴァを横たえるようにして抱え上げ、その体を優しく寝台の上に降ろした。
「お食事の前に体をお拭きしましょう。服だけは洗って乾かしましたが、私の魔法の腕ではそれが限界で。申し訳ありません」
優しい手つきでルルヴァの寝間着をはだけさせ、その肌を露わにさせていく。
「う!?」
「お、お姉さん、大丈夫ですか?」
顔を伏せ、左手で口元を押さえた少女が首を横に振った。
「ご、御心配をお掛けしました」
一瞬だけ、少女の口元で黄金の洸が輝いた。
それはあまりの早業で、洸も掌から漏れることがなかったので、ルルヴァが気付くことはなかった。
「さ、さあルルヴァ様、ま、参ります!」
「よ、よろしくお願いします」
鬼気迫る優しい微笑みの迫力と、その絶世の美貌を持つ少女に肌を見られている気恥ずかしさで。
ルルヴァは息を止めるように目を閉じた。