九月二十一日 五
「ふぅ!!」
ナディアは地面を蹴り、口から紅炎を吐き出して飛び退る。
「夏天の宴に集いし精霊よ」
バルコフの左手が紅炎を防ぎ止め、秒間四千を超える沈香茶色の火球の散弾をナディアへと放つ。
「握り携える矛と共に舞え」
ナディアの明牙の紅刃が縦横無尽に弧を描き火球を斬り払う。
爆ぜ舞う火の粉の濁流と、それを受けて溶岩に変わる地面。
流れ弾の直撃を受けた木造家屋は焦滅し、石造りの家屋は蒸発する。
ナディアは火球を斬る流れの中で明牙の石突で地を叩き、地表すれすれを滑るようにして後退を続ける。
バルコフの放つ火球には対象に向けて軌道を変える効果が付与されており、仮に上空へ逃げていたならば、さらに下方からも襲われることになっていただろう。
「っ!」
左の火の流れ、その微かな盛り上がりに気付く!
沈香茶色の輝きを突き破り、巨大な木竜の、ヤツメウナギに似た口腔がナディアへと覆い被さって来た。
「紅灯す火の演舞で我が敵を供せよ」
許される限界量の魔力を明牙に込め、紅炎に染まる刃を竜の頭へ叩き付けた。
『キィイイイイ!!』
断末魔が響き、五十mを超える蛇身がのた打ち回り、抉り飛ばされた瓦礫と土砂混じりの溶岩が空を覆う。
数十tの質量が頭上から降下を始め、同時、宙に浮いたナディアを四方、そして下方から木竜達が襲う。
「【祇騎矛奏陣】」
ナディアの戦略級上級魔法が発動し、五千を数える火の戦精霊が顕現。
その手に握る矛で溶岩を斬り払い、木竜達を蹂躙。
火球の弾幕へと突撃し、三百の矛の切先がその間合いにバルコフを捉えた。
「やるじゃねえか」
「な!?」
―― 驚愕。
一瞬後に現れた光景は、ナディアの理解を超えたものだった。
バルコフの獰猛な笑みが眼前にある。
ミストルティン・ドラゴンを纏う右拳が襲い来る。
その後ろでは粉砕された戦精霊達が消えていく。
「おらあっ!」
槍の柄を割り込ませるのが間に合ったのは奇跡だったか。
バルコフのこの一撃は、神話に記された破滅的な災害のエネルギーを拳に凝縮したらこうなるだろうという、現実を生きる者には空想の中にしか存在しない悪夢の、具現化した終焉の定めであった。
だからもし、ナディアの得物が佳点の紅玉鋼で作られた明牙でなかったならば。
ナディアは肉片一つ残さずにこの世から消えていた。
(こっ)
明牙が軋む。
拳打を受ける直前に動いていた方向へ、破壊のベクトルを誘導する。
この全てが刹那に迫る時間。
そして。
空へ。
「のっ!!」
闇と星の領域へ向けて、音を遥か置き去りにした速度でナディアは飛ばされ続ける。
感覚の壊れた両手と、体に抱えるように食い込む明牙と共に。
「紅の熾火にして惑わす力」
温存し、練り上げ続けた魔力の全てを込めた詠唱。
「獣より堕とし 鳥より高みへ導く者よ」
心道位を超える実力者であるナディアをして、万全な状態の八割に相当する魔力を使う、最後の切り札。
「我が身を器とし 絢爛汚濁の泡沫の夢を描き出せ」
かつて魔族を率いる大将軍として、たった一人で二百万の軍勢に対した力。
―― 天顕魔法。
「【紅炎の鉄鱗 カハラズガバニラ】」
虚空に顕現した紅の炎纏う鉄鱗の大蛇が、山の如き巨大な顎門を開いて、ナディアを呑み込んだ。
『くっ』
蛇の背の皮が割れる。
古き姿を脱ぎ捨て、四腕に紅の肌、大蛇の下半身を得たナディアが姿を現した。
破壊のベクトルの拘束を破り、今のナディアに合う大きさに変えた明牙の切先を地上に向ける。
遠き大地の上で、狼獣人の笑みが深まるのが見えた。
『はあああああああ!!』
雲に峰届かせる山の如き蛇身、その超重に加わる落下の速度。
紅炎に超存在の力が混じった神炎が明牙より噴き上がる。
「殺り喰らえ」
バルコフは右手を手刀にし、右肘を後ろに引いた構えを取る。
その切先が向くのは天空。
ミストルティン・ドラゴンから緑の枝葉が現れ、剣の形を編み上げる。
バルコフの荒々しさとは違う、静謐な力がその緑の剣身から溢れ出す。
「ミストルティン・ドラゴン!!」
―― 紅と緑が交差した。
ミストルティン・ドラゴンを振り切ったバルコフが空に在る。
紅炎は緑に喰われ、紅槍は緑に砕かれた。
神威の姿を斬られ、地に落ちたナディアは、自らの血溜まりの中で、その意識を暗黒の中へ堕としていった。