瑠璃溝ツユ
東京中央を出立して数十分、海岸線沿いを白波を後ろに作りながら進み続ける船上では八城と紬を含めて七名の男女がひしめいており、八城を中心に座らせ監視を徹底している。
紬は八城に対してやや後方に位置する、一〇一の隊長である弟切椎名の横に黙って座っている。
重く張りつめた空気の中の出港だったためか、未だに誰一人喋り出す事はなく処世術に鈍い紬も異変に気付いたのか小首を傾げた。
「……船の上なのに空気が悪い、これは八城くんのせい?」
「お前のせいだろ、今すぐお前が東京中央に帰りたいって駄々を捏ねれば、この空気も少しは良くなるんじゃないか?」
「そう……なら残念、改善策は無いに等しい」
「そうかよ……なら好きにすればいいだろ」
言葉少なく投げやりな八城の態度に、僅かに寂しげな表情を浮かべる紬に隣りに座っている弟切椎名は優しげな笑顔を紬へと向ける。
「大丈夫ですよ紬さん、八城さんは私達の対応に少し気が立っているだけですから、ねえ?そうでしょう?」
先に聞いた声が幻聴なのか、先とは打って変わってまるっきり態度が違う椎名と、付いて来てしまった紬に対しての苛立ちばかりが募る八城は言葉を返す事も煩わしいと遥か彼方の地平線へ視線を投げる。
寂しげな紬にヤレヤレと肩を竦ませた椎名は気を聞かせて紬へと声を掛ける。
身内以外には人見知りをする紬は人好きのする好青年とたどたどしくも言葉を交わして、一時間が経った頃
ようやく目指すべき111番街区が見えて来る。
先日来た時は船を泊める場所は無かったのだが、潮の満ち引きの関係なのか今回は小さな港に船を横付けし全員が降りていくと、新しく派遣されたのだろう二名の常駐隊員が八城を出迎える。
また一人また一人と船を降り、一〇一の隊員に引っ張られるようにして八城が船を降りていくと一人の常駐隊員と目が合った。
「お待ちしていました隊長……お久しぶりです!」
その声、その顔を八城は見た瞬間――八城は驚愕に目を見開いた。
聞いた事があり見た事がある、忘れもしない仲間の一人。
朗らかな笑顔と少し高い声、低い身長に幼顔が特徴的な八城と紬がよく知る女性……
いや、よく知るなどと言えば軽過ぎる言い方だ。寝食を共に生死を分ける激戦を駆け抜けた元八番隊の仲間であり、89作戦において八城と紬を除く唯一の生き残りでもある。
「お前、まさかツユ……なのか?」
記憶の中に居る彼女はもう少し肉付きが良く、髪は短く肩口で切りそろえられていたが、彼女の声と笑い顔は確かに八城の記憶にある瑠璃溝ツユに間違いない。
だが、八城の知る瑠璃溝ツユは大食の姉による八番隊壊滅に心を病み除隊の後に後継の育成に移ったと八城は聞いていたが、彼女は今八城の目の前に居る。
「なんでお前、別の番街区じゃなかったのか!?」
「はい!隊長!隊長の活躍を聞きつけ!瑠璃溝ツユ、恥ずかしながら帰って参りました!紬さんもご健勝そうでなによりです!」
敬礼に高らかと声を張り上げた彼女に気付いた紬は一瞬痛みを堪えるように立ち止まったが、彼女がよく知る瑠璃溝ツユだと分かるや否や、何も言わずに抱きついた。
「ちょ!紬さん!急に抱きつかれると驚いてしまいますよ!どうされたんですか!?」
驚く瑠璃溝だが、紬はより強く瑠璃溝を抱きしめる。
「あの日から……ずっと、ずっと謝りたかった。私が悪かったから……ずっと謝りたかったのに……ツユが何処かに行ってしまったから謝れなかった……」
89作戦時、紬は大食の姉に感染させられた隊員の頭部を全て撃ち抜いた。
八城が大食の姉への対処を優先できるようにという名目ではあったが、同隊の中には瑠璃溝の婚約者も入っていた。
八番隊内で同じ時間を過ごしながら、中を深めていった彼女の婚約者を紬は躊躇う事なく撃ち抜いた。
感染者として立ち上がった婚約者は助けられる状態をとうの昔に通り過ぎていたが目の前で婚約者を撃ち抜かれたツユの心労は計り知れない。
紬にとっても正当な理由があったとはいえ、それが紬にとって大きな心の傷となっていた事は確かだ。
「私は奪ってしまった。ツユの大切な人を……だから謝りたかった……」
「待った!待って下さい紬さん!そんな事言ったら私だって大食の姉にやられて現場でのびていただけなんです!紬さんに嫌な役を押し付けて、隊長に助けられて……挙げ句の果てに紬さんにそんなに謝れたら私の立つ瀬が無いじゃないですか!」
やんわりと抱きついて来た紬を離し、潤んだ紬の瞳とツユは視線を合せる。
「それに彼は私を庇ってあの結果になったんです。全ては私の弱さが原因です。だから紬さんは謝らないで下さいよ」
ツユは零れそうになる紬の涙を袖口で拭い、紬は一つ鼻を啜るとツユは満足そうに紬の頭を撫でると、紬は小さく頷きを返す。
ツユは頷く紬に満足そうに笑顔を作り、発育の良い胸を一つ叩いてみせる。
「それに!この数年体育座りだけして膝を抱えていた訳じゃありませんからね!私だってこの数ヶ月お二人のお力になれるよう鍛えて来たつもりです!ここは八番隊ではありませんが紬さんと隊長が居るこの場所で私はまだまだ頑張っていきたいと思ってますよ!」
89作戦後、最後に会った時は憔悴しきっており言葉を交わす事すら難しかったツユだが半年でここまで回復して見せたのだから驚きだ。
ツユは一通り現場にいる人間と挨拶を交わすと、人員名簿に目を通していくと顔を曇らせながら八城の元へと駆け寄って来た。
「すみません隊長、先日東京中央から送られて来たこの名簿に紬さんの名前が乗っていないのですが、何かの手違いですよね?」
「いや、手違いじゃない。コイツは今朝方の思いつきで遠征隊を辞めて来たらしい。なんでも柏木からの許可は貰ってるらしいから問題はないんだとさ」
「……ん?ついさっき紬さんは遠征隊を辞めて来た?それって紬さんが遠征隊を辞めて来たって事ですか?」
遂に心が壊れてしまったのか、同じ事を復唱しているツユに八城は諦めついでに一つ頷いて見せると『ハエ〜』と現実を受け止められないと、息を吐きながら再度名簿に紬の名前だけが無い事を確認する。
「紬さんだけは、遠征隊直轄から来たのではなくてですか?」
「……だから、さっきからそうだって言っているだろ?そんなに心配なら今すぐ東京中央に確認をとってみろ。研究所の通信設備ならできるだろ?」
研究所には即座に研究結果を共有できるように手厚い通信設備と発電設備が整っている。
八城の言葉にその手があったかと、驚きながらツユは後ろに控えていた女性隊員にワタワタと名簿を広げ、出し取り急ぎ確認を取るように指示を出す。
責任者として八城を出迎えている現状を鑑みるにツユが現状において常駐隊内での最高責任者を担っているという事で間違いないだろ。
「すみません、私も此処に赴任してから一週間も経っていないので、まだこの番街区に慣れていなくて……」
タハハと、明るく笑ってみせる人懐っこいツユは、三名しか居なかった女性隊員の中でもダントツに女性人気が高かったのを覚えている。
「しっかし、相変わらずで安心したよ。それにお前はこういう手際の悪い所も全然変わってないみたいだな」
「ほら!すぐそういう事言って!やめて下さいよ!私だってこれでもしっかりしようとしてるんですから!それに隊長こそ全然お変わりなく、ご活躍が私の番街区まで響いて来ていましたから……流石は私達の隊長です」
手際が悪くとも人柄で誰もがつい許してしまう天性の人たらしの節があるツユは健在の人好きのする対応で窮地の部隊に余裕を作るのが上手かった印象がある。
底身長に童顔でいつも笑顔を絶やさない彼女だからこそついつい忘れてしまいがちではあるが、忘れてはいけない事が一つ、瑠璃溝ツユは今年で齢が三十路に突入するれっきとした年上であるということだろう。
三十代には見えない若々しさ……というより、三十代には見えない幼さすら彼女の魅力の一部となっている。
「それにこの半年間は色々あったんですよ!隊長がいない間私も成長したんですから!ここでは私の成長を隊長にババンっと見せちゃうんですからね!」
「そりゃあいいな、じゃ早速後ろで待ってる隊員の報告を聞いた方がいいじゃないのか?」
八城が指差す先には先ほどツユが指示を出した女性隊員が待機しており、急ぎ確認が取れたらしい事をツユに伝え、やはりと言うべきか紬は本当に遠征隊を辞めて来たらしい事の確認が取れた。
「はい、確かに確認が取れました。そうですか……本当に紬さんが遠征隊を……でも、本人の意向であるなら我々は常駐隊に紬さんを歓迎するだけです!それでは隊長!現着直後で大変恐縮ではありますが、以降の代表引き継ぎをさせて頂きます!」
ツユは大きく息を吸込むと、秋晴れの空に向かって声を張り上げる。
「1210を持って瑠璃溝ツユより111番街区代表及び常駐隊指揮権を東雲八城隊長へ引き継ぎます!以降瑠璃溝ツユは常駐隊副隊長として東雲八城隊長の指揮下へ……東雲八城は以降の指揮権を受領しますか?」
不安気なツユの上目遣いに、意地悪をしたくなる気持ちをグッと堪え、ツユからかけられた言葉に対する定型文を思い返す。
「了解した。1210より指揮権以降を承認する。瑠璃溝ツユ及び111番街区常駐隊員は以降より俺の指揮下に入る事を認める。……改めて、これからよろしく頼む」
必然の再会を果たした八城はツユの変わらぬ態度に心に詰まっていた思い残しの一つが解けていく。
秋晴れの中の邂逅によって111番街区常駐隊隊長の就任は、八城にとって掛け替えのない元隊員との再会によって最高の始まりとなったのだった。




