花を一輪
花を一輪下さいませ
血潮のごとき紅い花
生きる証のその花を
わたしの脳裏にはいまなお消えることなく残っている
真白の布地に咲き誇る
鮮やかな真紅の生命の花
わたしには弟がいた。
色が白く聡明で、透き通るような穏やかさをもつ一つ違いの弟が、わたしはとても好きだった。
弟は生れ付き身体が弱く、肺を患っていた。
幼い頃から入退院を繰り返し、その頃には病院のベッドから動くこともままならなくなっていた。
仕事が忙しい両親の代わりというわけではないが、わたしは毎日弟のもとを訪れた。
そして、学校でのできごとや、道端の可憐な花、近所の犬、池にはった薄氷、吹く風の爽やかさ、新芽の匂い、ほかにもたくさんの美しいものやたわいのないことを土産話にした。
弟はいつでも嬉しそうに顔を綻ばせ、時折相づちを打ちながらわたしの話を聞いていた。
わたしも殊更大げさに笑い話を語って弟を笑わせた。
わたしの話を聞くときのあどけない顔との合間に、ふと見せる表情がわたしを不安にさせた。
すべてを諦めているのではない。すべてを、世界の、自らの、すべてを穏やかに受け入れているような透明な顔。
その表情をしている弟は、次の瞬間にも空気に溶けて消えてしまいそうだった。
弟が消えてしまわぬように、わたしは幼子のように弟にしがみつくこともしばしばだった。
弟は、そんなわたしの背中を宥めるように撫でてくれた。
わたしは、夜中に父と母が、互いに縋り付くように涙をこぼしているのを知っていた。
弟の病は重く、手術をしようにも弟の体力ではそれも望めないとのことだった。
弟はそのことを知らされていなかったが、聡い弟のことだ、どこかで気が付いていたのかもしれない。
苦しそうに咳き込む弟の背をさすり、口元に水をあてがうことしかわたしにはできなかった。
それでもわたしは、この穏やかな弟の傍にいたかったのだ。
そんなある日――わたしの15回目の誕生日を翌月に控えた日のことだった。
珍しく弟が年相応の何かを企む男の子の顔をして、わたしに尋ねてきたのだ。
「稀咲ちゃん、誕生日プレゼント何が欲しい?」
弟がわたしを名前で呼ぶのはいつものことだったが、何が欲しいか聞かれたのは初めてだった。
手先の器用な弟は、冬生まれなのに寒がりなわたしのためにマフラーや手袋などを編んでプレゼントしてくれるのが恒例だった。
「珍しいね、どういう風の吹き回し?」
「たまには稀咲ちゃんにちがったものをあげようかなって」
「マフラーも手袋もセーターも、わたしは嬉しいよ」
「うーん、なんとなく今年はそんな気分だったんだ。編み物はだいたいあげてしまったし」
ふと、悪戯心が沸き上がった。
「じゃあ、花が欲しいな」
「花?」
弟は心底意外そうな顔をした。わたしが花に興味を示したことはほとんどないからそれも当然だろう。
「そう。花。紅い花がいいな」
律儀者の弟のことだ。誰かに頼むなんてことはせずに自分で手に入れようとするだろう。
しかし、今は冬――病院の花壇には雑草すら生えていない。
「花か…うん、わかった」
弟に、わたしとの約束を守るために少しでも回復しよう、と思って欲しかった。
たとえ今年の誕生日に間に合わなくても、自分で紅い花を摘んできて欲しかった。
それは、わたしの祈りでもあったのだ。
しかし、その日から弟はさらにひどく咳き込むようになった。
絶え間なく続く咳のせいで呼吸が困難になり、白い頬に赤みがさした。
咳がやんでぐったりとベッドに横たわる弟の姿に、わたしは少し前の会話など頭から消えていた。
わたしにあったのは、ただただ大切な者を失うかもしれない恐怖だけだった。
そして迎えるわたしの誕生日。その日はとても寒かったのを覚えている。
自分が頼んだ花のことなどすっかり忘れ、いつも通りに弟に土産話を聞かせていた。
「でね――」
ふいに、弟が咳き込む。
身体を折り曲げ苦しそうに。
時折喉からひゅうひゅうと空気の漏れる音をさせて、ベッドを軋ませ身体を強張らせている。
いつもより苦しそうなその様子に、わたしは慌ててナースコールを押した。
ごほっ
濁った音とともに、弟の口をふさぐ手の隙間から溢れる深紅。
激しさを増す咳とともにシーツの上にぱっと飛び散り、真白を彩る美しい生命の雫。
弟から、生命が流れて落ちてゆく。
わたしは、その間際の鮮烈な色に、どうしようもないほど魅せられ縛られたように身動きがとれなくなった。
そして、弟が医師や看護士たちに運ばれていくのを茫然と見送るしかなかった。
あとに残ったのは、わたしと、そして弟の生命で染められた、鮮やかな紅のシーツだけだった。
そして――
弟が帰ってくることはなかった。
シーツは片付けられ、まるで弟がいなかったかのように病室は整えられた。
机の引き出しから、丁寧に包装されたわたしへのプレゼントが見つかった。
白いハンカチに、美しく咲き誇る大輪の紅い花。
弟の手作りであろう繊細な刺繍で形づくられているそれは、まるで、あの時に見た、弟の生命そのもので、
わたしは、あの時の真白の布地に咲いた花々こそが、弟からわたしへの贈り物であったように錯覚をおこす。
今でもわたしは紅い花をみるたびに思い出す。
稀咲ちゃん――
弟のやわらかなほほ笑みを。
2年ほど前に書いたので、かなり拙いです。
今でも進歩してないですが。